02.神に拾われる
あらすじ
夕暮れ時の街中で、男は通り魔に刺された。
失血多量で死にかける男の胸の内は、死にたくないという願いだけ。
男は最後の瞬間まで、ただそれだけを願っていた。
「やあ」
そこは真っ白な世界だった。私ともう一人以外には何もない。床も、壁も、空も、本当になにもない世界だった。地面の感触はなく、けれど落ちている訳でもない。浮いているように、私もソレもそこにいた。
そんな私に声をかけてきた相手は、視界に納めてもそれがどんなモノであるかわからないというおおよそ、人の理解の外に存在する者だった。
形状的には人間のようであると思う。けれど、その輪郭はわかっても、細かな内容は理解できない。顔があるとわかっても、どんな顔なのかわからない。目があるとわかっても、その目が大きいのか小さいのか、一重なのか二重なのか、たれ目なのかつり目なのか、とにかくぼんやりとした雰囲気しかわからない。
性別もどちらでもあり得そうで、年齢だって高くても低くても納得できる。或いはどちらにしても納得できないのかもしれない。
「混乱しているね」
少年のような、或いは少女のような高い声で、それは私の様子を見て楽しそうに言った。
「ここは、どこだ。なぜ私はここにいる? 私は……私は、し、死んだ……はずでは」
「そうだね。君は一度死んだ」
「なら、ここにいる私は? なぜまだ意識がある? なぜ私は消えていない? これは私が幽霊となったということか? それともここは死後の世界だというのか? 私はどうなっている? 私は残滓か? それとも安定した存在か?」
「うん、じゃあ順序立てて説明していこうか。まずは自己紹介からね。僕は君の居た世界から見て異世界の神だよ。そして今は訳あって、死した君を僕の空間に招待している」
神、ときたか。場合によっては何よりも嘘くさい言葉だが、この場所とソレの雰囲気がその言葉を証明していた。
私の心が、魂が、言っているのだ。
コレは、間違いなく神なのだと。
少なくとも、私が神と聞いて想像するようなことは、可能とする超越的な存在であると。
その事実に私のテンションは一気に膨れ上がった。これはもしかして、あれか? あれなのか? 異世界転生というやつなのか? 私は転生してしまうのか? 異世界に?
その空間が、その状況が、何よりも私の記憶を刺激する。あまりにも、らしい場所。まるで私の記憶を読み取って、それらしく作り上げたかのよう。私に状況を分かりやすく証明するために。
そもそも異世界転生という可能性が何よりも先に出てきたのは、それが私の願望でもあったからだ。その手の書物は、よく読んでいた。昔から幻想小説が好きだったからと言うのもあるが、何よりも物心ついた頃より心に住み着く死の恐怖から逃げる手段として、物語というのは最適だった。楽しければ気分は上向くし、主人公の人生を追体験することで、自分の死という現実から目を背けることもできる。そして何より、魔法や神の奇跡といったこの世には無い可能性が溢れている。私が心底望むような不老という可能性に。
これはきっと千載一遇のチャンスであり、どこぞで聞いた異国のことわざ、幸運の女神には前髪しかないという奴だ。即ち、何としてもこのチャンスを掴まなければ。
目を輝かせて近づく私に、神は苦笑しながら続きを口にする。
「まあね、おおよそは君の思うとおりだよ」
何一つ言葉にしたつもりは無いのだが、どうやら私の思考は読まれているようだ。この存在ならば、そのくらい訳無くやってしまえるだろう。
「僕が死んだ君をここに呼んだのはね、君が多少なりとも僕の興味を引いたからさ」
死んだ。何気なく出たその言葉に私は改めて軽いダメージを受けるが、それはともかくとして。
世界の危機を救うでも、戦争に勝利するためでも、偶然の事故でもなく、ただ神の興味を引いた? 数多いる人間の中でこの私が?
確かにそのどれをとっても私には不釣り合いだ。私には巨悪へと立ち向かう勇気も、味方を勝利に導く頭脳も、偶然を引き当てる幸運もありはしない。
だからまあ、選ばれる理由として順当と言えば順当なのだろうか?
