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憎しみを肯定されると人は深みにハマっていく

 これは私個人の体験やインターネット上の様々な人間を見てきた結論であり、しかし決して他人に強要するものではなく、これが真実であるとする物でもないことをまずご理解頂きたい。



 タイトルにある通り、人間は、己の憎しみを肯定されると、それを肯定するグループなどにハマり沼へと沈んでいく、ということである。


 憎悪とは、あるだけ損な感情である。それが体内に存在するだけで心身に異常をきたし、最悪の場合、うつ病などにもつながり命の危険性にまで及ぶ。

 他方、憎悪とはなかなか捨て置けない感情である。捨てようとしても捨てられず、むしろそう考えれば考える程憎しみに暴露される。


 上記二つの特徴を考えれば、憎しみとはまさしく「心の癌」であるのだ。いくら切除してもやがては再発する、もしくはその可能性が高いという面を考えたら、まさしくこの表現が正しいと言えるだろう。


 憎悪は、そこにあるだけで私たちを不快にする。しかし、だからこそ、憎悪を発散させる時、我々は得も言われぬ快楽を得ることとなる。


 これは非常に強い快楽である。それこそ、性交か憎悪の発散か、どちらの方がより「スッキリする」のかを考えれば、明らかに後者の方である、と断言できる程に強い。

 そして性行為に依存症があるのと同じように、憎悪の発散にも強い依存症がある。例えば、所謂「スカッと系」を楽しむ心理も、この憎悪の依存性によるものだと言えるだろう。


 憎悪を発散させる行為は非常に楽しい。だからこそ、憎しみと言う攻撃性を発散させる何かがあれば、人はそれにすぐにでもハマってしまう。例えば、そう。「アンチ行為」などだ。


 アンチとは、いわば憎悪を拗らせた者たちだと言える。不思議ではあるかもしれないが、我々は特にこれと言った被害が無くとも、何かの対象に対して憎悪を抱くことができる。それこそ、創作物のスカッと系はまさしくこれであろう。架空の人間に対してなぜこれほどまでに気持ちが乗るのか、という部分が、何よりもこの事を証明している。


 また多くの場合、人間が関係ない存在に憎悪を抱くときは、何よりも「正義感」が関与している。


「こんなことはあってはダメだ」「許されない」「堪らなく理不尽だ」、そうした感情から義憤、すなわち怒りが生まれ、そして怒りが憎悪へと繋がっていくのだ。


 また憎悪と発散は人の理性を溶かしていく。これに取り付かれた者は、もはや無意識の内にそれを求めてしまうようになり、この娯楽を楽しむために心の底から理性を失くしていく。

 考えてみればわかるが、「相手にも事情があった」とわかれば、途端にスカッと度合いが落ちるであろう。我々は常に自分こそが正義であると実感し、相手は紛うことない完膚無き悪であると信じていたいのだ。

 こうした憎悪と発散の麻薬性に取り付かれやすいのは、とりわけ子供だ。なぜなら、子供は経験が浅く、また脳がまだ発展途上であるというどうしようもない事実がある。それ故に、理性も、自らの行いを戒める経験も、何もかもが足りていないのだ。これはバカにしているなどではなく、人間の生理学的な、どうしようもない事実であるというだけだ。言わば女は男より筋力に劣る、というのと大した違いは無い。


 しかし、ここで重要なのは「子供だから取り付かれやすい」という意味ではない、というところだ。子供は取り付かれやすい、と言うのはあくまで「結論」であり、その理由、すなわち過程は「理性が育っていないから」という部分にあるからだ。


 得てして、この手の論述は「結論」よりも「過程」の方にこそ重要さがあるものである。例えば私の握力は右手、左手それぞれ40代と男性にしてはまあ少し低めであるが、他方、天音かなたは50キロ代であり、吉田沙保里に至っては右手だけで自動乗用車をぺしゃんこにしたという逸話まである(一応書くが、本当の吉田沙保里の握力は55キロくらいということらしい)。


 このように、女性が男性の握力を上回るという一部例外があるように、子供が大人よりも理性が上回る事例も存在している。

 と言うか、大人であるのにも関わらず理性が児童並の人間は結構いる。ツイッターとか見てみると特によくわかるだろう。そして私も何を隠そうその恥ずかしい大人の一人なのだ。


