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翌日、相変わらず身体の痛みや重さは抜け切らなかったが、幾分マシになったこともあり、幾つかの面会を受けるようにした。
実はあの総合実技訓練以来、かなりの数の求めがあった。体調不良を理由に断っていたものの、そうもいかないような人物からの話が重なったことで、少しづつ消化していくこととした。
まあ半分くらいは、いい加減寝台の上に縛り付けられる退屈から解放されたいという気持ちだったが。
話を受けてみて判明したんだが、どうにもアレ以来、俺の名前があっちこっちでとんでもないことになっていたらしい。
曰く、ハイリア=ロード=ウィンダーベルは古の神にも等しい力を手に入れたと。稲妻にも似た青の鉄槌は山一つも消し飛ばし、その怒りに触れたせいで街一つがたった一夜で消失したとか、歩く度に雷鳴が轟き周辺の民家が灰塵と化したとか、俺の声を聞くとあまりの力強い響きに常人では失神してしまうとか、なんだ俺は破壊神か魔王にでもなったのかと突っ込みたくなるようなものばかりだった。
そしてついた二つ名が雷帝。
デュッセンドルフ魔術学園の総合実技訓練は、危険を承知という前提で一般人にも観戦が許されている。娯楽の不足する時代でもあるから、これは非常に人気で、学生とは違って金が掛かるにも関わらず、毎回大勢が見に来たがる。まあ、ローマ時代のコロッセウムといった所か。
貴族連中を見世物にすることへ反発があるかと思いきや、自らの威信を示す機会としての扱いが成されているのは、やや強引な解釈でもあるが。あれ、絶対賭博の対象になってるんだろうな。
ともあれ、そんな連中にとって、俺があの時見せた高高度からの破城槌落下はこの上ない刺激となった、ということらしい。
まだ数日しか経過していないにも関わらず、この話は各地に知らしめられ、数々の小説や絵画が生み出され、さる高名な音楽家が是非とも曲を送らせて欲しいとまで言ってきているそうだ。
先述したが、この時代、人々はある程度の生活水準に達しており、特に貴族や上級民ともなれば暇が多い。過酷な労働環境へ放り込まれる下級民も、やはり奴隷の存在によって多少の優遇があり、余裕があるんだ。
それに対して娯楽というもの少なさは、いっそ殺人的でもある。
ウィンダーベル家の領土では、主に音楽を中心とした娯楽文化を奨励している。この時代、多くの貴族は率先して数々の芸術家や音楽家を抱え、その活動を支援している。文化を発展させ、支えることこそが貴族の義務である、と言わんばかりに。
つまり、人々は娯楽に飢えている。
退屈こそが最大の拷問であると俺自身感じてもいるし、そんな中、遠い地に凄まじい魔術を生み出した人物が居る、しかもそれが高度一万メートルから破城槌を叩きつけるなんて大スケールな話を聞けば、まあこうなるものかもしれない。
未だ文明レベルが未熟とはいえ、この『幻影緋弾のカウボーイ』世界には魔術がある。日本にはかつて飛脚というものがあったが、『剣』の術者であればその数倍に及ぶ速度で情報や物資を送ることが出来る。
『剣』の術者は各属性の中で最も多い。魔術の確かな習得には相当な訓練が必要ではあるが、ある程度の知識があればそれとなく伝えられなくはない。そうやって魔術を習得した一般人が運び屋を営むのは、この世界ではそう珍しくなかった。
『弓』か『剣』を習得すれば野山で獣を捕るのにも苦労しないし、都市や街・村なんかでの生活を嫌った者たちが人里離れた土地でひっそりと暮らす話は、俺も小説で幾つか読んだ。
ともあれ、雷帝、なんてこっ恥ずかしい名前を付けられた俺は、複数の飛脚(でいいか、もう)に自らを運ばせてやってきたらしい幾人かの大貴族や軍の偉いさんと面会した。
貴族らの殆どは、俺を描いた小説やオペラなんかで感激し、早くもファンとして名乗りを上げに来た、というものだった。社交界に慣れた者たちの話術は確かに素晴らしく、退屈しているという俺を楽しませる各地の情報を聞かせてももらえ、これは中々に役立った。
続く軍人らとの会話からでもはっきりしたが、現在、大陸内へ侵攻中のフーリア人が動きを潜めており、束の間の安息が訪れているんだとか。
新大陸での略奪、人身売買を発端として起きた俺たちとフーリア人との戦争は、おどろくべきことにフーリア人の優勢で事が進んでいる。まだギリギリ新大陸内に橋頭堡が築けているものの、こちらにまで侵攻してきた彼らは既に複数の国家を呑み込み、その勢力範囲を広げている。
くり子が巻き込まれたのはこの流れだ。
表向き安定しているように語られる戦争の状況は悪い。
内陸部に位置するここで奴隷差別が過激化し、その急先鋒であるイルベール教団なんて連中が蔓延っているのはそういう理由だ。
