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01


 目を覚ますと目の前に美少女が居た。


 月の光を集めたかのような黄金の髪に、静かな朝に見る湖水の深みを湛えた碧色の瞳。ふわりと広がる睫毛は長く、切れ長の目にはどこか幼さがあって、それは少女が持つ子どもらしい太陽のような明るさが滲み出ているんだろうと思わせた。だというのに胸元の大きな膨らみや唇の艶やかさが女としての魅力をこれでもかというほどに主張し、悩ましさ以上に切なさを感じさせる。それはまるで、沈みゆく夕焼けを見るかのようで。

 そこまで考えて俺は驚愕した。


 なんてことだ。おーのう。


 彼女の美しさで世界は完結している……!

 月夜に始まり、朝の静けさを思わせ、昼の太陽に心暖められ、陽の沈みゆく空に胸を焼く。人が一日に体験する自然の美しさを前に、俺は懊悩を禁じ得なかった! おーのう。


「………………」


 おーのう。


 ともあれ、そんな少女が俺を心配そうに見ていた。


「もう、どうなさったのですか、お兄様?」


 お兄様?


 そうだ…………彼女は俺の妹だ。いや、妹ではない筈だ。

 俺は……私は? 一度顔を両手で覆ってこめかみを揉む。それから慣れた手つきで眼鏡のツルを押し上げようとして、なにもないことに驚いた。意識の無い間に外れてしまったのかと少し慌てる。重度の読書好きである俺は非常に目が悪い。眼鏡なしでは一メートル先さえ霞んで見えるほどに。

 いや、と。


 視線を巡らせると、壁に埋め込まれた本棚に目が留まった。

「見える……」

 タイトルだけじゃない。

 十メートルほども離れた本の、装丁の細やかな飾り一つ一つに至るまでつぶさに見て取れる。

 見え過ぎて頭の中に溢れた情報の整理が追いつかないほどだ。


 あまりに本棚を凝視していた為か、先ほどの美少女が俺の正面へ躍り出た。最初は子どもっぽく膨れていたのに、俺の顔を見た途端にまた眉を落とす。

 そんなに心配されるような顔をしていたんだろうか。

 見つめ合っていたのは数秒だろう。

 不意に俺は少女の名を思い出した。

「アリエス……?」

「……はい」

 そうだ。見覚えがある。俺は彼女を知っている。


「アリエス=フィン=ウィンダーベル!?」

「は、はい。その通りですお兄様」


 突如俺が大声を上げたことに少女は、アリエスは驚いたようだった。

 驚いて胸元へ手を寄せるその仕草でさえ愛らしい。いや、


「いや、待ってくれ! 君は本当にアリエスなのか!? それにお兄様って、俺は別に君の兄なんかじゃ……」


 混乱のまま口走った言葉にアリエスの目が大きく見開かれた。

 まるでこの世の終わりにたった一人生き残ってしまったかのような孤独感が、絶望が瞳に浮かび上がる。

 慌てて何かを言おうとするも、動揺が思考を上塗りしていた。


 それでも、彼女は努めて冷静に、心持ちか細い声で問い掛けてくる。


「私は、お兄様に何かしてしまったのでしょうか。お兄様ともあろうお方が無意味に私を傷付ける筈もありません。でしたら、どうか私を罰して下さい。理由も分からずお兄様から兄妹ではないなどと言われると、この身は今にも張り裂けてしまいそうですわ」

「だ、大丈夫だ!」

 今度は理解するより先に、本能が雄叫びをあげていた。

 瞳を濡らす雫の輝きが、自分が何をしたのか教えてくれる。彼女を悲しませた。その事実に気付いた瞬間、俺の心は杭を打たれたような痛みに支配された。思考よりも先に言葉が飛び出す。それを口にしている間、俺は人形劇でも見ているように自分を観察していた。


「アリエス。君が俺に何かをしたということはない。問題なのは俺の方だ。一体何があったのか俺にも分からないが、今少し、いやかなり混乱してるんだ。決して君に非はないと誓う。だから少し時間をくれないか? 落ち着いて頭の中を整理したいんだ」

「本当に、私のせいではないのですか?」

 彼女を安心させたい。そういう想いに心が満たされる。

「俺を信じてくれ」


 彼女は、アリエスはじっと俺を見つめ、不安そうな目を閉じた後、力強く頷いた。


「分かりました。少しお庭で花を観てまいります。もしよろしければ……」

「時間は掛かるかもしれないが、必ず行こう」

「はいっ、お待ちしておりますっ」


 扉を閉める瞬間まで精一杯の笑顔を見せたアリエスの健気さに、俺は混乱とは別の感動に打ち震えていた。


 流石ランキング二位ヒロインは可愛いなあ!


