第二話 復讐のシナリオは完璧に。でも、クールな協力者の「個人的な興味です」という視線がちょっと痛い。
翌日の夕方、僕は都内の一流ホテル『グランド・イースト東京』の最上階にあるバーラウンジにいた。重厚なマホガニーのカウンターに肘をつき、眼下に広がる宝石のような夜景を眺めながら、ロックグラスに注がれた琥珀色の液体を静かに揺らす。
僕の隣のスツールに、すらりとした影が腰を下ろした。
「お待たせいたしました、織部代表」
凛とした、涼やかな声。
振り返ると、そこにいたのは一人の女性だった。きっちりと結い上げられた黒髪、フレームレスの眼鏡の奥で知的に輝く瞳。ネイビーのパンツスーツを隙なく着こなしたその姿は、まるで精巧なガラス細工のような冷ややかさと美しさを湛えている。
氷室雫、25歳。
大手探偵事務所『グレイ・サーチャー』に所属する、若くしてエースの呼び声高い敏腕調査員。そして、僕が営む『エピローグ・プランナーズ』が、最も信頼を置くビジネスパートナーだ。
「いや、僕も今来たところだよ。ありがとう、急に呼び出してすまない」
「いえ。代表からの『特A級』のご連絡、光栄です」
彼女はそう言うと、バーテンダーに「ミネラルウォーターを」とだけ告げた。勤務中はアルコールを口にしない。彼女のプロ意識の高さが窺える。
「それで、今回のクライアントとターゲットは?」
早速本題に入ろうとする彼女を、僕は手で制した。
「その前に、少しだけ個人的な話をしても?」
「……代表が、ですか? 珍しいですね」
氷室さんは少しだけ驚いたように目を見開いた。僕たちが仕事の話以外をすることは、ほとんどない。彼女のその反応ももっともだろう。
「僕はこの間、婚約者に浮気された」
僕は、目の前の夜景に視線を戻したまま、淡々と事実を告げた。一切の感情を声に乗せずに、まるで他人事のように。
隣で、氷室さんが息を呑む気配がした。
「今回のクライアントは、僕だ。そしてターゲットは、僕の婚約者である橘莉緒奈と、その間男。会社の同僚の、西園寺蓮」
僕は続けた。
「依頼内容は、二人の完全なる破滅。そして、僕自身の尊厳を回復し、最高の形で人生をリスタートすること。そのためのシナリオ構築と実行に、氷室さんの力を貸してほしい」
長い沈黙が、僕たちの間に流れた。
バーラウンジの喧騒や、静かに流れるジャズの音色が、やけに遠くに聞こえる。
やがて、氷室さんは小さく息を吐くと、静かに口を開いた。
「……事情は、理解いたしました。織部代表のプライベートな案件、謹んでお受けいたします。グレイ・サーチャーのエースとして、いえ、氷室雫個人として、全力でサポートさせていただきます」
その声には、いつものビジネスライクな響きとは違う、確かな意志が込められていた。
「頼む」
短く応え、僕はグラスに残っていたウイスキーを呷る。喉を焼くような感覚が、不思議と僕を冷静にさせた。
そこから、僕たちの打ち合わせは本格的に始まった。僕は昨日までに自分で調べた情報を彼女に共有し、今後の調査方針を詰めていく。
「西園寺蓮は、僕と同じ企画開発部の所属だ。実家がそこそこの資産家であることを鼻にかけていて、実力以上に自分を大きく見せたがるタイプ。僕が主導している次期大型プロジェクトのリーダーの座を狙っていて、以前から何かと妨害工作を仕掛けてきていた」
「なるほど。莉緒奈さんに近づいたのは、代表を精神的に揺さぶり、あわよくばプロジェクトの情報を盗もうという魂胆かもしれませんね」
「その可能性が高い。莉緒奈はアパレルブランドのプレスだが、承認欲求が強く、他人に認められることに価値を見出す傾向がある。西園寺の甘い言葉に、簡単に乗せられたんだろう」
僕はまるで、赤の他人のデータを分析するように、冷静に婚約者のプロファイリングをしてみせた。だが、その言葉を発するたびに、胸の奥がきしりと痛む。
打ち合わせが進むにつれ、氷室さんが時折、探るような視線を僕に向けていることに気づいた。それは調査対象に向ける鋭いものではなく、もっと人間的な、戸惑いと興味が入り混じったような眼差しだった。
「……あの、代表」
彼女がおずおずと口を開く。
「はい、何でしょう。氷室さん」
