薄幸華族令嬢は、銀色の猫と穢れを祓う
「お願いです。少しの時間だけで構いません。監視をつけていただいて結構です。後生ですから、外に出る許可をくださいませ」
「あらまあ、文乃ったら。いつからそんな偉そうなお願いが言える立場になったの?」
「も、申し訳ございません。けれど、蔵の中がおかしいのです。このままでは」
「蔵の中がおかしいのは、昔から変わらないでしょう? なんと言っても井手本家の蔵にあるのは、どれもこれも厄介な『曰くつき』ばかりなのだもの」
頭を床にこすりつけて懇願する文乃のことを、文乃の姉は蔑んだ瞳で見つめていた。姉の心に届くことはないとわかっていても、必死に訴え続ける。
「敷地内から出るのがはばかられるということであれば、おばあさまのお部屋に入る許可をくださいませ。現状を打破するための書き置きなどがないか、確認したいのです」
「あなたが母屋に入りたがるなんて、一体何を企んでいるのかしら。この機会にわたくしを蹴落として、当主の座を乗っ取ろうとでもいうのかしら」
「いいえ、私は」
「それとも、おばあさまに着物の管理を許されなかったわたくしとお母さまへの嫌味かしら? お母さまはお身体を悪くして寝込んでいらっしゃるのに、そんなお母さまにご負担をかけるつもりだなんて」
「そんなまさか! けれど、このままでは井手本家が」
「お黙りなさい! わたくしには関係のないことだわ。役立たずの癖に無駄口ばかり叩いて。あなたの今日の食事はなしよ。しっかり反省なさい」
文乃の姉が苛立たし気に叫び、無情にも蔵の扉が閉められた。実姉の肩越しに見えていた夕焼け空が、あっという間に見えなくなる。じきに日が暮れるだろう
(やっぱり今日も駄目だったわ。おばあさま、ごめんなさい)
薄暗い蔵の中で、文乃はひとり小さく息を吐いた。
***
文乃は、大和の国の華族の娘だ。しかし現状、令嬢とは言い難い暮らしを余儀なくされていた。彼女の住まいは、座敷牢。母屋や離れにあつらえたものではなく、昔からある蔵を改装したものだ。療養ではなく、臭い物に蓋をするための場所。日の光が射しこまない土蔵での生活に、文乃の肌はすっかり青白くなっていた。
そんな文乃も、つい半年ほど前までは他の家族と同じように母屋で暮らしていた。状況が変わったのは、文乃を可愛がってくれていた祖母が亡くなったから。同じ家にいながら、姉は母親、文乃は祖母の手で育てられていたのだ。親戚からは、産後の肥立ちが悪く、寝込んでしまった母親の代わりに祖母が文乃を育てたと思われていたが、実際のところは少々違う。
『その顔をこちらに見せないでちょうだい』
文乃は、母親よりも父親、正確には姑によく似ている。そのことが母親には耐えられなかったらしい。生れ落ちた瞬間から抱くことを拒否された。嫁から子どもを取り上げる姑の話はままあるが、嫁に孫を押し付けられた姑の話は珍しいかもしれない。
そして元気だった祖母が突然他界してからは、家の中に文乃の居場所はなくなってしまった。祖母よりも先に父親も逝去しているため、姉を止めることのできる者はいない。文乃にしても、「あなたがいると、お母さまの具合が悪くなる。あなた、お母さまを殺したいの?」なんて凄まれれば、俯くよりほかに仕方がない。理由はわからぬものの、自分のことを母が疎ましく思っていることは事実である。そうして家の中で居場所を失った文乃は誰かに相談することもできないまま、長い間使われていなかった蔵の中の座敷牢に放り込まれてしまったのである。
