この楽園は吾輩のものだったらいいなぁ
吾輩は長らく土の下にいた。
長らくとは便利な言葉だが、要するに長すぎたのである。
暗い。狭い。じめじめしている。たまに根が邪魔である。たまに石にも当たる。しかも、だからといって誰かが褒めてくれるわけでもない。ただひたすら食べて、耐えて、育つ。幼虫時代とは、希望に満ちた未来への準備期間などではない。忍耐である。ほとんど修行である。しかも本人の意思ではなく、気づけばそうなっていた類の修行である。
それでも吾輩は生き延びた。
食べて、眠って、また食べて、どうにかこうにかここまで来た。
そしてついに、その日が来たのである。
地上である。
土を押し分け、ようやく顔を出した瞬間、吾輩はしばし呆然とした。
明るい。
広い。
風がある。
空などというものは、こんなにも上にあったのか。
葉は揺れ、草は光り、夜気はぬるく、世界は思ったよりもずっとにぎやかだった。これが外か。これが地上か。これが、幼虫時代の吾輩が一度も見たことのなかった世界か。
感動した。
かなり感動した。
正直に言おう。少し泣きそうですらあった。泣かないが。甲虫としての矜持があるので。
吾輩はしばらくその場で脚を確かめた。
六本ある。よし。
角もある。立派である。よし。
羽もある。まだ完璧ではないが、見た感じ悪くない。よし。
これならいける。何がいけるのかは分からぬが、とにかくいけそうな気がした。
その時である。
ふわりと、甘い匂いがした。
吾輩の触角がぴくりと動く。
風に乗って流れてきたそれは、土の下では決して嗅いだことのない、濃く、甘く、ねっとりとした誘惑だった。
なんだこれは。
なんだこれは。
吾輩は導かれるように進んだ。
草をかき分け、木の根を越え、落ち葉を踏みしめる。
そして見つけたのである。
木だった。
太い幹の途中に、樹皮の裂け目がある。
そこから、琥珀色の樹液がにじんでいた。
月の光を受けて、つやつやと光っている。
匂いは甘く、濃く、これでもかというほど魅力的で、しかもちゃんと食べられるらしい。そんな都合のいいものが、この世に存在してよいのか。
吾輩は思った。
これだ。
ようやく見つけた。
吾輩の時代である。
長き幼虫時代を耐え、暗い土の下を生き延び、やっと地上に出た吾輩に与えられた褒美が、これなのだ。
楽園ではないか。
吾輩は夢中で樹液にかじりついた。
甘い。
実に甘い。
しかもうまい。
なんだこれは。液体なのに満足感がある。土の下で食べていたものとはまるで違う。あれが下積みなら、これは成功である。あれが修行なら、これは卒業である。
吾輩は感動した。
さっきも感動したが、あれは地上に対する感動で、これは樹液に対する感動である。別種の感動なので問題ない。
ふと、吾輩は顔を上げた。
誰もいない。
夜の木立は静かで、聞こえるのは葉擦れの音ばかり。
この樹液も、この幹も、この匂いも、この甘さも、いまのところ吾輩だけのものである。
吾輩は胸を張った。
この楽園は、吾輩のものなのではないか。
いや、さすがにそれは言いすぎかもしれぬ。
自然は万人に開かれている、と何かで聞いた気もする。
だが少なくとも今この瞬間、この木を最初に見つけたのは吾輩である。最初に気づき、最初に味わい、最初に感動したのは吾輩なのだ。ならば多少の所有感を抱くことは許されてもよいのではあるまいか。
この楽園は吾輩のものだったらいいなぁ。
そう思った、その時だった。
ぶうん、と低い羽音がした。
来た。
吾輩は反射的に身を固くした。
現れたのは、別の甲虫だった。黒く、つやがあり、頭の先にはそれなりに立派な顎がついている。クワガタである。しかも堂々としている。初見で分かる。あれは遠慮しない顔だ。
クワガタは当然のように幹へ取りついた。
当然のように樹液へ顔を寄せた。
当然のように食べ始めた。
待て。
待て待て待て。