「これは業務上の確認ですが……いえ、個人的な興味です。代表は、その……辛くない、のですか?」
その問いに、僕は一瞬、言葉に詰まった。
辛いか、辛くないか。そんなこと、決まっている。胸が張り裂けそうだ。今すぐにでも全てを投げ出して、泣き叫びたいくらいだ。
だが、僕はプロだ。クライアント(=僕)の利益を最大化するためには、私情は邪魔になる。
「……仕事に私情は不要だ。今はクライアントとしての僕の利益を最大化することだけを考える。それだけだよ」
僕は、自分に言い聞かせるように、そう答えた。
僕の言葉を聞いた氷室さんは、何かを言いたそうに少しだけ唇を開きかけたが、結局「……承知いたしました」とだけ言って、再び業務用のタブレットに視線を落とした。
その日から、僕と氷室さんの「共犯関係」が始まった。
氷室さんの調査能力は、まさに圧巻の一言だった。
数日後には、西園寺と莉緒奈のデート現場の鮮明な写真、二人が利用したホテルの領収書のコピー、さらには西園寺が莉緒奈以外にも複数の女性と関係を持ち、そのうちの一人とは金銭トラブルを抱えていることまで、詳細なレポートとして僕の元に届けられた。
「西園寺は友人との電話で、莉緒奈さんのことをこう言っていたそうです。『奏佑から奪うまでのゲームだよ。あんな女、承認欲求の塊で扱いやすい。結婚? まさか。手に入れたらすぐに飽きる』と」
氷室さんから送られてきたメッセージに添付された音声ファイル。僕はそれを、莉緒奈の寝息が聞こえる寝室で、イヤホンをしながら何度も、何度も聞いた。
西園寺の嘲笑うような声。莉緒奈を完全に見下し、駒としてしか見ていない、その侮蔑に満ちた言葉。
そして、そんな男の口車に乗り、「奏佑は仕事ばっかりで私のことを見てくれない。でも蓮さんは、私を一番に考えてくれる」と友人に惚気ていた莉緒奈の愚かさ。
怒りで腸が煮えくり返るようだった。だが同時に、僕の頭は氷のように冷えていく。
これで役者は揃った。あとは、彼らが破滅へと突き進むための、完璧な舞台を用意するだけだ。
僕は深夜、自宅の書斎で、復讐のシナリオを練り上げていた。
PCの画面には、複雑なフローチャートが広がっている。西園寺の性格、莉緒奈の弱さ、二人の行動パターン、会社の人間関係、全ての要素をパズルのように組み合わせ、一つの結論へと導くための緻密な設計図だ。
それは、まるで大規模なプロジェクトの企画書を作る作業に似ていた。ただ一つ違うのは、そのゴールが「製品の成功」ではなく、「人間の破滅」であることだけ。
没頭するあまり、時間の感覚がなくなっていた。ふと気づくと、窓の外は白み始めている。
その時、スマートフォンの通知音が静寂を破った。
氷室さんからのメッセージだった。
『調査報告の追加です。西園寺が狙っているプロジェクト情報の保管場所、特定できました』
添付されたファイルを確認する。さすがの仕事ぶりだ。これで、僕の計画の精度がさらに上がる。
『ありがとう。助かる』
僕がそう返信すると、すぐに既読がつき、新たなメッセージが送られてきた。
『……あまり、根を詰めないでください。代表が倒れたら、クライアントがいなくなってしまいますから』
『……大丈夫だ。問題ない』
『そういう人に限って、大丈夫じゃないんです。私も、ついていますから。何かあれば、いつでも』
そのメッセージに、僕は思わず手が止まった。
いつもは報告事項だけを簡潔に送ってくる彼女からの、不器用な、しかし温かい気遣い。乾ききっていたはずの僕の心に、その言葉がじんわりと染み込んでいくのを感じた。
『……ああ。ありがとう、氷室さん』
返信を送り、僕はPCの電源を落とす。
窓の外では、太陽が昇り始めていた。それはまるで、これから始まる復讐劇の幕開けを告げる、壮大な照明のように見えた。
「さて、と」
僕は大きく伸びをする。
シナリオは完成した。あとは、主役であるあの二人が、僕の作った舞台の上で、最高の絶望を演じてくれるのを待つだけだ。
そして、僕の隣には、氷室雫という最強の協力者がいる。
なぜだろう。あれほどまでに感じていた孤独感が、今は少しだけ和らいでいる気がした。