奴隷となった彼らを傷付け、下と見なければ心の安定を得られない。なまじ情報の速度が早いだけに、事実を知る貴族にはそういう者も少なくなかった。そもそも、なぜ魔術も使えないような連中に負け続けるのか、それさえもこの大陸の人間は分かって居ないんだから。
「お疲れ様です」
「冷たい水を……用意がいいな」
一通りの面会を終えて、しゃべり疲れた俺にメルトが水を持ってきてくれていた。銀のコップになみなみ注がれたソレを飲み干すと、腹の奥が心地よく冷える。入れ替えるように熱い吐息が出た。
会う者たちの種類もあって、彼女にはずっと奥に下がって貰っていたが、そんな時でも抜け目ない。
「どうでしたか?」
問い掛けるメルトの声は少し気遣わしげで、俺は内心を見透かされているような気分で苦笑した。
「……難しいな」
平和な場所で生きる学生とばかり触れ合っていたからか、少々楽観してしまっていた。くり子との話も、やはり影響していたんだろう。
俺に対してこの上なく好意的に接してくる、気安い関係も築けそうな貴族も居たが、その彼ですらフーリア人への反応は微妙だった。
「奴隷解放……父上から家督を譲り受け、自分の領地だけで上から抑えつけるだけなら出来なくはない。だが、根本的にフーリア人を人と認めていない者たちにそれを実感させるのは難しい。そもそも取り締まる側に差別意識が根付いていると、いくら俺が一人で訴えた所で、目の届かない場所で行われるようになるだけだ。より強力な監視体制を組み、強制することで徐々に馴染むこともあるが……それは流石にな。枠組みだけじゃいけない……より個人で繋がる機会を増やして……そして………………はぁ、どうすればいいのか分からない」
二十一世紀ですら、差別は根絶されていない。
個人の権利が尊重される時代でさえ、差別意識を持つ人間を改心させることは容易じゃない。対立が続いているなら尚難しい。
汝、隣人を愛せよ。そう教えられた者たちでさえ、いや彼らこそが人を売り買いするなんていう、想像を絶する愚行を行っていたんだ。別にそれが彼らだけのものじゃないのは分かっているし、同じ状況にあれば自分たちが行っていた可能性を俺は否定しない。
自分たちだけは違う、という考えは差別の萌芽だ。
「差別の根幹に根ざしているものが何なのか。メルトはどう思う?」
それを受けてきた本人は、俺の問い掛けに悲しそうな顔をする。
「私は……」
初めて会った時、彼女は虚ろな目をしていた。奪われることに納得し、受け入れてすらいた。
差別の原因である浅黒い肌に指を食い込ませ、静かな声で言う。
「最初の頃は、止めてと、何度も言っていました。理不尽なことをされて怒る気持ちもありましたし、何度か……反抗しようとしたことも」
彼女はフーリア人独特の魔術が使える。それを使えば一人二人をどうにかするのは訳無かっただろう。けれど、しなかった。
「私が反抗しようとしたり、泣いたりすると、余計に暴力を振るわれました。その内、別の人が強く抗議して、それで……」
殺された……。
「それを見た時、不意に何もかもが遠い景色に見えました。私に暴力を振るう人は、私個人を見ようとせず、私の取った行動の何もかもが冷たい壁に遮られているように感じられて……いつの間にか、ただされるがままになっていました」
人は己を生かそうとする。
かつて凄惨な差別と非道を重ねたとされるナチスでは、集めたユダヤ人の目の前で、まず数人を殺して見せる、という手法があったらしい。あまりに強い死を感じると、人の心は簡単に屈する。仮に拳銃を隠し持っていたとして、集団で一斉蜂起すれば助かったとして、そういう理屈だけでは覆せない本能の部分で己を守ろうとするんだ。
やがて、そういう自分を冷静に眺めるようになり、自己正当化の本能が更に状況を認め始めさえする。
「メルト」
思わず俺は手を差し出していた。
それを見たメルトは暗い表情から一転、初めて会った時のような、少しだけ幼さを感じさせる笑顔を浮かべて俺の手を取った。大切そうにぐっと握る。俺が握り返すと、更に嬉しそうな顔をする。
「ハイリア様…………アナタが、冷たい檻に引きこもっていた私に手を差し伸べて下さったんです。私の言葉に応じてくれて、私を見て、私に触れて下さいました。嬉しかった。自分は孤独なんかじゃないと思えて、もっと繋がりを得たいと心から思えて…………、ぁ」
う、うん……まあ、その話題は脇に置いておこう。
いい気分で語っていたメルトが気まずそうに目を逸らして軽く赤面した。その表情は、美しい顔立ちと相まってこの上なく可愛いと思うんだけど、頭の中に浮かぶ内容もあってか別の部分が反応しそうになる。
「人が人を尊重し、認め合う。それは当たり前のことなんだ……」
二十一世紀の日本なら子どもでも知っている。大人になってそれを忘れる者も多いが。
「それを当たり前と言えてしまう方は、私たちフーリア人の中にさえ居ませんでした」
