第ニ章:沈黙の教室と、金曜日の審判
異国での「損失」を取り戻せ。父・泰三の命により、明美の生活は一分の隙もない受験マシーンへと変貌する。
しかし、教室に渦巻くのは「国立教授の娘」というレッテルへの無自覚な嫉妬と、友情を裏切りへと変える凄惨な序列意識だった。
「涙は、非効率の産物だ」と言い切る父。透明人間として扱われる教室。逃げ場のない二つの戦場で、明美は声を上げずに泣く術を覚えていく。心を氷で塗り固めた先に、果たして救いはあるのか。
登場人物
茉莉
明美の小学生時代のクラスメイト。帰国直後で孤立しがちな明美に、唯一「等身大の友人」として手を差し伸べる明るい少女。
転校初日、明美の机の周りには幾層もの人垣ができていた。
「ねえ、お父さんテレビで見たよ!」「英語喋ってよ」「やっぱり家ではステーキとか食べてるの?」
浴びせられる好奇心に息を詰まらせる明美の隣で、一人の少女が軽やかに笑った。
「みんな、やめなよ。明美ちゃんが困ってるじゃん。……ねえ、明美ちゃん。みんな興味本位なだけだから、気にしちゃダメだよ。あなたは、あなたなんだから」
それが、茉莉との出会いだった。茉莉は明美を「教授の娘」ではなく一人の友人として扱い、海外での苦労話を「大変だったね」と等身大の共感で受け止めてくれた。明美にとって、茉莉は日本で出来たはじめての友達だった。
しかし、一年後。中学受験が近づくと、教室の空気は重く淀んだ。
廊下に貼り出される「学力等数ランキング」。能力によって生徒をSからDまで選別する残酷なシステム。
ある朝、明美が茉莉に話しかけると、彼女は筆箱を整理する手を止めず、隣の女子と喋り始めた。
「ねえ、昨日のSクラスのテスト、難しすぎたよね」
「……茉莉ちゃん? おはよう」
明美の声は無視された。茉莉は冷ややかに鼻で笑った。
「別にいいじゃない、あの子は。どうせ『お父様』が国立の教授なんだもん。私たちの必死な努力なんて、最初から馬鹿にしてるわよ」
その日から、茉莉は明美を透明人間として扱い、机に誰かが近づくと「有名人と仲良くなりたいわけ?」と鋭い棘を刺すようになった。
金曜夕食報告会
家庭もまた、戦場だった。泰三が定めた「金曜夕食報告会」。
重厚なダイニングテーブルで、泰三が銀のナイフで肉を切り分けながら促す。
「今週の成果を報告しなさい」
智樹は「学年一位」を当然のように報告し、航は「テニス部選抜」を軽やかに報告する。
そして、明美。
「……塾の判定はAでした。でも、学校で……茉莉ちゃんが、急に……」
明美が声を震わせると、泰三の眉がピクリと動いた。
「明美。感情という不確定要素に時間を割くのは、最も愚かな浪費だ。君が今優先すべきは『進学校合格』という成果だけだ。それ以外のノイズは遮断しろ」
「でも、お父様……」
「明美」
泰三の声が一段低くなる。怒号よりも恐ろしい、絶対的な拒絶。
「私が聞きたいのは、君の感傷ではない。来週、Sクラスのトップ層に食い込めるかどうかの『見込み』だ。私の娘として、その程度のこともできないのか」
明美は、味がしなくなったステーキを喉に押し込んだ。
その夜、自室へ戻りカバンを開けると、ノートに茉莉の筆跡で大きく書き殴られていた。
『死ね。エリートの出来損ない』
明美は声を上げずに泣いた。受験が終われば終わる、地獄は終わる。そう信じて、心を厚い氷で塗り固めていった。
本作を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
帰国後の明美を待ち受けていたのは、異国の地よりもさらに複雑で鋭い、同調圧力と序列の檻でした。
「自分は何者か」という問いよりも、「自分はどのランクか」という答えが優先される教室。そして、食事さえも報告の場に変えてしまう父・泰三の支配。
ノートに書かれた呪詛を一人で見つめる明美の孤独は、実は形を変えて、今の私たちの社会にも存在しているのかもしれません。彼女が塗り固めた「氷」が、いつか自分を凍らせるためではなく、大切な何かを守るための盾になることを願っています。