 ひとしきり感動した後、改めて俺は腰を上げ、窓の前へ歩いて行った。

 身体が軽い。いや、肉体がしっかりしている分、重い筈なのにどこまでも駆けていけそうな力強さがある。

 そして窓硝子に映った自分の顔を確認した俺は、何度目かになる驚きにしばらく呆然とした。


 誰だこのイケメン……。

 いや違う。俺はナルシストの類じゃない。そしてこの顔にも覚えがあった。


 ハイリア=ロード=ウィンダーベル。

 アリエス=フィン=ウィンダーベルの兄で、男性キャラクターでありながら人気ランキング四位にその名を刻んだ男である。


 それから一時間ほど掛けて俺は理解した。

 ここは、一年ほど前に発売されたギャルゲー『幻影緋弾のカウボーイ』の世界であることを。俺はその中でも主人公のライバルキャラクター、ハイリア=ロード=ウィンダーベルになっていることを。


「夢……か?」


   ※  ※  ※


 この世に夢ほど理屈の通らないものはない。

 記憶の整理であると同時に、心理学においては時にストレス解消の意味も持つ。そこに整合性など必要ない。スパッと気持よくなれればそれでいいのだ。俺の中にある感情が俺を置き去りに暴れだしたのも、夢であるならば納得がいく。夢なのだから、他の誰が納得せずとも俺が納得できればそれだけでいい筈だ。特にこのゲームは俺がつい最近までハマり込んでいたもの。望む世界を夢の中で想像して楽しむというのはそれほど珍しくはないと思える。


 この考えを何よりも助長したのが、俺の中に一欠片の不安感もないということ。

 まるで住み慣れた故郷へ戻った時のような安堵が俺を満たしていた。

 見知らぬ世界へ放り出されたのであれば、どうすればいいのか分からず立ち尽くしていただろう。仮によく知る世界であってもここまで落ち着いていられるというのはおかしい。姿形が変わっていて混乱しないなんて、まあ夢ならよくあることだ。


 事の整理を終えた後、俺は折角の明晰夢を無駄にしないよう、好奇心を満たすべく歩き回ることにした。


 ここには見覚えがあった。ハイリアの故郷とも言えるミッデルハイム宮殿だ。かつては一国の王都でもあったここは、現実なら世界遺産にでも指定されそうな見事な造りで、あっという間に俺のテンションは観光気分へ切り替わった。


 窓から見えた外装は白と金と水色の、これまた見事な色合いの美しい宮殿。大きさは、東京駅くらいはあるだろうか。左右対称に造られた庭園を含めれば更に広い。ドーム状の屋根には天使やら鳥やらの石像が幾つも寄り集まっていて、どうしてそこまでと驚かされる。


 もっとよく見てみようとバルコニーを探して出た。が、宮殿を眺めるより、目の前の景色に俺は心奪われた。


 風が吹く。

 その先に広がる地平線に感嘆を漏らした。雄大な草原は陽の光に満たされていて、青々とした輝きが俺の網膜を焼く。大地の宝石だ。

 手前側には丘が多い。その丘の間を縫って、石畳で舗装された大きな道が草原へ抜け、ずっと向こうまで続いていた。こんな時代にしっかりと舗装された道が存在するのは驚きだ。幾つかの荷馬車や徒歩で進む人々が見える。道から大きく外れた森の近くでは、羊を連れた羊飼いらしき人影もあった。丘の上には幾つかの風車があって、重みを感じさせる動きでゆるやかに回っていた。彼らの休憩所ともなるのだろう道半ばに小奇麗な小屋の姿が見て取れる。

