という悪夢を見たんです!
ヤンデレ警報発令中 ご注意ください
「灯さん、これを書いてもらえますか?」
花織さんは、ダイニングテーブルにA3の紙を置いた。私はショートケーキを食べる手を止め、フォークを置く。
「……婚姻届?」
私は花織さんの顔を見上げた。彼は微笑みながら頷ずき、対面の椅子へと腰掛ける。
「僕にとって灯さんは唯一無二なので、早く結婚しちゃいたいなと思いまして」
結婚して逃げられないようにしたい……と聞こえた気がする。
私はティーカップに入った紅茶を1口飲んだ。先程まで美味しいと思っていたのに、今は全く味がしない。
「いやでも、お付き合いしてから2週間しか経ってませんし……」
「灯さん」
花織さんは笑みを深めた。
あ、まずい。まずい。
「他に気になる相手がいますか? いや、それはないですよね。それなら、これからもっと良い人が現れるかもって思ってます?」
花織さんは立ち上がった。そしてゆっくりと、私の方へ歩みを進める。私は寒気がして、たまらず目の前の紅茶を一気に飲み干した。
花織さんは私を背後から優しく抱きしめた。
「そんな人はこの先絶対に現れません。灯さんをたぶらかす悪い虫は、僕が全て処分しますから。だめですよ。よそ見は許しません」
彼は私の耳元で囁いた。
どうしよう。ヤンデレスイッチ押しちゃった……。
「いやその、私だって花織さんのこと大好きですし、他の人なんて考えられませんよ! ただ……」
私は婚姻届を上から下まで眺める。
「あ! そうそう! 私、自分の本籍が分からないんです。それに父の名前が自信なくて。漢字が旧字体だったような、そうじゃなかったような。うーん。と、とにかく今は書けません!」
花織さんはクスッと笑って、私から離れた。かなり苦しい言い訳だったが、信じてくれたのかな?
「灯さんがそう言うと思っていました。これをどうぞ」
花織さんは私に茶封筒を手渡した。私は中身を確認する。
「これは……」
「戸籍謄本です」
こせきとうほん。それは本籍も父の漢字も分かる完璧な書類だった。私は絶句する。
「安心してくださいね。ちゃんと正規のルートで入手しましたから」
こういった書類は誰でも発行できるわけではない。本人や家族などに限られているはずだ。……家族?
「ま、まさか両親に会ったんですか?」
花織さんは微笑んだ。花が咲いたと錯覚させる、美しい微笑み。
「えぇ、ご挨拶に伺いました。灯さんの夫になるわけですから。ついでに灯さんには今後一切関わらないと、約束もしてもらいました」
「あ……え……その……」
私と両親が不仲なことを、花織さんにはまだ伝えていない。もちろん実家の住所や、連絡先も伝えていないのに……。
「やっぱり花織さんは、私の手には負えません! この猛毒持ちめ! ヤンデレめ!」
「まあまあ、そう言わずに。さあ灯さん、諦めて婚姻届書きましょうね」
私の精一杯の抗議を、花織さんは軽く受け流した。そして彼は私にペンを握らせる。
「おや、手が震えていますね。大丈夫ですか?」
こ、怖い。花織さんの愛が怖い。この人は大魔王に違いない。
「灯さんがちゃんと文字を書けるように、僕の手で支えておきますから」
彼の大きな右手が、私の右手を覆う。そしてゆっくりと、婚姻届に促される。今の私は、まるで花織さんの操り人形だ。
眩暈がする。どうしようもなく眩暈がする。あれ、意識が……。
私の意識はぷつりと途絶えた。
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「という悪夢を見たんです!」
私はどんなに恐ろしかったかを、身振り手振りを交えて花織さんに力説した。説明を終えて満足したので、私はソファーに勢いよく腰掛ける。花織さん家のソファーは上等品だ。ふかふかで気持ちが良い。
「それはそれは。怖い思いをさせてしまい、申し訳ありません」
夢に出てきたものと全く同じダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた彼は、眉尻を下げた。
「いえいえ! 夢の話ですから! こちらこそ花織さんを激やばヤンデレにしてしまい、申し訳ないです!」
それにしてもリアルな夢だった。どうしてあんな夢を見てしまったのか。後で夢占いの本を読んでみようかな。
花織さんは私の隣に座った。そして私の髪を指先でかき上げ、耳にかける。
「ちゃんと消したはずなんですけどね……」
「!?」
私はソファーからエビのように飛び上がり、花織さんから距離をとった。彼の手が届かない距離に。
「どうしたんですか? 灯さん」
花織さんは、いつも通りの優しい微笑みを浮かべる。彼が1歩私に近づき、私は1歩後退りをする。それを何度か繰り返す。
「その後のことも思い出しました?」
その後があるの!?
「その反応だと、まだ思い出してはいないんですね。あの後意識を取り戻した灯さんに、婚姻届を書いてもらったんです」
私書いちゃったの!? 当時の私は諦めたのかな。うん、諦めたんだな。全く思い出せないけど。
「でもまだ提出はしていないですよ。あなたが余りにも落ち込んでしまったので。強引に話を進めたことを、今は反省しています」
花織さんは私に近づく。私は後退ろうとしたが、背中が壁に当たった。首筋を冷や汗が伝う。
このままだとまた記憶が消されちゃう。とにかく何でも良いから時間稼ぎがしたい。彼の気を引ける話題はないか? 私はあてもなく周囲を見渡す。なにか!! なにか!!
「あ! 花織さん! き、聞いてください!」
「なんですか?」
花織さんは立ち止まった。
「プ、プロポーズが先だと思うんです!」
「え? なるほど。確かにその通りですね」
「で、ですよね!! 一生に一度のことですし、各種イベントを飛ばしちゃうのは勿体無いですよ!!」
花織さんは何故か嬉しそうに微笑む。
「灯さんの理想のプロポーズは、サプライズでロマンチックなものですよね?」
私は首を傾げる。確かにその通りだが、そのことをいつ伝えた?
「……もしかしてっ!」
私は逃げようとして咄嗟に後ろを向いた。しかし残念ながらそこは壁だ。どこにも逃げ場はない。
「灯さん。あなたは本当に可愛いですね」
花織さんは夢と同じように私を背後から優しく抱きしめた。夢と違うのは、彼の右手が私の目元を覆っていること。いや、正確にいえばあれは夢では無いのだが……。
「前にもあなたは同じことを言いましたよ」
花織さんは私の耳を甘噛みした。私の心臓が跳ねる。くすぐったくて身を捩るが、全く逃げられる気がしない。優しく抱きしめられているはずなのにおかしくないか。どうしてなんだ。
「思い出せませんか?」
どこからか花のような甘ったるい香りがする。
「あ……」
──まずはプロポーズが先だと思うんです! そのプロセスを飛ばして結婚なんて嫌です! 婚姻届役所に出したら許しません! 花織さんのバカバカバカ! え? どんなプロポーズが良いかって? やっぱりサプライズですかね〜。ロマンチックで一生記憶に残るやつです!──
「灯さん、あなたがこの会話を覚えているとサプライズに支障をきたすので、どうか忘れてください」




