Episode 34 コンマ以下の戦い
2人は決勝に行くための10位争いをしているとします。
Aさんはスタートが得意で、号砲が鳴ってからコンマ7秒で飛び出し、Bさんは少し苦手でコンマ8秒で飛び出しました。
そこから2人は動き出してからちょうど30秒0で泳ぎました。
となれば、ほんのわずかにAさんのほうが早くゴールしたことになって、決勝進出、Bさんは涙をのむことになる。
大雑把に言えば、こんな感じで、スプリント競技になればなるほど重要になってくるということ。
さて、話を戻して。福浦先輩は、リアクションタイムをコンマ75で飛び出し、浮き上がりは最後。それでも、しっかりと前に出ていて、頭1つ抜けているのかな。レースを引っ張っているように見える。
さすがだな。本人は自分のことで精いっぱいなんだろうけど。
福浦先輩は、ファーストハーフを34秒37で回ると、また豪快なフォームで泳いでいく。
ただ、こちらも久しぶりの長水路ということもあってか、目に見えて失速し始めている。
さすがに、普段から泳いで慣れていないときついかな。レース前に借りることってできたりするのかな。それだけでも全然違う気はするけど。
結局、福浦先輩は、鮎川さん同様、慣れていないことが祟って、後半は大失速。ラストハーフが44秒85で、トータルが1分19秒22で、こちらは、なんとかタイムオーバーせずに済んだ。
これであとは直哉と遊菜のレースだけだ。とりあえず、予選突破を目指してほしいかな。そんなことを考えながら、派手に始まる男子の1バタを観戦する。
そのころになると、ようやく鮎川さんが戻ってきた。
「お疲れ様です。背中の紅葉、大丈夫ですか?」
「うん?あぁ、福浦のな。大丈夫やで。やけど、ひどない?人が多く集まってる召集の中で背中にフルスイングやで?痛い以外の何もないし、周りの人にめっちゃ見られたわ。あれが中山やったら仕返しで蝶でも作ってんで」
そう言いながら笑う鮎川さん。なんとか大丈夫のようだ。というか、部長に対してだったら、背中を2回もしばくのか。意外と容赦ないな。
「あっ、せや。伊藤さん、スプリット見せてくれへん?」
「はい。えっと、これがスプリットです」
そう言いながら、カバンの中に入れていたボールでフォークボールの握りを見せて少しボケてみる。
「ちゃうちゃう。そのスプリットやない。スプリットブックや。誰が野球教えてって言うてん。っていうか、なんで野球のボールが入ってんのよ」
鮎川さんは思い切り突っ込んでくれる。私の思惑通りだ。
「鮎川さんが暗い顔をしていたんで、ちょっと明るくしてみようかなって」
「なるほどね。うまいボケや。俺もやってみてええか」
どうやら、お気に召してくれた模様。顔も十分に明るくなった。こういうムードメーカー的なこともマネージャーの仕事だと思う。多くは愛那がやってくれているけど。
「ただ、福浦にやったらまた紅葉を作られそうやな。中山とか男子にやったらうけるやろうな」
そう言いながらガハハと笑う鮎川さん。もう、タイムのことなんてどうでもいい言うばかり。
そんな鮎川さんにちゃんとスプリットブックを渡して、タイムを確認してもらう。
「う~ん。やっぱりもうちょっとバックは縮められたかもしれんな。久々の50メートルプールやったから、まだか。って思って抜けてもうたんよな。あぁ、感覚掴んだらリベンジしてぇ」
本気で悔しがっている鮎川さん。たぶん、ここにほかの3年男子の先輩がいてくれたらこういうことにはならなかったんじゃないかって思ったりもした。
「市立大会があるじゃないですか。最期のリベンジの場として。それまで私もサポートしますし」
「ほんま、伊藤さんは優しいよなぁ。誰かさんとは大違いやで」
そんなことを言う鮎川さんは、わざとらしく眼がしらを抑えていた。そんな鮎川さんを申し訳ないけどちょっとだけ無視して、レースを見つめる。
レースはそろそろ男子のバッタが終わりそうなところ。そろそろ1フリに競技は移って遊菜ちゃんの出番が近づいている。
『ただいま行われました男子100メートルバタフライの予選上位20位までの結果が表示されております。上位10人は決勝進出、11位は補欠1番、12位は補欠2番となります』
「うわ~、補欠1番が100分の1差か。泣くぞ~、これ」
結果が表示されている電光掲示板を見ながら鮎川さんが言った。
私としても苦い思い出があるから、見ないようにはしていたものの、そう言われてしまうとみてしまう。そして、案の定、少しだけフラッシュバック。
正直なことを言うと、だいぶ薄れてきているから、倒れると言ったことはなかったけど、やっぱりまだちょっと見るだけで悔しいってなるところがある。
ただ、ここから気持ちを切り替えて、遊菜ちゃんたちのレースを見届けよう。
そんなことを思いながら、嘔吐くのを誤魔化すように少しだけ咳をする。