 視線を流していくと、麦畑の広がる一帯に気付いた。

 一際強い風が吹いたのか、黄金色の風景に波紋が広がっていくのを目にした時、俺の鼻孔の奥に土の匂いが広がった。


 どれほどの時間か、俺は呆然と世界に圧倒されていた。

 やっとついた吐息には熱がある。全身の細胞が自然への敬意で震えていた。

 山岳信仰とは少し違うが、これも自然に対する信仰なのかもしれない、そんなことを思う。


 離れられなくなりそうだったから、しばらく外へ背を向けて心を落ち着ける。

 手が触れているバルコニーの柵にすら彫刻らしき感触があり、もうどれだけ凝っているんだと笑ってしまった。

 再び背中に風を受け、心地良さに目を閉じた。


 そうして俺はミッデルハイム宮殿の中へと舞い戻った。


 宮殿内では多くの人とすれ違った。

 なるほど、ここはこういう間取りになっていたのかと関心しながら進む姿は、ややもすればみっともなく映っただろう。けれど時折すれ違う人たちは壁際へ寄り、深々と頭を下げて俺が通り過ぎるのを待つ。


 折角だからと服装を確認してみたりもした。

 中世ヨーロッパ、それもロココ調のデザインが流行った時代と言えば、ぶっちゃけ現代の美意識ではドン引きするような格好が多い。一昔前に盛りなる髪型がファッション誌を賑わせたものだが、その発祥はこの時代とする風説もあり、女性の髪型は現代アートじみた破壊的なモノが貴族では流行っていた。髪と装飾が顔の三倍なんぞ余裕の行いだ。その気合いの空回りっぷりは変な兜大好き戦国武将も真っ青である。

 が、あくまでこの『幻影緋弾のカウボーイ』世界はギャルゲーだ。ドレスや髪型には現代的な雰囲気が見られ、クラシカルなメイドさんの服でさえ、どこかアニメちっくな改造が施されているように思う。

 男たちもまた同様だった。女性に比べて男性の顔は印象が薄いという点に、デザインをした人間の恣意的なものを感じないでもない。


 やや不躾に過ぎる俺の行動を咎める者は居なかった。

 そう。ハイリアはこの国きっての名門貴族であり、家督を譲り受けることが確定している自他ともに認める権力者なのだ。それでなくともイケメンだ。すれ違った後、ふと後ろを振り向いてみれば、見目麗しいメイドさんが頬を赤らめてこちらを見ていた。慌てて顔を伏せる姿のなんと可愛いことか。


 仮にこれが夢だったとしても、こんないい気分を味わえるなら悪くない。

 そう思っていた時だった。


 通りがかった部屋の奥から、人の呻き声と酷く耳障りな鞭打つ音が聞こえてきた。


「どうかしたのか」

 ここまでで心が大きくなっていたのもあって、俺は躊躇いなく扉を開けて声を掛けた。

 呻き声が聞こえてきた部屋は、入り口こそ雰囲気を壊さない絢爛豪華なものではあったが、内部は薄汚れていて蝋燭の灯りしかない場所だった。咄嗟に思いつく。俺以外の記憶にあった。ここは、教育部屋だ。

「こ、これはハイリア様!」

 鞭を振り上げていた老婆は血相を変えて平伏した。その奥で虚ろな目している少女が座り込んでいて、俺が目を向けていることに気付いた老婆が大慌てて彼女の服を掴むと、裾がめくれ上がるのも気にせず地面へ這わせた。

 浅黒い肌に血が滲んでいて見るからに痛々しい。下着が丸見えになっていたけど、二人がそれを隠す様子はない。


 その光景は、今まで感動と興奮に満たされていた俺の心を一瞬で冷めさせるものだった。


「すまない……音が聞こえたもので……」

 なんとか絞り出した言葉に老婆は、更に身を伏せろとばかりに叩頭した。

「見苦しい所をお見せ致しました。しかし、ここは使用人の区画。貴族であられるハイリア様がどうしてこのような場所へ」

「あ、そうだったのか。すまない、考え事をしていて気付かなかった……それで、どうしてその子は」

「はい。この者が銀の食器に手を触れていたもので……」

 それだけで? という言葉を咄嗟に飲み込んだ。

 頭の中に浮かんできたのは『幻影緋弾のカウボーイ』の世界観だ。十数年前に発見された新大陸と、そこから輸入されてくる奴隷たち。彼ら浅黒い肌を持つフーリア人は、周辺各国が共通で差別の対象としており、国の定めによって人権を持たない。


