Episode 1 避けた過去
スクリーンに映し出される文字を見た瞬間、呆然となった。
「うそやん、絶対間違ってる……」
こぼれ落ちた言葉は悲壮と落胆に包まれていた。
この1年に賭けてきた努力が全部水の泡になった気がした瞬間でずっといると信じていた水泳の神様は私を見ていないんだと悟った瞬間でもあった。
スクリーンに映し出された数字と名前。
右のほうにある自分のタイムには何とか自己ベストを更新しているから、少しだけ満足している。満足できないのは、左側にある、上から順番に並んだ数字。私の名前は、十人並んでいるうちの下から二番目。
今までこんなところにいた人の気持ちってわからなかったけど、今になってようやくわかった。
スクリーンに映し出された『8』の歓喜と、『9』の悲壮感。この差は大きすぎる。
まだ心の整理ができずにいる。それにも関わらず、スタンドに戻った私が馬鹿だった。
周りから軽い言葉で慰められ、より悔しさが募り、涙が出る。こんなことになるんだったら戻ってこないほうがよかった。
そう思うと、スタンドを避け、場外に出た。ただただ、その場にいたくなかった。それだけだった。
『外にいてるから』
それだけ部長にメッセージを送って。
本当に泣きそう。今までこんな気持ちになったことがなかった。上手くいかなくてイライラしたことは何度かあるけど、悔しいのは初めてだった。
会場の雰囲気がイヤで外に出てきたけど、だからといって、やることは特にない。
その時、私のケータイが鳴った。メールが届いていて、差出人は部長。
『また終わったら連絡するから、気持ち、整理してこいや』
たった1文だった。しかも、まだ話していないのに、気持ちを悟ってくれたみたい。
部長とは幼なじみでお隣さん。ずっと一緒にいるから、お互いのこともよくわかる。何も言わなくてもたがいにわかるところがいくつかあったりする。
今の私だと何もできないし、その場にいても部の雰囲気が悪くなるだけだと考え、私をフリーにさせてくれたのかもしれない。
部長のその気遣いは嬉しかった。
今また場内に戻ったとしても、裏で涙を流し続けていただけかもしれない。
そして、なにもしないまま1時間が過ぎ、また部長からメールが届いた。
『決勝競技、終わりかけやで。シブガキが顔は出さんでええから、ミーティングは出て、話だけは聞いていけってさ』
その文面を見て、『わかった』とだけ打ち返した。そして、真夏の青い空を見上げた。
さぁ、だいぶ気持ちも落ち着いた。戻っていいかもしれない。けど、情緒不安定だから、戻った瞬間に泣き出すかもしれない。
とりあえず、自分の荷物だけでも取りに行こう。そして、そのまましれっと外に出よう。
場内に入るやいなや、さっき感じた空気に悪夢の残像がよみがえる。さっきよりもより鮮明に、しかも、余計なところだけスローで流れる。
これが勝負なんだと思わせるレースだった。今思い出しても、ものすごく悔しい。考えただけで涙があふれる。
できないってわかっているけど、時間が戻るなら、レースの前まで戻ってほしい。そこで悔いの残らないレースをもう一度したい。でも、そんなの絶対に叶わないのは十二分にわかってる。
そんなことをもいながら、チームがいるスタンドの裏に戻ってきた。まだ決勝に出る選手がいたはずで、スタンドの裏は、ほぼだれもいなかった。
いるのは荷物番を任されたのだろうか、1年生の女の子が1人。ただ、私の顔を見るなり、何かを悟ったのか『おつかれさまです』の一言も発さず、目をそらした。
それはそれでありがたかった。何にも話したくないのに、その一言だけでもイラッとしてしまうから。
ささっと自分の荷物を片付けると、人目をさせるようにして、また会場から足早に出る。
いつまでも、あの空気を吸ってられない。
決勝の空気に触れて熱くなって、周りはそれにつられてヒートアップしていく。応援の声さえ、今の私にはヤジに聞こえる。
それが耐えられなかった。外に出れば、そんな声もない。時間を忘れさせるようにセミが鳴く。それだけでなんだか安心した。
