音律大陸「ソノリア」の物語
じゃり、じゃり。
ハカリ庁の床は、いつもこの音がする。
〔バルドが足元の嘘石の破片を蹴って隅に寄せた〕
「この案件、重量係数0.3以下だから軽微扱いでいいっすよね」
バルドは鑑定書の束をめくりながら言った。隣の机で澄架が何かを書いている。ペンが紙を走る音が、じゃり音の隙間に聞こえる。
「発話時の気温補正は入れましたか」
「あ、入れてないっす。澄架さん、この案件の発話時刻って何時でしたっけ」
「……午後二時十七分。補正値は0.04」
「0.04っすか。じゃあ軽微扱いは無理っすね。にしても、なんで言葉に重さがあるのに歌だけ重さゼロなんっすかね。不公平じゃないっすか」
澄架は答えなかった。
バルドは気にしなかった。澄架はいつもこうだ。喋らない。喋らないけど、ちゃんと聞いている。それはバルドにはわかる。
「歌で申告してきた場合は別ですよ、一応」と澄架が言った。
「そうそう、そこが抜け穴っすよね。歌えば重量ゼロだから証拠にならない。でもまあ、歌いながら商売する奴はいないっすから実害はないっすけど——あれ、今日の床、なんか白っぽい欠片が多くないっすか」
〔澄架が一瞬だけ足元を見た〕
「どうした、床に何かいたか」
「……いや、何でもない」
「そうっすか。まあ嘘石の破片なんてどれも似たようなもんっすけどね。で、この案件の発話者の信念強度はどのくらいっすか」
廊下から声が聞こえてくる。別の職員が誰かと話している。「……発話量の補正値が……」「……この案件、重量係数が……」
じゃり、じゃり。
バルドは鑑定書に数字を書き込んだ。澄架がペンを走らせる。窓の細い光が石の粉を浮かばせている。
今日もいつもと同じ朝だった。
——入口の扉が開く音がした。
バルドが顔を上げた。
石の粉で白くなった作業手袋を腰に引っかけた、見慣れない少女が立っていた。
「ご用件をどうぞ」
バルドは受付担当として少女の前に立った。少女は来客エリアの長椅子に座っている。腰に引っかかった白い作業手袋から、細かい石の粉がぱらぱらと床に落ちていた。
少女は、机の上に手袋を置こうとして——止まった。そのまま腰に戻した。
〔バルドは気づかなかった。澄架だけが横目でその動作を見た〕
「ストーンヤードで採掘の仕事をしています、石歌ルーナといいます」と少女は言った。「鑑定をお願いしたくて」
「はいはい、どんな案件っすか」
「嘘石についてです。二百年前の採掘師が言ったことには、嘘石の内部は完全に密閉されているって——」
「ほうほう」
「三百年前の言量院の記録によれば、音響的に遮断されているって——」
「なるほどなるほど」
「古い石に刻まれた言葉には、内部の声は外に出られないって書いてある」
「うんうん、で?」
ルーナは一拍だけ黙った。それからこう言った。
「でも、歌が聞こえるのは本当なんです」
〔澄架だけが笑わなかった〕
バルドは笑った。
「嘘石から歌声って、それ怪談じゃないっすか。三百年前の採掘師さんもそう言ってたんですかね——ほら、また石の話になった」
「違います」ルーナは首を振った。「石に書いてあった話じゃないです。私が聞いたんです。毎日、採掘の仕事をしていると、あの石の前に立つと——聞こえるんです」
「あの石?」
「第七採掘区画の、大きい嘘石です。高さが三メートルくらいある」
バルドは澄架を振り返った。澄架は鑑定書を眺めたまま何も言わない。
「澄架さん、どうっすか」
「……三条の二、受理します」
バルドは少し驚いた。棄却するかと思っていた。
「え、受理するんっすか。嘘石から歌声っすよ」
「……言量法第三条の二。正式な鑑定依頼を受けた言量師はこれを棄却してはならない」
「あー、そういうことっすか。まあ確かに依頼は依頼っすもんね」バルドはルーナに向き直った。「というわけで受理しますんで、後日現地に伺いますね。ストーンヤードの第七採掘区画でしたっけ」
「はい」ルーナは立ち上がった。「ありがとうございます。石が、喜んでると思います——三百年前の採掘師も、信じてもらえたとき嬉しかったって石に書いてありました」
「石に書いてあったんっすか、それ」