「……わかった」


 胃が引き千切れそうな苛立ちをどうにか抑えて、それだけを俺は絞り出した。

 こちらの顔色を強かに伺っていた老婆は、やがて得心がいったように頷く。


「ハイリア様。私はこれからやるべきことがございます。もしよろしければ、この者の処理をお任せしてよろしいでしょうか」


 今度こそ怒鳴り散らしそうになった。

 下卑た笑みを浮かべた老婆は、それを尻の青い小僧が羞恥に震えているものと勘違いしたらしく、それでも言い返さないことに確信を持ったらしい。

 慇懃に礼をすると、このことは内密に致します、と丁寧に添えて教育部屋を出て行った。


 老婆が居なくなると、ただでさえ薄気味悪い部屋が一層空虚に映った。

 興冷め所じゃない。なんだこの夢は。苛立ちにいっそ頭痛さえ覚えた。


 けれど部屋の真ん中で虚ろに座りこむ少女を見て、俺は自分の苛立ちを吐き出すように吐息した。あの老婆が勘違いしたように、俺にこの子を手篭めにする気はない。裂けた服をこちらで整えるのは気が引けて、上着を脱いて近寄る。

 怯えたように身を強ばらせる姿に胸が痛くなった。

「大丈夫だ。君を傷付けたりはしない」

 言って上着を掛けた。

 驚いて俺を見、上着を見、何度もそれを往復する。言葉が喋れないんじゃないかと不安になるほど、金魚みたいに口をパクパクさせる。その子は思った以上に美しい顔つきをしていて、その愛らしい仕草がとてもおかしくてつい笑った。

 そんな訳ですっかり油断した俺は、つい言葉を選びそこねてしまう。


「それじゃあ俺の部屋に行こう」


 手当をするよ、とでも付け加えれば良かっただろうに、俺は彼女の表情にも気付かず教育部屋を出て、自室へ向かった。なぜか、部屋までの道ははっきりと記憶していた。


   ※  ※  ※


 途中、使用人に頼んで道具一式を手に入れた俺は、自室の机にそれを置くと、教育部屋からずっと無言でついてきてくれていた女の子を振り返った。

 パサリ――と服が落ちる。


「え?」


 目の前に下着姿となった少女が居る。

 ブラとショーツ。コルセットが主流なこの時代にはまずありえないが、そこは俺の夢的に譲れなかったのかもしれない。

 浅黒い肌の至る所に傷跡があり、鞭を受けた場所には血が滲んでいる。痛々しくはあったけど、たおやかに膨らんだ胸や綺麗な曲線を描く肩のラインはとても淫靡で、思わず顔が赤くなった。

 そんな彼女が俺の上着を手に頭を下げた。


「助けていただき、ありがとうございました」

 掠れ気味の声が震えている。

「ここへ来てから優しい言葉を掛けていただいたのは初めてです。その……このようなことを求められたのも初めてで……上手く出来るかはわかりませんが、どうか……」

「ちょ、ちょっと待って! 違う! そんなつもりじゃない、待ってくれ!」

 駆け寄ろうとして、相手が下着姿だということに気付いて慌てて踏み留まる。見ないように背を向けて、自分でもおかしいくらい動揺したまま叫ぶ。


「傷! 傷の手当をしようと思って! ほらっ、そこの! 水とタオルも貰ってきたからさ!」


 と、ここで少女も自分の早とちりに気付いたらしく、ひっくり返った声で弁明してきた。


「も、ももも申し訳ありません! おおおおお見苦しいものをお見せしてっ! い、今すぐ服を着ます!」

「そ、そうだね! 着てくれると助かるよ!」

「それでは失礼して!」

 大丈夫です、と言われたから振り返ると、俺の上着を下着姿で羽織っただけの、なんとも艶かしい姿があった。顔が熱くなる。顔に手を当てるがついつい視線を向けてしまう己の浅はかさにまた羞恥が強くなる。

 俺の反応を見て気付いたらしい少女の浅黒い顔が、それと分かるほど真っ赤に染まった。

「ああ申し訳ありません! 上等な服が血で! 私っ、私の服は!?」

 そうじゃない。そうじゃないんだが。

「足元だから! 足元に落としてたから!」


 そんなこんなで数分後、ようやく落ち着いた俺たちは机を挟んで向かい合っていた。机の上には手桶とタオルならぬ手拭いがある。

 まるでお見合いにやってきた初心な男女のように、お互いの顔は赤い。


「そ、それでは……」

「は、はいっ」

「傷の手当を……」

「はいっ」

「その……」

「はいぃぃっ!」


 沈黙。

 痛い。沈黙が痛い。


 いや、でもいつまでもこうしてる訳にはいかなかった。

 庭でアリエスが待っているのを忘れちゃいけない。現状を把握したらあの妹に会って、出来れば話がしたい。俺は意を決して手拭いを手に取った。筋肉のついた両手でぐっと絞る。