人間が住むにはおよそ適さない蔵の中には、かび臭い空気がこもっていた。こんなことをするのならいっそ家から叩き出してくれればよいのに。けれど実母はともかく、姉が文乃をあえて閉じ込めた理由を彼女は理解していた。
「浄化はできなくても、時間稼ぎくらいはできるでしょう? お母さまはもう長く生きられない。わたくしは、お母さまに心安らかに過ごしてほしいのよ。あなたも、お母さまが大事なら、それくらい喜んで引き受けてくれるでしょう?」
娘ならば当然だと姉は微笑みながら、鍵をかけたのだ。姉は母のために、文乃は死ぬべきだと信じているような節さえあった。
蔵の中、文乃が暮らしているわずかばかりの場所以外は、「曰くつき」の品々で埋め尽くされている。杉や桐の箱に納められているのは、古伊万里の皿に艶やかな陶人形。作者不詳の水墨画に、七宝焼きの香炉。
不用意に手を触れれば命を失う、面白半分で蔵に近づいてはならない。幼い頃から、文乃はそう言い聞かされてきた。文乃はその理由を、貴重な財産を子どもが壊してはいけないからだとばかり思っていたが、まさか本当にひとを呪い殺すほどの力を持った品々が治められていたとは。
文乃の姉は、浄化できずとも文乃が呪いを一気に引き受けて死ぬことを期待しているらしかった。
これらの品々からは、夜ごと黒い液体が溢れている。壊れた蛇口のように、あとからあとからしたたり落ちてくるのだ。蔵の中に閉じ込められた日の晩のこと、文乃は雨漏りでもしているのだろうかとうっかりその液体を素手でぬぐってしまったことがある。その夜は散々な目に遭った。
見たことのない誰かの記憶が、一晩中頭の中を駆け巡る。人間よりもずっと長い一生を、何度も何度も体験するのだ。引き延ばされた時間の繰り返しは、人間の身には耐えがたいものがあった。最終的に熱を出し、息も絶え絶えで倒れ込んでいるところを発見されてなんとか薬だけはもらえたのだが、もう少し遅ければ命を失っていたかもしれない。単なる偶然であろうとも、それとも真実霊障であったのだとしても、文乃はもう二度とあの液体に手を触れようとは思わなかった。
けれど「曰くつき」たちの方はというと、文乃を逃がしてやるつもりはないらしい。どんなに暗い中でも、見失うことのない謎の液体。それは、少しずつその量と粘度を増しているように見えた。その上まるで生き物のように、じりじりと文乃が布団を敷いている場所に近づいているではないか。
さまざまな記憶が入り混じり、自分が誰で、歳がいくつかさえわからなくなったあの感覚を思い出し、吐き気が込み上げてきた。「曰くつき」から出てきた黒い液体に、本当に意志があるのかどうかなんてわからない。けれどもしも存在するのだとしたら、それはきっと「悪意」なのではないだろうか。もう思い出せない母の顔と、自分を蔑む姉の冷たい瞳を思い出し、震えが止まらなくなる。
(井手本家は、古くからある旧家。「曰くつき」の穢れを祓う役割を担っていたとしてもおかしくはない。でも、私は祓い方など習ってはいないわ。せめてどなたかにお話を聞くことができたら……)
生前の祖母に教わったものといえば、料理に裁縫、書道など、およそ穢れを祓うものとは縁遠いようなものばかり。もちろん花嫁修業としては意味があるのだろうが、母や姉にここまで嫌われている以上、嫁ぎ先を見つけてもらえるとは到底思えない。
(そもそも、ここから生きて出ることなどできるのかしら)
小さくため息を吐いたその時。床で黒光りしていた液体が、唐突に質量を増したような気がした。もともとこの蔵の中は、昼間でも薄暗い。その上、今日は新月。あかりとりの窓から、月光が入ることもない。
(あれ?)
