第2話「滑稽」
小雨が降り続いていた、あの夕方のことを、俺は何度も何度も思い返していた。
通夜の夜、帰宅してから何も手につかず、ただ無言で部屋の明かりを消し、ソファに沈み込んでいた。音もない。テレビの電源も落とし、スマホの通知も切って、まるで時が止まったようにただ過去に意識を沈めていった。
そう、あれは進藤が死んだ日の、ほんの数時間前のことだった。
俺はあの時、ダンプカーを運転していた。土砂を積んで、町外れの産廃処理場へと向かっていた。いや、正確には――処理場に行く「ついで」だった。
その荷台に積んでいたのは、ただの土じゃない。俺が掘った、深さ一メートルほどの進藤を埋めるための穴だ。
そう、決めていた。すべて計画通りだった。どこでどう仕留めるかも、夜中に何度も考えた。
だが、俺は――殺していない。少なくとも、自分の意思で殺してはいない。
そのはずだった。
※
T字路に差し掛かったのは、たしか、夕暮れの18時前。曇天が続いていたせいで、空はもう薄暗く、ヘッドライトを点けても視界が鈍かった。舗装もされていない林道を通るその道は、ぬかるみと砂利の繰り返しで、いつスリップしてもおかしくない状態だった。
ゆるやかな坂を下って、やがてT字路が見えてきた。
正面にはガードレール。その奥に細い川が流れていて、左右どちらにも曲がれるようになっている。
俺は産廃場がある左方向に曲がろうとしていた。
だが、そのとき――
「……は?」
視界の端に、何かが這い出してくるのが見えた。
泥まみれの何か。人だった。血に染まったシャツ。千切れた制服の袖。片足を引きずり、這いつくばるようにガードレールをくぐり路上へと這い出してくる。
進藤だった。
進藤幸太郎が、血だらけで、顔中傷だらけで、地面を這っていた。
一瞬、時間が止まったように思った。
次の瞬間、俺の右足が、なぜかブレーキではなく、アクセルを踏んでいた。
エンジンが唸り、ダンプの車体が前へ前へと力強く動いた。
進藤がこちらに気づく。だが逃げようとはしない。いや、逃げることすらできなかった。血に濡れた手で地面を掴み、崩れそうな肩で俺のほうを見上げていた。
その目には、恐怖よりも、絶望よりも――なぜか、安心に似たものが宿っていた。
ゴン、と何かが潰れる音。
ドン、とタイヤが何かを乗り越える感触。
俺は進藤を、ダンプカーで轢き殺した。
※
その瞬間の記憶は、音と衝撃だけを残していた。だがそれからの行動は、今も鮮明に思い出せる。
ブレーキを踏んだのは、その直後だった。遅すぎた。
バックモニターを見ると血と肉片が飛び散った『事後現場』が広がっていた。
吐き気が込み上げながらも、エンジンの唸りに意識を委ね、何もなかったかのようにハンドルを切り、予定通りの道へと進んだ。処理場へ向かう。あの土を処分するために。
だが、その車の下には、確かに進藤幸太郎の死体が、血の海となって取り残されていた。
※
――どうして、あのとき、ブレーキじゃなく、アクセルを踏んだ?
心の中で、何百回と問うた。
恐怖だった? 本能だった? それとも――
殺したかったのか、俺は。
この手で。自分の意思で。意識の底では、そう願っていたのか。
だけど、違う。俺は、あいつを殺すために、あそこにいたわけじゃない。
あのとき、進藤はすでに誰かに襲われていた。
血を流し、足を引きずり、シャツも破けていた。あの姿は「事故」では説明がつかない。
誰かが、先に進藤を傷つけていた?俺があいつにトドメを刺す前に。
なら、俺は――犯人なのか?
それとも、ただの偶然か?
あの日、何が起こっていた? あの時、進藤はどこから現れた?
交番からはほど近い場所ではあるが、パトカーはその時、交番に停めてあったと聞いた。なぜだ、いつも移動はパトカーのはずなのに。何か用があった?
T字路の上へ、這い出してきたあの動きは、誰かから逃げていたようにも見えた。
それとも、誰かに向かっていたのか。
※
俺は今、再びT字路に来ている。
同じ時間、同じ場所、同じ空気。
あの日と違うのは、進藤の姿が、もうどこにもないことだけだ。
足元のぬかるみには、まだかすかにタイヤの跡が残っている。轢いたときの、あの瞬間の。
ダンプの跡か、それともパトカーか。どちらのものか判別はつかない。
ただ、この場所に進藤はいた。そして、誰かが先に進藤をここへ運んだ。
俺が殺した。でも――最初から死にかけていた。
あの時、確かに目が合った。あいつは何かを言いたげだった。
口が動いた。だが声は聞こえなかった。
あれは、「助けて」だったのか? 「やめろ」だったのか? それとも、「ありがとう」だったのか。
ふと、川の向こうに影が見えた。
誰かが立っていた気がした。背の高い、黒い人影。
すぐに消えた。気のせいかもしれない。
だけど、俺は確かに見た気がした。
睨みつけるような視線だった。
あの日、通夜の会場でも同じような目に見られた。
あの男。
誰なんだ、あいつは――