「行きます!」

「どうぞ!」


 釣られてか、かなり男前な脱ぎっぷりで少女が背中を見せる。今思えばどの道脱ぐんだったな。いや、素っ裸だと別の意味で集中できなくなるからいいんだが。


 背後に回った俺は、おそるおそるな手つきで手拭いを傷へ触れさせた。


 まず感じたのは、血の匂いだ。

 傷口からじゃない。何度も何度も鞭で打たれたのだろう背中全体から、染み出すように血臭が撒き散らされている。仮にも使用人だからか、顔や目に見える部分は無傷なだけに、背中のソレは見ているだけで涙が出そうになった。

 正直、ここまでの騒動で緩んでいた心を、がつんと殴られたような衝撃がある。


 なんだ、この理不尽。


 彼女と俺の何が違うんだ。

 最初に見た時の、疲れきった目を思い出す。俺に身を捧げようとしていた時も、目には諦めと、驚くべきことに納得があった。ああして奪われることが当たり前で、ともすれば貴族たちから軽い気持ちで捨てられてしまう人がここには居る。

 まるで使い捨ての道具のように扱われて、そして、それを当たり前としている彼女にも苛立った。それが理不尽で傲慢な感情なのも分かってる。

 それでも……、


 柔らかく、出来うる限り優しく傷口の周りを拭いていく。

 擦ると痛みがあるだろうし、砂利や砂でついたものでもないから、出来ることは血に濡れた肌をそっと叩いていくことだけだった。消毒液があれば良かったんだけど、道中尋ねた使用人には伝わらなかった。どうやら消毒という概念が存在しないのか、一般的ではないらしい。妙な所だけ不便な世界だ。

 滲んでいた血を拭き取り終えた後、今度は別の手拭いに度数の高い酒を染み込ませて傷口を叩いていく。

 真っ白な布に血の色が広がっていくのが、どうしようもなく嫌だった。

 堪えているのだろう彼女の背中がそれでも僅かに震えた時、罪悪感で頭の裏から手元へ向かって寒気が奔った。


「……、っ」


 言葉が出ない。

 こうして治療をしているのさえ自己満足だ。

 なぜなら彼女を買ったのは、いずれ俺が、ハイリアが受け継ぐことになっているウィンダーベル家そのものだから。


 傷付けて、優しくして、勝手に彼女の人生を振り回しているのは……。


 血の匂いを嗅ぎながら治療を続けていく内に、俺の中にあった疑問が徐々に膨らんでいく。

 これは、果たして本当に夢なのか?


 この胸に広がる苛立ちと悔しさは何だ?

 この血の匂いは本当に偽物なのか?

 彼女のことはなにも知らない。けど、この痛々しい姿を見て、力一杯抱擁して大丈夫だと言ってやりたい衝動は、夢如きに再現出来るのか?


 ここは……この世界は…………現実?


 動揺を押し隠しながら治療を続けた。

 そのままお互いが無言のまま、血を拭い終えた。素人判断ながら消毒も出来たと思う。

 できるだけ優しくしたつもりではあったけど、傷口に触れる場面もあったから痛かっただろう。でも少女は声一つ漏らさなかった。

 すっかり血の色に染まった水に手拭いを放ると、今度は包帯を手に取る。と、ここで一つ問題があった。

 下着が邪魔だ。


 なんとか経由せずに巻けるかと試行錯誤していると、やがて少女から進んで下着を外された。


 真っ赤になる俺と女の子。

 動揺はどこへやら、目の前の煩悩と気恥ずかしさに心が上塗りされていく。肩越しにどうしたって見える膨らみに心を奪われそうだった。

 これが背中越しでなければもっと気不味い空気だっただろう。それでもなんとか理性を総動員して包帯を巻き(前に通す時が一番ヤバかった!)終えて、丁寧に縛る。


 一歩、二歩と距離を取って、崩れ落ちるのだけは耐えながらため息をついた。


「お、終わりです……」

「ありがとうございました」


 そしてまた沈黙。しばしの間。


 あれ……? 疑問に思ったけど質問するのは躊躇われた。


 なんでずっと服着ないの?


 女の子は俺に背中を向けた姿勢のまま、じっと硬直している。

 まさかまだ警戒されているのかと不安になった頃、か細い声は聞こえてきた。


「ハイリア様……」

「う、うん」

「一つ、お願いをしてよろしいでしょうか」


 なんだろう、この空気。

 オトコノコの本能に直撃するような匂いがする……。


「どうか、その…………私を、抱いていただけませんか?」


 な!?