「全ては出会い方を間違えたからか」
新大陸の発見が、もっと違った形で成されていたのなら、ここまで酷い事にはなっていなかった筈だ。
「すまない。折角気を使ってくれたのに、重い話ばかりになる」
「いえ。ご迷惑だったかもしれませんが、心の内を話せたのは私にとって、とても嬉しいことでした」
「くり子をないがしろにするつもりはないが、お前は俺にとって最初の協力者だ。これからも頼りにしているぞ、メルトーリカ」
滅多に言わない、愛称ではない彼女の名を呼ぶと、メルトは心底驚いたように目を開き、視線を泳がせたかと思ったら、いきなり水差しを載せてきたカートからトレーを取ると顔を隠した。
「……メルト?」
「はい」
返事は素早かったが、顔を隠したままだ。
「どうかしたか? 声が震えているが」
「いえ」
「大丈夫か?」
「はい」
「疲れてたり、体調が悪かったら言うんだぞ? この数日、お前には相当な負担を掛けてるんだ。休みが欲しければ遠慮せず言ってこい」
「ありがとうございます」
「メルト」
「はい」
簡潔な返事ばかり返ってきて、んーと唸る。
「……もしかして、名前呼ばれて照れてる?」
「いえ」
「なら顔を見せてくれるか?」
返ってきたのは沈黙だった。
トレーの裏から深呼吸する音が聞こえてくる。
俺は準備をしながらのんびりメルトが落ち着くのを待った。開け放っているバルコニーへの出入口で白のカーテンがふわりと広がる。しばらくして俺の頬を風がやわらかく撫でた。風には、草の匂いが強く混じっていて、そういえばもう夏か、なんてことを思う。
欧州系の土地でありながら『幻影緋弾のカウボーイ』世界には四季がある。不思議なものだが、そこは作品としての好みなんだろう。季節の変遷によって背景画も変わっていて、中々に見事なものだったと記憶している。
さて、そろそろメルトも落ち着いたかな?
おずおずとトレーを降ろし、表面的には普段通りな顔が見えた。
実家のメイド長から厳しく刻み込まれた楚々とした表情。
「失礼しました」
「うん、今日も可愛らしい顔をしているぞ、メルトーリカ」
「っ――!?」
途端、メルトは目を僅かに開いて赤面し、しかし醜態を晒すまいと必死に堪え、口を引き結び、目元を押さえつけようと顔を強張らせた。
「ふ……ハハハハ、アハハハハハハハハハハッ」
耐え切れなくなって笑ってしまった。
俺が大笑いを続けていると、メルトはまんまと不意をつかれた事に悔しそうな顔をした。顔を見せろと言われたからか、手にしたトレーは行き場もなく揺れている。
「っ……すまんな。お前が慌てる姿は滅多に見れないから、少し調子に乗った。しかし、出会った頃はこんな感じだっただろう? 最近のお前は完璧過ぎる。もっと俺に醜態を晒せ。そして慌ててみせろ」
まあ、実際に失敗をすれば懲罰を受けなければいけないから、見せるとしても俺以外に話が伝わらない状況に限るが。
メルトもそんなことは分かってる。
昔、と言ってしまうほど前でもないが、懐かしい話を思い出してふざけたくなった。そして俺は、メルトが奥の手を隠し持っていることに、一欠片も気付いていなかった。
「ハイリア様」
「どうした? 慌てた姿でも見せてくれるのか?」
「いえ」
カート下段が開かれる。
そこには、桶いっぱいの水と、幾つかの手拭いがあって、
「身体を、お拭き致します」
「いやだ」
即答するとメルトはこの上なく満面の笑みを浮かべて言う。
「ダメです」
「やだ」
「ハイリア様」
「はい」
笑顔固定のまま沈黙する。
いや、俺だってお風呂大好き日本人なんだし、一日一度は湯に浸かりたいと思う。百歩譲って身体を拭いてもらうだけならいい。香水で誤魔化していたけど臭いは気になるし、拭いてもらえるとかなりすっきりする。
だけど、ある部分に関しては譲れない。
「嫌だぞ? 仮にやるなら下着はそのままだ」
「我儘を言ってはいけません。もう三日もそのままです。ハイリア様のお身体に何かあっては、私たち使用人全員の首が飛びます」
比喩でも冗談でもないから笑い飛ばせないんだが、それでも男の子には守らなければいけない尊厳というものがあってだな。
第一、そんなに放置してるからこそ嫌なんじゃないか。
汚い話だが本気でこんな可愛い子にアレを晒すなんて嫌だ。トイレだってこっそり夜中に行ってるくらいなんだ。一日中ずっと我慢するのは辛いし、動くのは痛みが激しいんだけど、部屋に置いて行かれた色々な人の尊厳を犯す道具であれやこれやして、翌日それをメルトに見られると思うと死に物狂いでトイレへ向かった。
ところが今日のメルトは俺の想像を上回っていた。
事情も知らずに見れば男なら一瞬で恋に落ちるだろう綺麗な笑顔で、俺のアレを拭かせろと要求する少女は、奥の手に続けて切り札まで投入してきた。
「公式試合の当日、私の身体を余す所なく見たじゃありませんか」
ぶへらばらぽぺっぽっぱ!?