見間違いだろうかと目を瞬かせた文乃は、声にならない悲鳴を上げた。むくむくと軟体動物のように膨らんだ液体が、一直線に文乃に向かってやってくる。温度なんてわからないはずなのに、触れれば心まで凍りそうな気がした。しゃがみ込み、小さく丸まったものの、いつまで経っても衝撃が来ることはない。
「おい」
「だ、だれ?」
「助けてやろうか?」
どこか面白がるような、甘い声が聞こえた。ゆっくりと目を開けると、文乃に向かって飛び込んできたはずの黒い物体は、子どもに押さえつけられたぜんまい仕掛けのおもちゃのようにじたばたともがいている。呆然とする文乃をよそに、べしべしと軽妙に軟体動物もどきを叩きのめしているのは、それはそれは美しい銀色の猫だった。
***
「お前、字は書けるか?」
「もちろん。おばあさまから、みっちり教わりましたから」
「それなら安心だ。さあ、その筆をとるがいい」
銀の猫がそう言うなり、文乃の手の中には筆が現れた。先の固まった古びた筆だ。先ほどまではなかったはずの筆を前に、文乃は首を傾げる。けれど、銀の猫は文乃の様子など気にすることもなく、ぺしぺしと軟体動物もどきを叩きながら告げた。
「まずはそれで、こいつらを吸い込んでみろ」
「この小さな筆で?」
「つべこべ言わずに早くしろ。お前がこいつらを取り込むか、こいつらにお前が取り込まれるか。どちらかしかないのだから。俺は別にどちらでもいいぞ」
黒い物体を押さえつけている小さな前足を外されそうになって、文乃は慌てて筆を近づけた。かちこちだった筆がぐんぐんと墨のような液体を吸っていく。
「こんな小さな筆に含みきれる量ではなかったはずなのに。そもそもあれは、墨なんかじゃなかったでしょう?」
「筆が墨として認識したのならそれでいい。それとも、お前は自分が墨になりたかったのか。おかしな奴だな」
「そういうわけではありません」
「そうか。次はその筆を使って書いていくぞ。このまま放っておくと、含みきれなくなった墨が溢れてしまう」
「墨が溢れるとどうなるのですか? 筆が壊れてしまうとか?」
「どうして筆が壊れるまで、墨を含ませておくと思う? こちらの身体が傷む前に、お前に墨を移すよ。だから筆に含みきれなくなったものは、お前の目や口から溢れてくる。そうしたら、お前も無事に『曰くつき』の仲間入りだ」
「それでは結局どちらを選んでも、『曰くつき』に取り込まれるではありませんか!」
「さっさと言うとおりにすれば問題ない。ほら、構えろ。大丈夫、怖がる必要はない。頭の中に浮かんだ物語を、そのまま文字に書き起こせばそれでいいんだ」
「何を、言って」
筆を持たされたところで、書くべきことが何も頭の中に出てこない。そう思った文乃だったが、唐突に知らない記憶が次から次に頭の中に溢れ出てきた。情報の洪水だ。以前黒い液体を素手で触ったときとは違う、記憶の見え方。芝居を見ているかのように、少しだけ引いた場所からいくつもの物語を眺めている。
あるときは、小さな山村で暮らした記憶だった。あるときは、帝都の屋敷で過ごした記憶だった。そしてある時は、大和の国ではないどこか異国の城での記憶だった。何度も何度も、異なる記憶を見せられた。違う時代、違う場所で、違う人々に愛され、慈しまれ、けれど最後は必ずひとりぼっちになってしまう悲しい記憶だった。
「何これ」
「早く書き留めねば、お前の気が狂うぞ」
けれど何をどうやって書けというのか。意味もわからぬまま、文乃は宙に筆を構えればするすると文字があふれ出した。それは文乃の知らない記憶だ。三世代の家族に囲まれて、温かい食事を楽しんだことなど一度もない。物心ついた時には、既に父親の姿はなく、母も病床に伏していたのだから。
空中に文字をつづれば、不思議なことにそれは自動的に手触りの良い和紙に書き写された状態で床に溜まっていく。そして誰かの記憶を書き終わると、それは丁寧に本として綴じられているのだ。
「ああもう飾り皿として、外国の家から家へ譲られるのはもううんざり。また昔のように、美味しい料理をたくさん載せて、みんなの笑顔が見たいものだわ」