「書いてありました」
ルーナが退出した。扉が閉まる。
じゃり、じゃり。
バルドは澄架を見た。澄架は鑑定書に何かを書き込んでいる。
「まあ、怪談案件っすよね」
澄架は答えなかった。
廊下から、規則的な二拍のじゃり音が聞こえた。それからすぐに消えた。
〔澄架が扉の方向を一瞬見た〕
バルドは気づかなかった。
「三条の二って、棄却禁止の条文っすよね」
バルドは澄架の机の隣に立った。澄架は計測器具の前に座って、受理書類を記入している。金属の計測器具が冷たそうだな、とバルドは思った。
「……そう」
「嘘石から歌声、本当に受けるんっすか。あれ、怪談っすよ。石の中から音が聞こえるなんて」
「言量法第三条の二は棄却を禁じている。依頼として成立している以上、受理しなければならない」
「まあそうなんっすけど——あれ、三条の二っすよね。三条じゃなくて」
澄架の手が一瞬止まった。
「……そう、三条の二」
「珍しい、澄架さんが間違えた。今日どうしたんっすか」
「……間違えてない」
「言いかけてたっすよ、三条って。まあいいっすけど」バルドは肩をすくめた。「で、現地調査はいつにしますか。ストーンヤードって郊外っすよね、半日仕事っすよ」
澄架は受理書類に何かを書き込んだ。ペンが紙を走る音。
それから、小さな音が漏れた。
〔……春の、石が……〕
「また歌ってる、歌う前に喋れ」
澄架は鼻歌を止めた。
「重量係数の補正値を確認する必要がある。現地調査は明後日以降」
「明後日っすか。わかりました。あ、ルーナちゃんに連絡しなきゃ——連絡先、聞いてないっすね。ストーンヤードに直接行けばいいっすかね」
「……そう」
バルドは別の鑑定書を手に取った。澄架がまたペンを走らせる。じゃり音が床から届く。
今日もいつもの午前中だった。
退庁前の書類整理をしていたら、ルーナがもう一度だけ振り返った。
いや、振り返ったのは別の用件のためだったかもしれない。受理書類の控えを受け取るために戻ってきたルーナが、扉の前でバルドを見て言った。
「あの、もう一度だけ確認させてください。本当に、聞こえるんです。歌が。石の中から」
「はいはい、わかりましたよ」バルドは笑った。「明後日、現地で確認しますから。嘘石から歌声って、なかなかないっすよ、そんな依頼。怪談みたいで面白いっすよね」
「怪談じゃないです」
「まあそうっすよね、ルーナちゃんには本当に聞こえてるんっすもんね。わかりましたよ、ちゃんと調べますから」
ルーナは頷いた。扉を開けた。出ていった。
扉が閉まる。低い音。
じゃり、じゃり。廊下から、二拍だけ規則的な音が聞こえた。それから消えた。
〔澄架が扉の方向を一瞬見た〕
バルドは澄架を見た。澄架は笑っていなかった。
「まあ、怪談案件っすよね」バルドは言った。「嘘石から歌声って。澄架さんはどう思いますか」
澄架は答えなかった。
いつものことだ、とバルドは思った。
澄架が小声で一節漏らした。
〔……声が、重くて……〕
「また歌ってる、歌う前に喋れ」
「……何でもない」
バルドは嘘石の破片を蹴って隅に寄せた。今日もいつもの締めだった。
カルミナの旧市街を抜ける路地は、建物の影で薄暗かった。
〔石畳の欠片が地面と同化している〕
ルーナが先を歩いている。澄架はその後ろを歩きながら、ルーナの足の動きを見ていた。
奇妙な歩き方だった。左に、右に、細かく体重を移しながら進む。まるで何かを避けているように。
「ルーナちゃん、なんでそんな変な歩き方してるんっすか」バルドが聞いた。
「石に書いてある言葉を踏みたくないから」
「石に書いてある言葉?」
「この路地の石畳の欠片に、言葉が刻まれてるの。踏んだら何かが変わる気がして——三百年前の言量師も同じことを言っていたって石に書いてあった」
「石に書いてある言葉って読めるんっすか、それ」
「読める人には読める」
バルドが笑った。「じゃあ俺には読めないっすね、たぶん。澄架さんはどうっすか」
澄架は答えなかった。
路地の石畳を見ていた。薄暗い光の中で、欠片の配置が——他の場所とは、少し違う気がした。規則的な何かが、そこにある気がした。しかし何が違うのかを言葉にできない。