「あっ、おった。やっと見つけたで、美咲。ずっと探しとってんから。もうこっから動くなよ。この辺りでミーティングするから」
玄関を出てすぐのところで建物の影になるようなところにいた私に声をかけてきたのは、部長で幼なじみの直哉だった。
直哉は私の顔を見るなり『惜しかったな』とか『おつかれさま』とか言わなかった。たぶん、この言葉で私をさらに不機嫌にすることをわかっていたからだろう。
「わかった。ここからできるだけ動かない」
「できるだけってなんやねん。今は誰とも顔をあわせたくないんちゃうん?変に動いて顔合わせても知らんで」
「わかったから。あんまり話しかけんといて」
「はいはい、わかったよ。ほんなら、シブガキにも言うとくからな。周りにはいえへんけど」
「……直哉、ありがと」
そういって、返ってくる言葉を待ったが、すでに彼は足早に立ち去っていたようだ。
徐々に周りが騒がしくなってきた。少し顔を上げて後ろを向くと、ほかの中学校の選手がぞろぞろと出てきていた。
ざわざわしている中でも、『悔しい』だとか『惜しい』に似た単語は聞こえてこなかった。それぞれの集団がやりきったような雰囲気とか、楽しかったという雰囲気で覆っていて、それを私は嫌った。
そのなかに私も見覚えのある集団が近づいてきた。……自分の通っている中学校の制服だった。1番前には直哉もいる。
その集団が、私の少し後ろで止まると、反射的に体をさらに建物の陰に隠す。
どうやら、まだばれてないみたいで、直哉とシブガキしか私の居場所を知らないまま、ミーティングが進んでいく。
「はい、お疲れさん。今日で2日目が終わって、大半が初レースを経験したと思います……」
最初からだけど、シブガキの話は耳に届いていなかった。『レース』という単語を聞いただけで、さっきの悪夢がよみがえってくる。
そして、少し進んだところで、とうとう目の前をカラフルに彩ることはできなくなり、自分の膝に額を当てた。
「おい、いつまで泣いてんだよ。とっくにミーティング終わったぞ。帰れるか?」
この声は部長の直哉だった。
「はぁ、送ってやるからよ。階段の下までは自分で歩いてくれよ」
その言葉に「うん」としか言えなかった。
なんとかって言う感じで階段を下りたと同時に、1台のワンボックスカーが目の前に止まった。
直哉のお母さんが運転する車だった。
その車に、押し込まれるように乗ると、進みだした。
車内は冷たい空気に覆われていた。たぶん、クーラーだけのせいではないはず。
そんな冷たい空気を振り払おうと、直哉が話しかけてきた。
「美咲はこの1年、誰よりも頑張ってきたんや。スタミナ強化でショートの練習にもついていってたし、練習も最後まで残ってやってたのはみんな知ってる。今回は運がなかっただけや。また来年リベンジしたらええねん」
私が頑張った?そりゃ、このレースでいい成績を残そうと必死に頑張った。誰よりも頑張った自信はある。だけど、それに似合う結果はまったくついてこなかった。体調は万全だったから、今日の8フリのレースは自信に満ち溢れてた。入賞できるとしか思ってなかった。だけど、結果はちっぽけなものだった。だから、ものすごく悔しい。なのに、直哉の言うリベンジって何?私たち3年にとったら最後の市大会でしょ。ここでしかリベンジできないのに、どうしたらいいっていうの?なんもリベンジもできない……。
「なんも知らんくせに軽い言葉投げんといて。来年のリベンジって何?今年しかない種目にどうやってリベンジせぇっていうん?なんもわからんのに話しかけんといて。直哉のアホ」
直哉が少しでも暖めようとした空気は、一瞬で氷点下に陥るような勢いで低下し、車内を冷気が支配した。
そして……。
「うち、もう水泳やらん。明日のレースも全部棄権するし、残りの大会も全部でぇへん。あと少しやけど、先に引退する。絶対水泳なんかやらへん」
はき捨てるように放った言葉は、重苦しい雰囲気を引き裂き、直哉との間に氷の壁を作った。
本日から新作品をお届けいたします。
高校生の甘酸っぱい青春(?)ストーリー
お楽しみいただけたら幸いです。