出来上がった本をしげしげと見つめていると、自分の知らない気持ちが口からついて出てぎょっとした。訳がわからない。
「なるほど。古伊万里の皿の話から書き留めることにしたのか。まあ、あれはわかりやすい性格をしている。飲み込まれることもないだろうから、練習にはちょうど良かったな」
「あの、どういうことですか」
「おい、筆から墨が滴り落ちるぞ。ぽたぽた垂らすな。お前、死にたいのか。さっさと次の話に取り掛かれ」
「急いで書きます!」
そうしてひたすらに書き続けたものが積みあがった頃、ようやく床に溜まっていた黒い液体が姿を消した。書き続けたはずの筆は水で洗ってもいないというのに、最初に手に触れた時とはまったく異なり、新品のように白く輝いている。
「もう、動けません」
「ならば休むといい。なに、ここまで忙しいのは今日限りだ。明日からは、ゆっくり作業をしても間に合うだろう」
わからないことだらけだが、文乃にはもう詳細を尋ねる気力などなかった。静かに天鵞絨のような滑らかな毛皮に手を伸ばす。文乃は銀色の猫を抱き、久しぶりにこんこんと眠りについた。
***
清月と名乗った銀色の猫との出会いで、文乃の生活はずいぶんと変わることになった。「曰くつき」と呼ばれた品物たちは、もうすぐ付喪神になりそうな長い間大切にされた品々らしい。だからこそ、ちょっとしたきっかけで不満が溢れ出すと、呪物となってしまうのだとか。それを文乃が筆ですくい取り、書にそとして書き表すことで、気持ちが昇華され、穢れが祓われるらしい。そして彼らが正気を取り戻すと、力を持った付喪神もどきとして、不思議な力で動き始めたのだ。
舶来品の灯火器は油もないのに明かりを灯し、古伊万里の大皿は材料もないまま料理を振る舞う。奥にしまわれていた鏡台を引っ張り出せば、いつの間にか文乃のぼさぼさだった髪は綺麗に整えられているし、盥には清潔なお湯まで用意されていた。
座敷牢で「曰くつき」の呪いを受けて早死にするはずが、帝都の中でも一二を争うほどの優雅な生活をしてしまっているような気がする。初めて知る穏やかな暮らしに落ち着かず、おずおずと傍らの猫に尋ねてしまう。
「こんなに幸せに暮らしていてよいのでしょうか」
「お前は不幸に暮らしたいのか。変わったやつだな」
「いえ、そういうわけでは」
「そもそもお前が穢れを祓うことができなければ、こうやって楽しく暮らすどころか、穢れに飲まれて墨になっていただけのこと」
「怖いこと、言わないでください。はっ、もしやこれはすべて夢で、現実の私は狐か狸に騙されて、肥溜めに浸かっているのでは?」
「それが望みなのであれば、叶えてやるが」
「滅相もございません」
「ならば黙って、俺を撫でるがいい」
「仰せのままに」
文乃は銀色の猫に望まれた通りに、彼を撫でる。かつて祖母が生きていた時でさえ、ここまで心穏やかな生活は送ったことがなかった。
「私、清月と一緒にいられるなら、一生このままでも良いような気がしてきました」
「祓った『曰くつき』は便利だからな」
「違いますよ、あなたと一緒にいたいんです。勝手にいなくなっちゃ嫌ですよ」
「……ふん」
そんな風に目の前のことしか考えていなかったから、文乃は究極の選択を迫られることになったのだろうか。
***
それは、やはり月のないある夜のことだった。ここ最近、食事さえ届けることもしなくなった文乃の姉が、突然蔵にやってきた。
「文乃、起きなさい! 文乃!」
もう夜も遅いというのに、文乃の姉は彼女の返事を待つことなく、がたがたと蔵の扉を開け放つ。
「あの、どうなされましたか?」
懐に天然ゆたんぽである猫を抱いてぐっすりと眠っていた文乃は、寝ぼけ眼のまま身体を起こす。そこに投げつけられたのは、火のついた着物だった。突然の出来事に驚いたものの、熱さを感じる前に火はすぐに消えていく。清月がすごい勢いで飛び出していったから、何かしたのかもしれない。目を瞬かせている文乃に向かって、文乃の姉は泣き叫んだ。
「今すぐ、火を消しなさいよ!」
「あの、着物の火は消えているみたいですが」
「あなたとおばあさまのせいで。お母さまは!」
「お姉さま、お母さまの身に何か?」