〔澄架が一瞬だけ足を止め、また歩き出した〕
「どうした、澄架さん」
「……何でもない」
ルーナが路地の中ほどで立ち止まった。特定の欠片の前に来て、屈んだ。指先を欠片の表面に近づけて——止まった。
立ち上がって、また歩き始めた。
「何か落とした?」バルドが聞いた。
「ううん、読みかけの言葉があっただけ」
「読みかけ?」
「途中で終わってる言葉があるの、その石に。続きが気になって——でも今日は時間がないから」
「そうっすか。にしても、石の言葉を踏まないようにって、ルーナちゃんって本当に石が好きなんっすね」
「好きというより、怖いの」ルーナは前を向いたまま言った。「踏んだら何かが変わる気がして」
澄架は黙って歩いた。
路地を抜けると、採掘場の砂埃の匂いがしてきた。
石の粉の匂いがした。
ハカリ庁の嘘石の粉とは違う——もっと白く、石灰に近い。乾いた白さが喉の奥にわずかに感じられる。
採掘員が一人、ツルハシを肩に担いで近づいてきた。「ハカリ庁の方っすか?ルーナちゃんから聞いてました。第七区画はこっちです」
「これだけ大きいと、相当な嘘だったんでしょうね」バルドが言った。
「そうっすよ。誰の嘘かはわからないんっすけど、地層の深さから見て二百年以上前のやつっすね。今日掘り出したばかりだから粉が多くて——」
〔石の前に立つと、採掘場の騒音が少しこもって聞こえた〕
高さ約三メートル。幅約二メートル。灰色の石塊が、半ば地面に埋まったまま立っている。表面に古い文字が刻まれている。一部が採掘員によって清掃されており、文字の輪郭が見えた。
「でかいっすね」バルドが言った。「これだけ大きいってことは、相当な嘘だったんっすよね——採掘員さん、この石って何か変なところありますか」
「変なところ、っすか。そうっすね……重さの計算が合わないんっすよね。掘り出してから量ってみたら、通常の嘘石の同サイズより少し軽い。誤差の範囲っすけど」
「重さが合わない?」
「まあ誤差っすよ、誤差。気にしないでください」
採掘員は別の区画へ歩いていった。
澄架は石の前に立った。
静かだった。採掘場の騒音——ツルハシの音、石を運ぶ音——が、この石の前だけ少し遠くなる。石が音を吸収しているような、柔らかい静けさ。
その静けさの中に、何かがある気がした。
音とも言えない。空気の微細な振動のようなもの。言量師としての計測本能が——何かを感知しようとして、感知できない。
〔澄架が思わず耳に手を当てた〕
「どうした、虫でも入ったか」バルドが笑った。
「……いや、何でもない」
澄架は手を下ろした。
ルーナが石の表面を見ていた。何も言わなかった。しかし微かに微笑んでいた。
「聞こえますか」ルーナが言った。澄架に向かって言っているようだった。
澄架は答えなかった。
「今日は掘り出したばかりだから粉が多いっすよ」採掘員が遠くから声をかけた。「鑑定の邪魔になりますかね」
「大丈夫っす」バルドが答えた。「ちょっと見させてもらうだけですから」
石の表面の文字を澄架は見た。古い文字だった。言量師としての目で追うと、何かが書かれている——しかし文字の意味を読み取る前に、別のことが気になった。
この石の重量が、合わない。
採掘員は誤差だと言った。しかし言量師としての感覚では——通常の嘘石と、何かが違う。何が違うのかを言語化できない。
〔澄架が石の前で一拍止まった〕
「澄架さん、どうっすか」バルドが聞いた。
「……帰ります。明後日、正式な鑑定器具を持って来る」
「了解っす」
三人はストーンヤードを後にした。
ハカリ庁に戻ると、他の職員たちが自然に距離を置いていた。
入口に、一人の男が立っていた。
靴音がしなかった。歩くたびに嘘石の破片を踏むこの床で、この男だけが無音で移動している。左胸ポケットに銀のペンが一本。言量院の紋章が刻まれた外套。
「詠シルヴァ、言量院審問官です」
声の音質が完璧に均一だった。速度も、音量も、抑揚も。
