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第十章:偽りのクイーン、あるいは静かなる覚醒

降りしきる雨と鮮血の中で、愛する夫・一条怜を失ったあの日、小野寺明美という名の令嬢は死んだ。

数年後、地方都市の片隅。紫煙が燻る高級ラウンジ『アルカディア』には、圧倒的な気品と冷徹な知性で夜を支配する「麗華」と呼ばれる一人の女がいた。

彼女はかつての名前を捨て、父から学んだ「値踏み」を盾に、夫から教わった「不敵」を剣に、牙を隠して生きている。すべては、亡き夫の遺した新しい命を、一条という名の巨大な呪縛から守り抜くため。

しかし、運命の歯車は再び彼女を逃しはしなかった。店に現れた怜の面影を宿す男、そして娘が握りしめる禁断のカード。静寂を破るチェロの残響が、再び彼女を戦場へと誘っていく。

地方都市・高級ラウンジ『アルカディア』

紫煙と芳醇なヴィンテージワインの香りが漂うフロア。

かつて一条明美として、ロンドンの夜会で「至宝」と称えられた彼女は今、偽名の「麗華れいか」として、夜の街を支配するママの座にいた。


黒い総レースのドレスを纏い、無駄のない優雅な所作でグラスを傾ける彼女の姿は、この地方都市には不釣り合いなほど高潔で、それゆえに男たちの征服欲を狂わせた。


「おい、ここの女は愛想が足りないな」

成金の不動産業者が、隣のホステスの腕を強引に掴み、下卑た笑いを浮かべる。周囲が凍りつく中、明美は音もなくそのテーブルに歩み寄った。


「失礼いたしました。うちの子が、お客様の『格』に圧倒されて緊張しておりますの」

明美は氷のように冷たく、それでいて甘美な微笑を浮かべ、男の手首にそっと自分の手を重ねた。指先から伝わる圧倒的な気品と気圧されるような威厳に、男は思わず手を離す。


明美(心の声):(……お父様、見ていますか。あなたが私に仕込んだ『価値の付け方』。今は自分の身を守るための武器として使わせてもらっているわ。この程度の男に、私の城は汚させない)


明美は流暢な英語を交え、男が投資している海外事業の脆弱性を、優雅な雑談のふりをして指摘した。男は自分の無知を晒されたことに気づき、顔を真っ赤にしながらも、彼女の知性に平伏して退散していった。その一部始終を見ていたフロアの隅の客――一条グループの元幹部が、怪訝そうに目を細める。


「(……似ている。あの若くして亡くなった、一条代表の妻に)」


明美は心臓の鼓動が跳ねるのを感じたが、扇で口元を隠し、怜から教わった完璧なポーカーフェイスを貫いた。


田舎町の古い邸宅・深夜

店を閉め、タクシーを乗り継いで辿り着いたのは、霧の深い山裾にある静かな家だった。

玄関を開け、ヒールを脱ぎ捨てた瞬間、夜の「麗華」としての仮面が剥がれ落ちる。


寝室へ向かうと、そこには愛おしい娘たちの寝顔があった。

五歳になった長女・怜奈が、寝ぼけ眼でおもちゃのピアノに触れ、ポーンと一音、澄んだ音を鳴らす。それはかつて、父である怜が別荘で何度も奏でていた、あのバッハの旋律の断片だった。


明美(心の声):(怜奈……あなた、覚えているのね。血は、どんなに隠しても争えない。この才能が、またあなたたちを一条という名の檻へ引き戻してしまうかもしれない……。でも、ママが守る。今度は誰にも、あなたたちの翼を折らせはしない)


明美は子供たちの温かな体温に触れながら、深夜の暗闇の中で一人、声を殺して涙を流した。怜を失ったあの日から、彼女の心の一部は凍りついたままだ。


その時、暗闇から静かな足音が近づいた。

「……ママ、泣かないで。私がパパの代わりに、ママを助けるから」

いつの間にか起きていた怜奈が、小さな手で明美の涙を拭う。そして彼女の手には、怜が死の間際、彼女のバッグに滑り込ませていた、一条家の隠し資産にアクセスするための「暗号のカード」が握られていた。


「(怜さん……あなたは、こうなることまで分かっていたの?)」


さらにその翌日、ラウンジには一人の若い男が現れる。

「初めて来ました。ここのママに、私のプロジェクトの相談に乗ってほしいと聞きまして」

振り向いたその男の横顔は、彫刻のような冷たさと、瞳の奥に宿る孤独な熱——驚くほどに怜の面影を宿していた。


明美は直感した。

怜の死。隼人の逃亡。一条の残党。そして目の前の男。

すべてが再び、彼女を中心に回り始めている。


「ようこそ、アルカディアへ。お話、ゆっくり伺いましょうか」


明美は再び、艶やかなママの微笑を纏った。

もはや彼女は、守られるだけの令嬢ではない。

愛する子供たちのため、そして亡き夫の復讐を完遂するため、彼女は夜の闇を味方につけ、運命をその手で操る「偽りのクイーン」として立ち上がったのだ。



本作を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

夫の死という凄絶な幕切れから一転、本章では明美が「守られる側」から「すべてを掌握する側」へと劇的な進化を遂げる姿を描きました。

彼女が纏う「麗華」という仮面は、もはや父・泰三に着せられた着物ではなく、彼女自身が夜の戦場で生き抜くための鎧です。娘・怜奈が奏でた一音、そして怜が遺した「暗号」という最後の手札。それらは、死してもなお明美を繋ぎ止め、同時に導こうとする怜の、狂おしいまでの執着の結晶かもしれません。

目の前に現れた怜に似た男は、希望か、それとも新たな地獄への招待状か。

哀しみを気品に変え、絶望を力に変えて微笑む彼女の瞳。その奥に灯った復讐の炎が、どのように一条の残党を焼き尽くしていくのか。一人の女が「真の女王」へと覚醒する瞬間を、共に見届けてくださり感謝いたします。

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