「何よ、全部わかっているくせに! 心配する振りをする暇があるのなら、火を消してって言っているじゃない。お母さまが死んじゃう、死んじゃうよお」
わっと泣き崩れる姉の向こう側は、夜だというのにやけに明るく、焦げくさい臭いが鼻につく。まさかと思い扉に近づくと、母屋は激しい炎に包まれていた。
「これは一体?」
「何よ、しらばっくれて。あなたがやったんでしょうが!」
困惑する文乃は、先ほど投げつけられた着物をそっと拾い上げる。もともとは、鮮やかな紅色にいくつもの花が描かれた美しい着物。祖母が大切にしていた名匠の一品だ。それが火にくべられたせいで見るも無残に焼き焦げている。焼けずに残った部分も、墨を流し込んだように黒く染まっていた。それは、蔵の中に置かれていた「曰くつき」たちから染み出してきた何かによく似ている。
「お姉さま、おばあさまの形見の着物に触れてはいけなかったのではありませんか? それほどこの着物が欲しかったのですか」
「違うわよ。近づくと具合が悪くなる着物なんて家にあると恐ろしいから、燃やしてしまおうと思ったの。火は悪いものを浄化するというじゃない。それなのに、着物に火をつけた瞬間、母屋に火が突然燃え広がって……」
どうやら姉には、「曰くつき」から染み出た墨は見えないらしい。それでも本能的に危険を察知し、その結果燃やしてしまおうと思ったのか。その判断の速さと思い切りの良さに驚きつつ、文乃は小さく首を横に振る
「お姉さま、その火事は私の手によるものではありません。『曰くつき』に火を放ったから、火が返ってきてしまったのです」
清月いわく、「曰くつき」は付喪神になりかけの古道具やら骨董品やらが、負の感情を溜めこんで持て余したあげく堕ちてしまうもの。そしてなりかけとはいえ、神の一端にいるもの。好意と悪意は明確に嗅ぎ分ける。おそらく文乃の祖母の着物は、付喪神になりかけていたのだ。神ならばいっそ手心も加えてくれたかもしれないが、「曰くつき」ともなれば文乃への悪意がまるっと跳ね返ってもおかしくない。そこまで説明したところで、文乃は頬をうたれた。
「それでも、あなたはお母さまの娘なの!」
「お姉さま、私、お母さまと過ごした記憶がほとんどないのです。だから私には、お姉さまの気持ちはわかりません。普通のひとが持つべき、お母さまへの気持ちもわかりません。けれど、大事なひとがいなくなってしまう悲しみは、私も知っています。お姉さまも、頑張ってください。私も頑張ります。もしかしたら、私たちはまだ間に合うかもしれません」
「あなた、何を言って」
「すみません!」
まだ何やらまくしたてる姉を、文乃は外に突き飛ばす。そして自ら望んで蔵の扉を閉めた。鍵などかけずとも、こちら側とあちら側とがはっきりと分断されたのがなぜだか理解できた。暗闇に猫の目が光る。
「清月、母屋の火事は『曰くつき』に関係するものですよね?」
「その通りだ」
「それならば、普段『曰くつき』の品々の穢れを祓うように、この着物の穢れを祓えばあの火事を消し止めることができるはず。違いますか?」
「文乃は、あの火事をわざわざ消すつもりなのか?」
お月さまのようにまんまるの瞳に問われて、思わず息をのんだ。
「清月は、消す必要などないと言うのですか」
「当然だ、自業自得なのだから」
「そんな」
「別に良いではないか。このまま放っておけば、母屋の連中はみな息絶えるだろう。あの着物はお前を大切にしていた祖母のものだ。いまだ付喪神になることもできぬまま、お前を助けられないことを口惜しく思っていたらしい。ようやっと手に入れた力であやつらを一掃するつもりのようだ」
長く愛され大切にされてきたものは、付喪神になる。けれど付喪神になる前に、歪み、おかしくなってしまえば、「曰くつき」へと堕ちてしまう。
文乃は、焼け焦げた着物を抱きしめる。もしも、この着物が桐箪笥の中にしまわれたままだったなら、蓄えた力も徐々に失い、付喪神になることもなくただの着物に戻っただろう。あるいは正しく文乃に引き継がれていたならば、予定通りに付喪神になったかもしれない。けれど、文乃の姉は着物を燃やしてしまった。おそらくは、祖母や文乃への憎みつらみを語りかけながら。