「ぐっ、がっ!? ぁ、っ!? な、なななな!? おおおおおおお前っ、それを言うのか!? あれはその! その……! 痛っ、た、ああああああ!?」
「ご安心下さい、これでお互い様です」
「メルトさん!?」
「さあ、お身体の隅々まで綺麗に致しましょう。えぇ、隅々まで」
「待てっ、落ち着くんだメルト! いやメルトーリカ! お願いします!」
「私、あんな所まで見られたのは初めてだったんです」
「それは……! あの、その……! ~~~~~~~~~~ッ!」
痛みも忘れて身体を捻り、寝台の上で転げまわる俺を見て、今度はメルトが心底楽しそうに笑い出す。そんな姿を見ても俺にもう余裕はない。身体に張り付いたたった一枚の菩提樹の葉によって弱点を得たジークフリートが、ハーゲンにそのことを知られてしまった為に死んだように、俺にとってその事実は致命的過ぎた。
「そ……その、メルトサン?」
「はい」
いい笑顔だった。
「……怒ってます?」
「はいっ」
とてもとても、いい笑顔だった。
※ ※ ※
アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
※ ※ ※
ぐすん。ぐすん。
本当に隅々まで見られた。
隅々まで拭かれた。というか触られた。すげー触られた。いろいろ大変なことになった。それまで見られた。俺だって男の子だもん、仕方ないじゃん。
……もう死にたい。
いっそ今から死のうか……辞世の句はどうしよう、メイドにあれやこれやを丁寧に丁寧に拭かれて綺麗にされてしまってあまつさえあんなことになったのまで見られてしまって恥ずかしいから死にます父上ごめん。これでいいか。全然句になってないけど……。
アリエス……お兄様はもう昔のお兄様じゃないんだよ……汚れちゃったんだ。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………………………………」
いつの間にか夜だった。
メルトの姿はもう見えない。というか明日からどうやって顔を合わせればいいのか分からない。いっそ逃げてしまいたかった。
なんだか必死に悶たり逃げたりしてたら、徐々に身体が馴染んできた気がする。
当日のアレもたしかそんな感じだった。じっとしてるより動いた方が回復が早かったりするんだろうか。
あーもう恥ずかしい。
そんなことを思って寝返りをうったら、窓側になる寝台の脇に、フロエが膝を抱えて座っていた。
「…………」
「…………」
っっっ、っくりしたぁぁぁぁあああああああ!
あんまりにも驚き過ぎて声も出なかった!
自宅でリラックスしながら身悶えしてたら好きな人が居たなんてどんな展開だ!
なまじ肌が浅黒い上に真っ白な髪が薄闇の中で浮かび上がってて、本気でどんなホラーだよと思った!
ど、どうしよう。というかなんでいきなり人の寝室にいるの!?
