Episode 19 驚く美咲
レースはさらに快調に進む。組が解体されているのかと思うほど。ものの1時間で遊菜たちが出場する1フリのレースが始まろうとしていた。
20分くらい前から遊菜の姿は確認できていて、ちょくちょく確認しているんだけど、稀に見失うこともある。
というのも、いつものキャピキャピした雰囲気は何1つなく、見たこともないくらいに集中して、周りを寄せ付けないオーラを出していたから。さらに言うと、そのオーラが1組の周りの選手と同化して、周りより少し小さい遊菜が埋もれてしまうから。
本人には申し訳ないと思いながらも、男子の1バタ最終組のレースを見ていた。
この種目に出た成東さんは、ベストを更新したと思う。最後はもうヘロヘロになっていたけど。
そして、男子のレースが終わる前に自分のレーンに来ていて、遊菜も例に漏れず、自分の身体のいろんなところをたたいていた。
「シャア!」
男子のバッタのレースが終わり、アナウンスが入った後、唐突に叫び声が聞こえ、場内は一瞬驚きに包まれた。
声の主は、たぶん遊菜。いつものリス見たいな顔からは到底似つかない声だから、ありえないと思っていたけど、昼休憩の時に聞くと、声の主は遊菜だった。
緊張をほぐすためと、周りへの威嚇らしかった。
さて。レースに戻るけど、毎度ながらの笛が鳴って、選手がみんな準備する。遊菜ももちろん漏れずだ。
ただ、やっぱり、足元が気になるのか、しきりに気にしていて、どこか落ち着く場所を探していた。それでも、結局見つけることができず、諦めて両足を前後にずらして身体を少しかがめる。
「テイクユアーマークス」
この声で、遊菜は、スタート台の淵に手を添えた。
今回、この大会で数人の扇商の選手を見てきたけど、大抵の選手が淵を掴むことはせず、添えるだけだった。
たぶん、淵が分厚すぎてつかめないんだろうなとは思う。
それでも、号砲が鳴って、遊菜は慎重に飛び出す。ただ、慎重なのはそこだけで、そのあとは、ずっと豪快。
ついこの前教えた、ドルフィンキックも、まだ堅さは残るものの、惜しみなく打って、浮き上がってきたころにはすでに頭ひとつ抜けている。
こんな力があるのに、何で最初のころ、やる気がなさそうだったんだろうと思うよね。
そんな遊菜。ファーストクォーターを13秒で泳ぐと、変わらないペースでぐいぐいと突き放しにかかる。……けど、桃谷女学院の3年生も結構粘る。どちらかというと、遊菜が必死についていっている感じ。
それでも、遊菜に関しては、まだ余裕を残していそうな泳ぎにも見える。なか、ファーストハーフを27秒22で折り返した。コンマ数秒だけトップと遅れているけど、たぶん、大丈夫。
そんな心配をよそに、遊菜はストロークピッチを変えたのか、しぶきが少し激しく散るように感じた
そのピッチ上げは功を奏したのか、サードクォーターの手前で抜いて、先にターンをする。
ここまで43秒77と、ラップタイムとしてはやっぱり少し落ちる。ただ、それでもまだ58秒台は狙えるか。
ただ、記録会の時からたった2週間でハーフを1秒近く縮めるのはさすがだな。
そして、最後こそ、飛ばしきれなかったように見えたけど、59秒21とそれでも好タイム。
いや、好タイムで泳いでいるんじゃない。今季最速だ……。そんなことを知らない遊菜は、一息ついた後、ひょいとプールから上がり、人ごみに紛れていった。
やっぱり、すごいな。これだけの力が出せるなんて。もしかすると、近畿大会まで出られるんじゃないかって思う。私もできるところまでサポートしてあげないと。
そこからレースは少し進んで、あっという間に直哉のレースに。
その直哉。ふだんは、ひょろり先輩もいるから、あまり大きいと感じることは少ないんだけど、こうやって、レース前の選手と並ぶと、かなり大きいな。と改めて思う。
だって、後ろにいる計測係員の頭のてっぺんが直哉の肩あたりだもんね。 ……私もそんなものか。
いつも通り笛が鳴りだすと、直哉以外の選手はスタート台に足をかけたり、真後ろや真横にいたりするけど、直哉は別。長い笛が鳴るまで1歩たりとも動かない。その理由はわからないけど、中学の時からこんな感じだった。
そして、長い笛が鳴ると、直哉はようやく動き出し、またこれも独特なんだけど、クラウチングスタートの構えをするものの、その姿はまるで相撲の立ち合いみたいな感じ。
右足を前に出して、左足を引いている。そして、右手をスタート台の淵に、左手は左の太ももに乗せている。これが直哉のスタートの時の構え。
まぁ、このままスタートするわけじゃないけど、テイクユアーマークスがかかるまでの間、この状態でしばらく待っている。
「テイクユアーマークス」
その声とともに、直哉の左手はスタート台の淵に。これが直哉のスタート前のルーティンになっている。
そして号砲が鳴ると、一気に飛び出す選手たち。そこから直哉も、私が教えたドルフィンキックを打って浮き上がってくる頃には頭ひとつ抜けていた。
そこから、周りはしぶきを上げるけど、直哉はしぶきをできるだけ抑えて泳ぐ。
ちょっと前まで直哉は、ロングみたいに左腕が入水しきる前に、右腕を掻き始めるようにしていたけど、4月に会った日本選手権とかの動画を見ても、そういうことをしている選手はスプリントレースで見られなかったから、そこは矯正した。
少しスプリント独特の力強さは、影を潜めたけど、見た目だけの力強さはいらない。できるだけ、水中で泡を掻かせないようにしないと、ロスがあってもったいないし。
ロスのあるフォームより、少ないフォームのほうがいいに決まっている。そのほうが力を伝えられるんだから。
そんな直哉も、前半から積極的に飛ばして、なんとか後続を振り切ろうと、泳ぐけど、やっぱり1組はそういうわけにはいかないよね。ぴったりくっつくようにレースが進んでいって、直哉のファーストハーフ、25秒85で回っていった。
たぶん、このタイムって、中学の時に半フリで出したタイムとほぼ同じくらいのタイムよね。やっぱり、あのときより速くなっているのか。ただ、課題はここからよね。どこまで伸ばしてくるのか。
後半も、ついてくる選手たちを突き放そうと飛ばす直哉だけど、結局、トータルタイムが55秒59と、自己ベストだろうけど、後続はみんな2秒以内に収まっていた。
それでも、納得していたのか、直哉はちいさく2回うなずくと、軽々とプールサイドに上がって、人ごみの中に身体を隠した。
そこからもレースは続き、ご前週に行われるレースは全部終わった。ここから1時間の休憩で、午後からのレースは1時半スタートだということが通告員から通告された。
そして、次のレースの10分前まではプールが解放され、アップや練習をしてもいいと言われる。
その言葉をもって扇商の選手たちがいる控室に戻った。