それは文乃を守ろうとする祖母の想いとは相反するもの。けれど、祖母の心の中にも、同じような感情が髪の毛一筋ほどにだって存在しないとは言い切れないもの。嫁と孫に理性的に接した祖母にだって、何かしら思うところはあったに違いないのだ。だから文乃への呪詛に塗れた炎は消えるだけにとどまらずに、母屋へと飛び火したのではないか。
母からの愛情は文乃には与えられなかったけれど。姉には母がいるのだから、祖母には文乃だけを見てほしかったけれど。それでもひととして正しくあろうとした祖母の中に、これほど激しい感情があるのだと知ることができたのなら、もうそれでよいのだと思った。思えてしまった。
「清月」
「ああ、大丈夫だ。周囲の屋敷に飛び火することはない。安心して見守っているがいい」
「そうではないのです。私は、あの火事を止めねばなりません。母や姉に思うところはありますが、焼け死んでしまえとはどうしても思えないのです」
「あいつらに、文乃は今まで傷つけられてきたのに?」
「ええ。分かり合うつもりはないと最初から相手を拒んでしまったら、お母さまと一緒だもの。私が同じことをすれば、おばあさまはきっと悲しまれるでしょう」
「どうやっても分かり合えない人間だっているだろうに」
「それでも努力し続けることが、人間らしさなのではないかしら」
祖母は文乃を育ててくれたけれど、文乃だけの祖母ではなかった。だから、当たり前のように文乃の邪魔になるものを切り捨てようとする清月のことが愛しくてたまらない。この優しい生き物がいるのなら、どんな汚い気持ちを抱えていても、まだひととして留まっていられるような気がした。
「ねえ、清月」
「なんだ」
「あなたに出会わなかったら、何もかもすべて燃えてしまっても構わないと思ったことでしょう。でも、あなたがいるから。誰よりも私のことを大切にしてくれるあなたがいるからこそ、私はあのひとたちを助けようと思うの」
「文乃は、俺が大切なんだな?」
「急にどうしたの?」
「俺が一番大切なんだな?」
一番辛い時に、隣にいてくれた清月は文乃にとって家族も同然だ。もちろんだと、こくりとうなずいた。離れ離れになるなんて考えられない。
「なるほど、承知した。それによく考えてみれば、死ねば苦しみは一瞬だが、生きていれば地獄は続く。仕返しとして、なかなか悪くない」
家や財産を失った華族のご令嬢とその病弱な母親が、まともに暮らしていけるはずがない。それをわかっておきながら、何も言わずに清月は文乃の唇をなめた。
「まったくもう、せいげ」
そこで文乃が固まってしまったのは仕方のないだろう。何せ先ほどまで銀色の猫がいた場所には、美しい銀髪の美丈夫が立っていたのだから。
「せ、いげつ?」
「いかにも。俺は清月だが」
「だって、先ほどまでは猫が」
「俺のことを何より大切だと言ってくれただろう。一生家族として隣にいると。嫁御が来てくれたのだ。俺も力を出し惜しみせずに、本来の姿で隣に立たねば、失礼だろう?」
文乃の震える手に、清月が大きな手を重ね合わせる。手の中に現れた筆で着物に浮かぶ墨を含ませれば、するすると文字が飛び出した。他の品々の記憶よりも濃密なのは、近しいひとの持ち物だったせいなのか。
『わたしの着物は、文乃に譲る。これらの着物は、蔵の中の「曰くつき」と向き合う時の助けとして必要なもの。「曰くつき」に向き合うことのない人間には、意味のないものだ』
ふっと空中に浮かび上がった文字からは、祖母の声が聞こえるようだった。懐かしい、けれど祖母の声音は、文乃の記憶の中にあるものよりもずっと厳しいものだった。
『お義母さま、それではまるで上の娘はあなたの孫ではないとおっしゃっているようではありませんか』
『……ふたりとも、わたしの可愛い孫だとも。血の繋がりだけが家族ではないからね。何より、息子が納得しているのなら別に構わないさ。けれど、それはそれとして井手本家の役割を忘れちゃならない。「曰くつき」を正しい道に戻すことは、土地神さまに命じられた我らの役割。井手本の血筋にしかできぬこと』
『こんな家になど、来たくはなかった! どうしてあのひとと一緒に死なせてくれなかったの!』