ここは吾輩が先に見つけたのである。
感動もしたのである。
心の中で楽園認定まで済ませたのである。
そのあとから来て当然の顔をするとは、何たる無神経。
吾輩は角を少し持ち上げた。
牽制である。
あくまで軽くである。大人の対応だ。
クワガタは、ちらりとこちらを見た。
それだけだった。
いや、もっと何かあるだろう。
気まずそうにするとか、少し場所を譲るとか、先に失礼するとか。
だが何もない。見ただけである。見ただけで、また樹液に戻った。吾輩の牽制など、夜風ほどにも感じていないようだった。
吾輩は少し腹が立った。
少しである。かなりではない。まだ余裕がある。
よろしい。
ならばこちらも本気を出すまでだ。
吾輩はぐっと踏み込み、角を使ってクワガタの脇へ押し込んだ。
押す。
押す。
押した。
クワガタ、動かぬ。
なぜだ。
吾輩はさらに押した。
クワガタ、やはり動かぬ。
なんなら、ちょっと迷惑そうである。
その時、吾輩は気づいた。
こちら、まだ地上初日である。
楽園を見つけた喜びで忘れていたが、実戦経験がない。
幼虫時代はずっと土の中だったのだから当然だ。対人、いや対虫の距離感もまだつかめていない。いきなり王のようにふるまうには、やや準備不足だった。
そこへさらに、ぶうん、と別の羽音。
また来た。
今度はカナブンだった。
緑に光っている。妙に陽気そうである。
こやつも何のためらいもなく樹液へ寄ってきた。
待て。
増えるな。
楽園の定員というものを考えろ。
しかし考えなかった。
誰も考えなかった。
気づけば木の周りには、羽音と気配が増えていく。小さな虫も来る。夜の木とはこういう場所なのか。吾輩は愕然とした。楽園というのはもっと静かで、もっと選ばれた者だけのものではないのか。
現実の楽園は、思ったより混む。
吾輩は樹液にしがみつきながら、なんとか自分の場所を守った。
右から来る者には角を向け、左から割り込む者には脚を踏ん張る。
気分としては城主である。
実態としては席取りに必死な者である。
しばらくして、ふいに強い羽音が頭上をかすめた。
嫌な予感がした。
スズメバチだった。
黄色と黒の、見るからに強そうなやつである。
細いのに圧がある。
そして、近寄りたくない雰囲気がすごい。
その瞬間、木の上の空気が変わった。
クワガタも、カナブンも、小さな虫たちも、なんとなく距離を取る。
吾輩も取った。
正直に言おう。かなり取った。
無理である。
あれは無理だ。
初日から立ち向かってよい相手ではない。
地上デビューしたての吾輩が、いきなり世界の厳しさまで全部受け止められると思うな。
吾輩は少し下がった位置で、樹液を見つめた。
さっきまで、ここは吾輩だけの楽園だと思っていた。
だが実際には、みな匂いに誘われ、みな生きるために集まってくる。
独り占めできるようなものではなかったのだ。
少し寂しかった。
かなり悔しくもあった。
けれど、樹液はまだ甘かった。
やがてスズメバチが飛び去ると、空気が少し緩んだ。
吾輩はそろそろと元の場所へ戻り、残った樹液をまた舐めた。
うまい。
やはり、うまいものはうまい。
独り占めはできぬ。
王にもなれぬ。
楽園は吾輩のものではなかった。
だが、吾輩はたしかにここへたどり着いた。
長い土の下を耐え、やっと地上へ出て、自分の脚でこの木を見つけた。
最初に見た時の感動も、最初に口にした甘さも、あれだけはまぎれもなく吾輩のものである。
ならば、まあよいかと思った。
この楽園は吾輩のものではない。
けれど、吾輩がここを楽園だと思ったことまでは、誰にも奪えない。
それに、もし次の木を見つけたなら。
その時こそ、もう少しうまくやれるかもしれぬ。
もう少し堂々と。
もう少し上手に。
できれば、もう少し空いている場所で。
吾輩は樹液をひと舐めして、夜の木立を見上げた。
地上は思ったより忙しい。
だが、悪くない。