「え?」


 だっ!?


「く!?」


「っ、申し訳ありません……! 思い上がったことを口にしました!」

 俺の反応にすぐさま伏して頭を下げる少女。はだけたままの上半身には、俺が巻いた不格好な包帯があって、

「私は、奴隷として買われました。たまたま容姿が気に入られたという理由で使用人として使われていますが、その……私たち奴隷は、貴族の、方々の…………」


 差別、というのはなにも暴力を振るわれるだけに留まらない。

 女性であれば尚更、その尊厳を奪われる。初めてと言っていたこの子が、今日まで誰の目にも留まらなかったのは偶然で、いつ誰かの下卑た手に捕まるか分からない。

 だからこそ、ここで。


 慌てた頭の中でもう一方の考えも湧いてくる。

 この家の嫡男から手付きにされたのであれば、奴隷でありつつも立場は良くなる。

 下卑た考えだとは思わなかった。そうしたのは奴隷なんていうものを作り出したこれまでで、その歴史の上で胡坐を掻いている俺自身だ。


 あの教育部屋から、そして治療を受けている間、無言で考え続けていた彼女なりの生存戦略。


 覚えるべきは反感や侮蔑ではなく、そうさせてしまった己への羞恥だろう。


「もし、ハイリア様さえよろしければ、ハイリア様に、私の純潔を奪っていただければと……親切にしていただいたにも係わらず、とんだご無礼を口にしました……! どうかお許しください! こんな、こんなっ、優しくしていただいたのは本当に久しぶりでっ、こんなにも優しい方にならと……申し訳ありませんッ」


 頭を下げる彼女にますます動揺は広がる。

 恥を覚えるのはいい。ただ、現実的にあのような扱いを受けている彼女を無視して自分のプライドを守るのは、正しいのだろうか。それが救いになると納得して奪い取ることは、正しいのだろうか。


「な、名前!」


「はいっ。メルトーリカと申します!」

「じゃあそのっ、メルト!」

「はい!」

「顔……あげてくれるかな?」

 恐る恐るこちらに顔を向けたその表情に、その濡れた瞳にドキリとする。奴隷として過酷な経験をしてきたんだろう顔つきはやっぱりやつれていて痛々しい。でも、渇いた唇やこけた頬を補って余りあるほど、メルトは魅力的な女性だった。

 浅黒い肌は別としても、俺にとっては黒髪や黒い瞳は見慣れたものだ。本当にこの世界の人間であるなら、エキゾチックだとか言うんだろう。が、俺から見るとそれはとても当たり前の、安堵する類の色で。


 短い時間だけど、話していて真摯な性格はよく分かったし、好感も持ってる。男としての抗いがたい本能というのも、当然あった。

 どうしたって見てしまう彼女の身体は、女性的な魅力に溢れている。やつれ、傷付いた身体が否応なく保護欲を掻き立てる。

 引っ掛かっているのは結局、善人ぶりたい俺の見栄だった。


 それで、逃げるような言い訳を口にした。


「俺はさ、今、ちょっと別の理由があって混乱してる。もしかすると、明日からは今日あったことも忘れちゃってるかもしれないんだ。ずっと君を守っていけるかどうかもわからない」

「それでも構いません。お慕いしております、ハイリア様」

「っ――!」

 それはきっと、行為へと進む為の嘘だったのかもしれない。


 吸い込まれるように手を差し出した。

 触れ合った掌は硬く、ささくれ立っていて、俺の心を引っ掻くソレを思わず両手で包み込んだ。

「ありがとうございます」

 優しさに。


 手を引いて、メルトを立ち上がらせる。

 陽の光が窓から差し込んでいて、床に映った木々の影が揺れた。周囲を意識していられたのはそれまでで、彼女の深い黒の瞳と見つめ合った途端、もう彼女しか見えなくなった。

 目を瞑ったメルトへ顔を寄せ、彼女の香りに心が震えて、


 ばーん、と。


「お兄様! お兄様が奴隷を部屋に連れ込んだという噂を耳にしましたがまさか本当にそのようなことを!?」


 開け放たれた扉の前でアリエスが、ハイリア=ロード=ウィンダーベルの妹、アリエス=フィン=ウィンダーベルが石のように固まった。

 そして俺は全てを理解した。


 あんのクソババアァァァァァアアアアアアアアアアアアアアア!




 

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