『それでも飲み込んで生きていかねばならぬこともある。なに、急ぐことはない。いずれ時薬がそなたを癒すであろうよ』
どうして母が自分を嫌うのか、理解できなかった。親子にだって相性があるということはわかっている。それでも、母はあまりにも自分の存在に無関心だった。けれど、祖母の――正確には祖母の着物の――記憶を見てなんとなく思い至った。
母には父以外に好いた相手がいたのだろう。相手が死んだのか、それとも無理矢理別れさせられたのか、母は父と結婚した。お腹に、本当に愛したひととの子どもを宿したままで。
時間によって癒されることはなく、ただただ無気力に生きる母。その母をこの世につなぎとめるために、姉も必死だったのかもしれない。文乃には祖母がいたし、姉には母がいた。けれど、それはいないのと同じだったのかもしれない。きっと母は、姉ではなく姉を通して愛した男のことをただひたすら見ていたのだろうから。
(どうしようもない、家族だったわ。でも、これで良かったのかもしれない)
完璧な人間などどこにもいない。いつか傷も色あせも、味わいとして愛おしくなる日がきっと来る。そう信じたい。だから、自分は今できる最善を信じて歩き続けるしかないのだ。井手本家を壊したかった母も、どうすることもできずに座り込んでいた文乃も。
「大丈夫か?」
「はい。清月がいるから、平気です」
黒々とした文字は、文乃たちの周りをも埋め尽くしていく。どうしてだろうか、扉の向こう側は見えないはずなのに闇夜に浮かび上がるすべてを焼き尽くす炎の色も、それらを覆いつくす文字の色も、ただただ息を呑むほど美しい。
「文乃の物語はこれからだ。新しく始まる物語は、今までよりもずっと面白いぞ。俺が保証してやる」
「ええ、きっと今までにない物語が始まりますとも」
見えないように蓋をしていたものは、すっかりどこかへ行ってしまった。胸の内にくすぶっていた、寂しさも怒りも悲しみさえ燃え尽くされたのか。あるいは気が付かないほど深いところで、くすぶり続けるのか。それでも、清月がいれば大丈夫だと文乃は思う。繋いだてのひらから感じられるのは、驚くほど優しい温もりだった。
翌朝、井手本家は母屋も蔵もすべてが焼け落ちた状態で発見された。火事の激しさとは裏腹に、死者がほぼ出なかったことだけは幸いだと周囲は囁き合った。呆然と立ちすくむ母娘は口もきけぬ有様だったが、身内を亡くした心痛によるものだろうと片付けられた。
その火事で命を落としたのは、文乃と呼ばれた少女、ただひとり。そして財宝が山のように溜め込まれていると噂されていた井手本家の蔵の中には、消し炭どころかなにひとつ残っておらず、親戚一同をがっかりさせたのだった。
***
とある町の小さな古本屋。
そこで年若い男が、ふむふむとうなずきながらいくつもの本を読み進めていた。
「いやあ、面白い。無名の作家の作品ですからどんなものかと思っていたら。どれひとつとして同じ作品はないのだから驚いた」
「彼らの物語は、彼らの一生そのもの。同じものなどあるはずございませんわ」
「それならば、この本は一冊限り? 同じものが新しく販売されることはないと?」
「当然でございます。何せそちらの本は、この子たちと一緒に引き取っていただくものですから」
店の主である美しい女は、本棚の横の飾り棚に置かれた骨董品を示して微笑んだ。
「おや、あれは。こちらの本の中に出てきた古伊万里の皿にそっくりだ。挿絵はなかったが、頭の中で思い描いていたものと寸分変わらない」
「そちらは、確かにこの古伊万里の皿で間違いありませんよ。何せ、その本はこの子の一生をつづったものですから」
「なんとまあ。とある縁で異国の王城で飾られていたものの、また再び大和の国に戻ってきた名品。家宝として飾られることをよしとせず、お家争いの際に泥棒に盗まれ、料理皿として使われないのであればいっそ呪物になってやるとやけを起こした、あの大皿だと?」
こくりとうなずく店主に、客人はなるほどと自身の髭を撫でた。
「実に面白い商売だね。骨董品を好むものは、その品物の背景、彼らの背負う物語を好むものも多い。無名の職人の作品でも、心に訴えかける物語に触れれば思わず買いたくなるに違いない。古本屋と見せかけて骨董屋か。いやはや、なかなかお上手だ」
