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第1話「霧雨の葬式」

雨が上がったのは、式が始まる直前だった。


空はまだどんよりと曇っていて、低く垂れ込めた雲が空を一面覆っていた。通夜の会場となった小さな斎場の前では、黒い喪服を着た人々が列をなしていた。六月の空気は湿り気を帯びて重く、足元ではアスファルトの水たまりが風に震えていた。線香の香りに湿気と土の匂いが混ざり合い、鼻の奥にしつこく貼りつく。


ここは、進藤幸太郎の通夜会場だ。


三十歳、この町の警察署交通課、いわゆる交番勤務の巡査だった。

だが、三日前の夜、業務中にダンプカーとの衝突事故に巻き込まれ、即死。

あまりにも突然すぎる死だった。


俺は、弔問客に混じって静かに列の最後尾に並んでいた。焼香の列は長く、すすり泣く声すらなく、ただ僧侶の読経と線香の煙が空気を支配していた。

誰もが沈黙の中で、自分の呼吸すら控えるように喪に服していた。


俺は、進藤の遺影を見上げた。


白い菊に囲まれたその額縁の中、奴は笑っていた。どこか営業スマイルのような、薄っぺらな、あのいつもの顔だった。中学のころから変わらない。人の弱みに気づき、さりげなく踏みにじり、それを「正義」と呼ぶような男だった。教師の前では模範生を演じ、裏では弱者を裁いて笑っていた。優しさの仮面を貼り付けたまま、平然と残酷な言葉を吐くようなやつだった。



それでも、警官になったのだ。


その矛盾こそが、奴らしかった。



俺の隣には、重野優実の姿があった。


彼女は何も言わなかった。黒い喪服に包まれた肩はわずかに震えているように見えたが、それが冷えによるものか、感情によるものかはわからなかった。彼女の顔は、昔から感情が読み取りにくかった。いや、感情を表に出すことを、極端に避けるタイプだった。


「……久しぶりだな」


俺がぽつりと声をかけると、優実はわずかに頷いただけだった。


「こういう場でしか、顔を合わせなくなるなんてね」


それだけを言い、彼女は目をそらした。


彼女の頬には、化粧では隠しきれない、薄い痣のようなものが浮かんでいた。だが、それが何であるのかを、俺が問うことはなかった。


列が進み、俺たちの番が近づく。線香の煙がさらに濃くなり、喉が焼けるような感覚がした。湿った空気と混ざり合い、何かが腐る寸前のような重たさをもって、肺にまとわりつく。


そして、進藤の遺影の前に立ったとき。


心臓が一拍、脈を打つのを忘れたような感覚に陥った。


あの顔。あの目。あの笑み。記憶の中の進藤とまったく変わらない。だが今、その顔は、棺の中の腐りゆく肉の上に貼りつけられている。


視界の端に、一人の男の姿があった。


黒い礼服。整えられた髪。無表情のまま立ち尽くすその男は、誰とも言葉を交わすことなく、ただじっとこちらを見つめていた。俺はその視線に気づき、思わず目をそらした。だが、その目が俺を見ていたことだけは確かだった。


焼香を終え、席に戻る途中、再びその男の視線を感じた。誰だ。あいつは誰だ。


思わず、足元の水たまりを見た。水面に映る自分の顔が、歪んでいた。


やがて式が終わり、人々がぞろぞろと会場を後にする中、俺は裏手の喫煙所に足を向けた。湿った風が煙草の火を煽る。しけった紙がぱちぱちと音を立てて燃えた。肺に広がる煙が思考をほんの少しだけ和らげた。


そのとき、背後に足音。


優実だった。彼女は隣に立ち、煙草の火を借りるでもなく、ただ俺の隣にいた。


「……変な空気だったな」


俺が言うと、彼女は頷いた。


「みんな、何かを隠してるように見えた」


その一言に、俺は何も返せなかった。


足元のぬかるみに、水と混じった土が赤黒く染まっているように見えた。錯覚かもしれない。だが、あの日の記憶が、脳裏にわずかに蘇る。


あのT字路。


夕暮れ。


這っていた進藤の姿。


泥と血にまみれ、爪を立てて地面を這いずり、何かに縋るように伸ばされた指先。


歪んだ顔。壊れた片足。どこかで見た地獄のような景色。


そして――


最後の一服を吸い終え、足元に煙草を踏み消したとき、ようやく、俺はその言葉を心の中で呟いた。


すまないな、進藤。


お前を殺したのは、


俺なんだ。


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