第四話:復讐劇の幕は下り、僕は全てを失った……はずが、なぜか隣でクールな協力者が頬を赤らめている件。
あの絶叫が響き渡った日から、一週間が経った。
都心を見下ろすタワーマンションの部屋は、がらんとしていた。莉緒奈との生活を彩っていた高級家具も、二人で選んだ食器も、壁に飾られた思い出の写真も、今はもうない。あるのは、運び出されるのを待つ段ボールの山だけだ。
僕は、全てを清算することにした。
莉緒奈は、慰謝料と手切れ金の請求書に震える手でサインをし、泣きながらこの部屋を出ていった。会社での立場も当然悪化し、同僚たちの冷たい視線と噂話に耐えきれず、結局、退職届を出したと風の噂で聞いた。 SNSでの煌びやかな投稿も、あの日を境にぱったりと途絶えている。
西園寺は、懲戒解雇のうえ、会社に与えた損害の賠償請求と、僕個人からの慰謝料請求という二重の責務を負った。さらに、氷室さんが仕掛けた金銭トラブルの相手からも訴えられ、多額の借金を抱えることになったらしい。裕福だったはずの実家からも勘当され、今では誰もその行方を知らない。
二人は、僕が描いたシナリオ通り、完璧に全てを失った。
クライアント(=僕)の依頼は、完遂されたはずだった。
それなのに、僕の心を満たしていたのは、達成感ではなく、空虚感だけだった。まるで、心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったようだ。
「……結局、何も残らなかったな」
ぽつりと呟いた言葉が、がらんとした部屋に虚しく響く。
失ったものはあまりにも大きい。四年間という時間、信じていた未来、そして、人を愛するという感情そのものまで失ってしまったような気がした。
その時だった。
ピンポーン、と軽快なチャイムの音が、静寂を破った。
来客の予定などない。いぶかしみながら玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、意外な人物だった。
「……氷室さん?」
そこにいたのは、いつもの隙のないパンツスーツ姿ではなく、柔らかなオフホワイトのニットに、ふわりとしたロングスカートを合わせた私服姿の氷室雫だった。きっちり結い上げられていた髪は下ろされ、フレームレスの眼鏡もかけていない。
いつもとは全く違う、柔らかな雰囲気の彼女に、僕は一瞬、言葉を失った。
彼女の両手には、高級そうな日本酒の一升瓶と、デパ地下のものらしき洒落た紙袋が抱えられていた。
「……打ち上げ、まだでしたよね? 代表の好きなお酒、買ってきました」
氷室さんは、少し照れたように視線を逸らしながら、そう言った。その頬が、心なしかほんのり赤く染まっているように見えた。
「え……あ、ああ。どうぞ、中へ。散らかってるけど」
僕は慌てて彼女を部屋に招き入れる。
段ボール箱をテーブル代わりにし、氷室さんが持ってきてくれた惣菜を並べる。彼女が慣れた手つきでグラスに日本酒を注いでくれた。
「……お疲れ様でした。代表」
「ああ。氷室さんも、本当に助かった。ありがとう」
カチン、とグラスを軽く合わせる。
喉に流し込んだ日本酒は、フルーティーな香りがして、驚くほど美味しかった。
しばらくは、当たり障りのない世間話が続いた。だが、アルコールが回るにつれて、僕が心の奥底に押し込めていた蓋が、少しずつ緩んでいくのを感じた。
プロの仮面を脱ぎ捨て、僕は初めて、今回の件での本当の気持ちを彼女に吐露していた。
どれだけ莉緒奈を愛していたか。どれだけ未来を信じていたか。そして、裏切られたと知った時の、身を引き裂かれるような悲しみと怒り。復讐を終えた今も、心から消えることのない虚しさ。
「……結局、僕はただの道化だったのかもしれない。完璧な復讐劇を演じたつもりで、一番傷ついて、何も残らなかったのは僕自身だ」
自嘲気味に笑う僕を、氷室さんは黙って見つめていた。その瞳は、いつものように冷静でありながら、どこか温かい光を宿しているように見えた。
やがて、彼女は静かに首を振った。
「そんなことありません」
「え?」
「今回の依頼、まだ完了していません。代表は、依頼書に書かれたゴールを覚えていますか?」
依頼書のゴール。
ターゲットの破滅、そして……。
「クライアントの……尊厳回復と、最高の形での人生のリスタート……か」
「はい。今の代表、全然満足してない顔です。尊厳が回復したようにも、最高の形でのリスタートができそうにも見えません」
氷室さんはきっぱりと言い切った。そして、少しの間を置いて、意を決したように言葉を続ける。
「ですから……そのゴールが達成されるまで、私が個人的に付き合います。これは、業務外の、代表の人生をリスタートさせるための、特別サポートです」
そう言って、氷室さんは顔を真っ赤にしながら、僕の空になったグラスに、とくとくと酒を注いだ。その言葉の意味を、僕が理解できないはずがなかった。
いつも冷静沈着な彼女が見せた、あまりにも不器用で、あまりにもまっすぐな申し出。
空っぽだった僕の心に、温かい何かが、ゆっくりと満ちていくのを感じた。
「……それは、頼もしいな。じゃあ、これからは氷室さんじゃなくて……雫さん、と呼んでも?」
「……はい。奏佑さん」
僕の言葉に、彼女は顔を俯かせたまま、小さな声で頷いた。その耳まで赤くなっているのが、妙に愛おしく思えた。
その数週間後。
僕は、新しいマンションに引っ越していた。あのタワーマンションよりは少し狭いが、日当たりの良い、心地よい部屋だ。
ある晴れた休日、僕は雫さんと一緒に、新しい家具を見に街を歩いていた。
他愛のない話で笑い合う。失ってしまったと思っていた、穏やかで幸福な時間。それが今、確かにここにあった。
その時、ふと視線を感じて横断歩道の向こう側を見ると、そこに、やつれた様子の莉緒奈が立っていた。
彼女は、僕と、僕の隣で楽しそうに笑う雫さんの姿を、信じられないというように見つめていた。その瞳には、後悔と絶望の色が濃く浮かんでいる。
目が合った瞬間、彼女はびくりと肩を震わせ、逃げるように踵を返して人混みの中へと消えていった。
「もう遅い」
あの日、僕が彼女に告げた言葉の意味を、彼女は今、本当の意味で噛み締めているのかもしれない。
「奏佑さん? どうかしました?」
僕が立ち止まったことに気づいた雫さんが、不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「いや、なんでもないよ。さあ、行こうか。お腹すかない? 美味しいランチでも食べよう」
「はい! 私、良いお店知ってますよ!」
僕は彼女の顔を見て、自然と笑みがこぼれる。
失ったものは大きかった。だが、復讐という長い夜が明けた先には、こんなにも温かい光が満ちた、新しい朝が待っていた。
『エピローグ・プランナーズ』の代表として、僕はこれからも様々な「終わり」を演出し続けるだろう。
だが、僕自身の物語は、今まさに始まったばかりだ。
クールで、真面目で、だけど少し不器用なこの素敵な協力者との、新しい物語が。