「高値でふっかけるためではないのですよ。お品を気に入ってくださっても、彼らの歩んできた道を受け入れてくださらなければ、お嫁にもお婿にも出せませんから。ただこの子たちに幸せになってもらうために、じっくりと顔合わせをしていただいているだけなのです」
「箱書きや鑑定書の類ではないと?」
「さようでございます。どちらかと言えば、この物語は運命の一冊。分厚い釣書だと思っていただいて構いません」
客は、古伊万里の皿とその来歴……と一言で片付けるにはいささか濃密で波乱万丈すぎる物語がつづられた本を見つめる。
「こちらの本は釣書のようなものとおっしゃったが、こちらが望んでも購入できないこともあるという意味と理解してよいのだろうか」
「はい。頑固な子も多いですので、お望みいただいてもお引き取りいただけないこともあるのです」
「つまり、彼らに選ばれないといけないのだね。我々客が選ぶのではなく?」
「申し訳ございません」
「なるほど、選ばれなければ連れて帰ることはできないわけだ。我が家なら家族も客人も多いから、毎日好きなだけ御馳走をのせてやれると思ったんだがねえ」
「そういう意味ではございません。この子は最初からお客さまの家に帰るつもりだったようです。押し付けたようで大変申し訳ないのですが」
「店主殿は、御商売がうまい。そんな風に言われたら、買う気がなくても買いたくなってしまう。やれやれ、僕がこの店に入ろうと思ったのは、お美しい店主殿がいたからご挨拶をしようと思っただけだというのに」
男が頭をかいて笑っていると、ちりんと鈴の音がする。なう。銀色の猫が暇を持て余したかのように、店主の足元に転がった。
「おや、可愛い猫だ」
はーっ! がっつりと威嚇され、猫好きらしい客人はしょんぼりと肩を落とす。くすくすと困ったように女が笑った。
「申し訳ありません。この子は、少し我儘でして」
「まあ、猫は我儘な生き物ですから」
めげずに男が手を伸ばせば、銀色の猫が素早く男の手の甲を叩いた。爪は引っ込めていたが、次に触ったらきっとざっくりとやられて血を見ることになるだろう。
「こちらはおいくらかな」
「値段などあってないようなもの。彼らに値段をつけるなど、おこがましくてできません。お気持ちでどうぞお願いいたします」
「お気持ちというのが一番難しいんだがね。まあいい。おかげさまで、良い出会いができた」
「いいえ、こちらこそ本当にありがとうございます」
満足そうな足取りで帰っていく客人の背中には、艶やかな女が張り付いていた。彼女はずっと探していた相手をようやっと見つけたらしい。ひらひらと長い着物の裾を揺らしながら、遠ざかっていく。見送る店主の後ろから、美丈夫が顔を出した。
「これ以上文乃に色目を使うならば叩きのめすつもりであったが、帰ったか」
「もう、清月ったら。そのように、お客さまを目の敵にしてはいけません。どなたがこの子たちの嫁入り先になるのかわからないのですから」
「だがあの男、文乃を目当てに店にやってきたと言っていたではないか。やはり、二度と来られぬように印をつけておくべきだったか」
「あれはあくまで社交辞令です。それに、運命のお品を見つけてお戻りになったではありませんか」
「偶然かもしれぬではないか」
「あらあら、困ったお方ですこと。お腹が空いているから、小さなことで苛々してしまうのです。さあ、お食事の時間にいたしましょう」
「うむ」
「それから、夜はまた書を書かなくては。また新しく『曰くつき』の子たちが増えましたの」
「その間、また俺は放置か」
「一緒に書を書いているではありませんか。共同作業に違いないでしょう?」
「それは仕事だ。もっと俺だけに構え」
「まあ、仕様のない旦那さまですこと」
まとわりついた美丈夫が離れる様子はない。ころころと笑いながら、文乃はいつもよりも少し早めに店を閉めることにしたのだった。
お手にとっていただき、ありがとうございます。ブックマークや★、いいね、お気に入り登録など、応援していただけると大変励みになります。