「本日は正式な通告のために参りました。言量法第七条に基づき、言量院は当該嘘石を管轄下に置きます。第十二条により、ハカリ庁の独自鑑定は停止されます。第十七条三項により、封印執行の権限は言量院に帰属します。なお、内部の音響解析については言量法第二十二条に基づき解読不能として処理済みです」
〔一拍、間があった〕
「——鑑定は、不要です」
「いやー、さすがっすね、条文三つ一気に」バルドが言った。「にしてもシルヴァさん、条文三つ引いといて最後の一言だけ間があったっすよね」
シルヴァは答えなかった。澄架を見た。
「音無さん、でしたか。ハカリ庁の言量師」
「……そうです」
「この案件に関するハカリ庁の関与は、明日以降、言量法上の根拠を失います。ご理解ください」
〔シルヴァの発言から、嘘石が一つも出ていない〕
澄架は計測器具を横目で確認した。針は動いていない。シルヴァが長い通告を行っている間、ずっと動いていない。
〔嘘石が、一つも出ていない〕
シルヴァが退去した。
重い扉が閉まった。
じゃり音が一斉に再開した。他の職員たちが動き始め、椅子を引く音、ペンが紙を走る音が戻ってきた。
「また嘘石を踏んだ」バルドが足元を見て言った。「いやー、シルヴァさんって独特の空気感っすよね、廊下まで緊張しますよ——にしてもシルヴァさん、条文三つ引いといて最後の一言だけ間があったっすよね。あの人にしては珍しくないっすか」
澄架は何も言わなかった。
「澄架さん?」
「……言量法の条文に、間は要らない」
バルドは笑った。「そりゃそうだ。完璧な言量師っすもんね、シルヴァさんは。嘘石も一個も出なかったし」
「……そう」
じゃり、じゃり。
〔バルドが足元の嘘石の破片を蹴った。今回だけ、蹴った破片が別の破片に当たって、二つが重なって止まった。バルドがその重なりを一瞬見てから、何も言わずに歩き出した〕
シルヴァが条文を引用している間、澄架は計測器具を横目で見続けていた。
針が、動かない。
シルヴァが一文発するたびに、澄架は無意識に床を確認した。嘘石の破片が、落ちない。長い通告の間、ずっと。
〔嘘石が、一つも出ていない〕
シルヴァの声の音質が完璧に均一だった。速度も、音量も、抑揚も——人の言葉が持つはずの微細な息継ぎの揺れが、この人の声にはない。
言量師として、澄架はそれを感知していた。しかしその意味を言語化できない。
「以上が言量院の正式通告です。ご不明な点は言量法をご参照ください」
シルヴァが退去しようとした。その瞬間——
〔シルヴァの左手が、左胸ポケットの銀のペンに触れた〕
一拍後に、離れた。
廊下を通りかかった別の職員が澄架に声をかけた。「音無さん、昨日の案件の書類、確認してもらえますか」
「……後で」
バルドが追いついてきた。「澄架さん、さっきの法案ってどういうことっすか、ウタマチが規制されるってことっすよね——あれ、踏んだ。いやー、シルヴァさんって独特の空気感っすよね、廊下まで緊張しますよ」
〔澄架は銀のペンへの接触という微細な変化を、頭の中に記録した。言量師としての本能が、それを記録した。しかしその原因を特定できない〕
「……法案については、言量院の管轄です」
シルヴァが去ると、室内の音量が戻ってきた。
じゃり、じゃり。職員たちが再び動き始める。椅子を引く音、ペンが紙を走る音。
「澄架さん、どうするんっすか。封印されたら鑑定できないっすよね」
「……それは」
「それは?」
「……つまり」
「つまり?」
澄架は黙った。
「また黙ってる」バルドは笑った。「まあいいっすけど。にしてもシルヴァさん、条文三つ引いといて最後の一言だけ間があったっすよね。あの人にしては珍しくないっすか」
澄架が静かに言った。「……言量法の条文に、間は要らない」
「そりゃそうっすね」バルドは笑った。「完璧な言量師っすもんね。嘘石も一個も出なかったし——まあ気にしすぎっすよ、澄架さん」
「……そう」
〔バルドが足元の嘘石の破片を一つ蹴った。いつも通り隅に寄せようとしたが、今回だけ蹴った破片が別の破片に当たって二つが重なって止まった。バルドがその重なりを一瞬見てから、何も言わずに自分の机に戻った〕
第二章はここで閉じる。床のじゃり音が静かに続いていた。