「怪我…………大丈夫?」
声を聞いた途端、日差しを浴びたように身体があたたかくなった。
気持ちが落ち着かず目線を逸らす。
「あぁ、平気だ……っ」
横になったままというのもなんだから身体を起こそうとして、予想以上の痛みに声が漏れた。するとフロエはそっと手を出して俺の額を抑え、寝台へ押し付けるようにしてくる。触れた掌が異様に熱かった。
深く沈み込んだ枕に包まれながら、今が夜で良かったと心底思う。
「魔術で受けたフィードバックが大き過ぎて、収まりかけてた毒の症状がぶり返してきてるんだよ。身体が弱ってると、悪いものをやっつける力も弱まるから。これ、薬だから。なにか食べてからすぐ飲んで」
紙袋から取り出した包みを見せて、それを寝台の脇へ置く。
今まで火照っていたのが嘘のように、一瞬で俺の身体が冷えきった。頭の奥だけが熱病でやられたように滾っていて、わかりきっていること訪ねてしまう。
「そんなものをどこで手に入れた。イルベール教団謹製の毒の、解毒剤を……!」
フロエはただ笑って、その笑顔を月の光で出来た影に隠しながら、小さな吐息を一つつく。
「ヴィレイ=クレアラインから貰った」
思わず痛みも忘れて胸ぐらを掴んでいた。支える手が震えている。それでも手を離せず、じっと彼女を睨みつけていた。
「そんなものを貰って俺が喜ぶとでもおもったか……! ふざけるな……お前は、自分をなんだと思ってる! 俺がっ! …………くそ!」
振り払った手が紙袋を、その中身を盛大にぶちまけた。
それでもフロエは少しだけ残念そうにするだけで、
「薬、ちゃんと飲んで、身体治して」
「っ、なんなんだお前は」
「それ、私が一番聞きたいよ」
言って彼女は膝を抱き、寝台を背もたれにして腰掛けた。顔が見えなくなる。それはこちらも見られなくなるということで、俺は反発するように寝返りをうって背を向けた。
「用が終わったのなら帰れ。こんな所を誰かに見られたら、お前は間違いなく殺される」
奴隷階級の、しかも自由民であるジークの奴隷に過ぎない彼女が、侯爵家の屋敷に忍び込んでいるんだ。出入りで見付かることはそうそうないだろうが、メルトに見られると少々厄介だ。
「あぁ……っと、用件はもう一つあって」
背中越しにフロエの声を聞く。
「なんだ」
「資料集め」
そういうことか。
「私……ジークも一緒に、探しものをしてるの。でも、全然分からなくて、昔の記録とか、そういうの、無いかなって。ジークも怪我で動けないのに無理しようとするから、せめて情報集めだけでもしようかなって」
「……集めておく」
いずれは必要な展開だった。
予想以上に早いが、コレに関しては正規の流れでもある。
ハイリア=ロード=ウィンダーベルに敗れたジーク=ノートンは、長い療養を経て再び調査を始める。その時、彼の行動を大きく変えるのがフロエの齎した情報だ。
今までの場当たり的な調査から一転して、情報から目的のものを追うことで、ここまでの√では常に終盤となっていたアレへの接近が早まる。そこから一気に物語が別の方向へと切り替わっていくんだ。
いや、その前にもう一つ、重要なイベントが存在するが。
背後で立ち上がる気配があった。
「ありがとう……」
「一週間もしたら、今度は表から入って取りに来い。ちゃんと家の者には伝えておく。無駄なリスクは犯すな」
「薬、ちゃんと飲んでね」
返事はしたくなかった。
飲めるか、あんな薬。
そう思っていると、寝台の上に乗りかかる動きがあり、唐突に肩を引かれ、
「ぁ……」
しまった。
そう思った時には俺の口は塞がれ、触れ合った唇の向こうから水と何かの薬が流し込まれる。水は反対側に置いてあった水差しのものだ。強張って抵抗しようとする動きを封じる為か、頭と身体が抱きしめられる。強引に押し込まれ、肉体の自然な動作としてそれらを飲み込んだ。
飲み込んだ後もほんの僅かな時間、俺たちは唇を重ねていた。
やがて身を離し、どこか冷めた目で俺を見つめていたフーリア人の少女は、寂しそうに笑うと、一歩、二歩と距離を取った。
「ちゃんと飲まないと死ぬよ。その毒は体内で増殖する。しっかり死滅させておかないと、また無茶をする度に苦しむことになるんだから。だから、ちゃんと飲んでね」
「……ああ」
もう、意地を張る気力ごとへし折られた気がする。
俺が恋した女の子は、フロエ=ノル=アイラという奴隷階級の女の子は、窓際の月明かりの中で、とても綺麗に微笑んだ。その笑顔はごく自然なもので、まるで光の中に溶けてしまいそうなくらい輝いて見えた。
「ありがとう」
そう言って彼女は窓から外へ飛び出していった。
落下の音は聞こえない。
俺は、彼女が消えていった泡沫のような光景を、その残り香を求めるように、いつまでも眺め続けていた。