 話を戻すが、何が言いたいのかと言うと、「大人だからと言って、理性が発達しているとは限らない」ということだ。

 そしてその手の人間ほど、憎悪の快楽に取り込まれやすいということでもあるのだ。


 そも、憎悪の快楽は、誰であっても簡単に呑み込まれる。屈強な理性を持ち、思慮の深い人物でも、この快楽、及び魔性さには抗えない。体感的には性欲の何十倍という威力を持って我々へと迫り来る。


 このなろうと言う界隈でも、よくよく見られるだろう。本格ファンタジー派となろう系ファンタジー派の諍いは日常茶飯事であるし、この双方が憎悪の快楽に取り込まれていると言っても過言ではない。エッセイではよくよくテンプレ批判がランキング一位を取るし、これに対する反論もまたランキングを取りやすい。そしてツイッターでは日夜論争が絶えない。意見を発する者は多くの場合、その意見に感情が乗っている者である。


 そしてこの憎悪を肯定された場合、人は更なる悦楽を得る。


 褒めてもらえるのは嬉しい。良い感想が来ると心が躍るし、私のような底辺作家は今か今かと自身のページの赤文字を見ている。

 これには無論憎悪は載っていない。ただ、私が書いた作品への感想を待つのみである。

 しかし、それでさえもこれほどまでの魔性さを持っているのであれば。そこに、憎悪という感情が乗り、これを肯定された日には、どのようになるだろうか。



 ツイッターでは、今日も憎悪による論争が絶えないでいる。論争という事は反論があると言うことであり、反論は反射的に人に不快感を湧き起こさせる。ましてやネットなのだから、様々な意見が溢れるわけで、すなわち非常に失礼な文言も数多くある。これがまた確かに理不尽であり、人が憤るのに十分な理由となる。

 憎悪は年月を積み重ねれば積み重ねる程、感情が積み上がれば積み上がるほどに強くなり、この発散により囚われるようになる。そしてどこまでも肥大化した憎悪は途方もないほどに先鋭化し、時には殺人さえ辞さないほどとなる。集団単位で憎悪を共有していた場合、それはテロリズムなどの重大事件にも繋がっていくだろう。また憎悪に取り込まれた人間は、その憎悪の元凶(敢えて今はこう表現させていただく)である「敵対者」と、『それとかかわりがある何某』にまでその矛先を向ける。いわば、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言う物だ。


 そうすると、関わりがある何某、すなわち「単に連想させるもの」にまで不快感を感じるようになり、憎悪をまき散らす結果となる。それは火のついた導火線のように消すことが難しく、また一歩を踏み外した先の「爆弾」にまで続いている。手が付けられないという事だ。


 憎悪に自己顕示欲が付随すると、我々はこの魔性から逃れる手立てが無くなる。ではこの憎悪をどうすれば良いのかというと、我々が健全でいるためには、とにかく「触れない」ようにするほかない、と言うのが結論であろう。


 しかし、多くのプロパガンダが、敵国の悪性をとことん演出するのを見ればわかるように、憎悪とは戦いに大いに役に立つ感情でもある。なにせ我々は、憎い相手を傷付けることをなんとも思わない生き物であるからだ。


 先も書いたが、正義は怒りを、そして憎しみを呼び起こす。しかし果たして、この憎しみに触れないことが本当に健全であるのか。世の中には、「何もしていなくとも何かをしてくる連中」はいるわけで、そして例えそう言う人物が相手でなくとも、時として「ここで戦わねば、自らの尊厳が奪われる」という事も多々あるわけだ。

 こうした時、「憎しみを捨てよ」という健全性に当てられた者は、当然ながら排除される。我々人類は未だこの地球と言う自然性に勝ったことが無く、すなわち、暴力とは何にも勝る力であることは変わりないからだ。


 とにもかくにも、憎悪の恐ろしさと依存性、そしてその有益性と言うのは、我々が我々を考えるのに非常に有用である。以上で考察を締めくくらせていただく。彼女が欲しい。

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