いや、でもこう言ってはなんだが、私は異世界の神に興味を持たれるような特別な存在ではないと思う。
死にたくないという思いに突き動かされてきた人生とはいえ、そんなことは例外こそあれ、誰でも一度は思うことだ。私のように幼い頃から四六時中願っているようなのは多少稀だとしても。
生存への欲求は、生物の本能と言うものだろう。
不老を求めて、先端科学を覗いてみたり、魔術や仙道といったオカルトに傾倒してみたりもしたが、マニアという域にすら達しないほどの浅い知識しか持っていない。
そもそも私は生来の怠け者だ。死の恐怖が無ければ、生きる事すら難しかっただろう。
それでも自分を害するものや、他者を害するようなもの以外は一通り手を伸ばした。生きたかったから。死にたくなかったから。幽霊という死後の可能性や、不死を唱う生物の生態を調べたりもした。けれど、結局それらの情報が実を結ぶことは無かった。
なぜなら、それが私の望む生きるという形と合わなかったからだ。
どうでもいい事のようにも思えるが、それがとても重要なことなのだ。
たとえそのどれかで私が願いを叶えたとしても、私が私でなくなれば意味はない。
私の世界に異物はいらない。私が私であるために、私は私の望んだ道を選ばなければならないのだ。それだけは曲げられない。それこそが私が私であるという証だ。私が私でなくなるとき、それは私の死と何ら変わらないのだから。
そんな私からすれば、むしろ夢と希望の詰まったファンタジー系の小説や漫画、ゲームなどから得た知識の方が馴染みやすかったわけだ。そちらで言えば、多少はマニアやオタクと呼ばれることを誇れる程度の知識はあると思う。
とは言え、それにしたって上には上がいるものだし、そのほかの生活では取り立てて面白いという点もない。
自分の技能では人の中でしか生きられないと言うことはよくわかっていたから、人の中で生きる上で波風を極力立てないようにして生きてきた。
死にたくない私が志していたのは、ルールを守ること。人としてのルールを守り、社会としてのルールを守り、国としてのルールを守り、集団としての暗黙のルールを守る。
集団の中で生きる上でルールを守っている以上、ルールは私を守ってくれる。
そんな私の人生に面白みなんてあるわけが無く、平凡に平凡を足したような、堅実な人生だった。少なくとも私という主観で、私の人生を客観的に見るならば。
「そーでも無いと思うけどね。じゃあ、そうだね。君にはこれから僕の世界に行ってもらおうと思ってるわけだけど、一つ僕からプレゼントを上げようと思うんだ。さあ、どんな願いでも一つだけ叶えてもらえるとしたら、君はなにを願う?」
「寿命の終わりを無くしてくれ」
一つだけの願いと聞かされた瞬間、私はそれを選んでいた。食い気味に発したその言葉には一片の後悔もない。
死にたくないと願う私が最も恐れるのは何かと言えば寿命だ。それは確実にやってくる。それだけは、どれだけ対策してもどうしようもない。ルールをどれだけ守っていようとも、意味はない。それは無慈悲なる終わり。絶対の原則。この世の摂理。
無論、突発的な死の可能性はどこにでも隠れているし、現に私はそれで死んだ。それも確かに恐ろしいものだ。私がルールを守るのも、それに対する備えなのだから。
でも私が何よりも恐れたのは、確定した絶対に変わらない終わりの未来だ。その瞬間は常に私の心を蝕み、狂気へと誘う。心が幾度も軋み、耐えられないと訴え続けた。それを認識するだけで、私はなにも考えられないほどの恐怖に浸された。ずっとずっとごまかして逃げ続けていたけれど、ふとした瞬間に捕まり襲われる。
物心ついた頃から変わらない。いやきっと、産まれた瞬間から、それはあったのだろう。
それを無くすことが私の望みであり、希望だった。死にたくない。死にたくない。死にたくない。私は死にたくない。消えたくない。途切れたくない。終わりたくない。無くなるのはイヤだ。怖い怖い怖い。それだけはそれだけは絶対に許せない。
「何でもというのなら、私を時の呪縛から解き放ってくれ」
一度死んだ後だというのに、未だに心を蝕む恐怖を抑え込んで、私は異世界の神に懇願した。
「いいのかい? これから行く世界で君は何も持たずスタートする事になるよ。記憶は勿論残してあげるけど、生まれが悪ければ貧困に嘆くことになるかもしれない。悪い縁によって、苦しむことになるかもしれない。健康はまあ出来るだけサービスするにしても、君の死因は他殺だろう? 君が想像するように危険な世界だからまた殺されるかもしれないよ」
お金、地位、強さと言ったところだろうか。確かにそれは重要なことだとは思う。でも寿命という恐怖から解放されることに比べれば、そんなことは心底どうでもいい。
神のそんな言葉にも、私の心は欠片も揺るがなかった。
そんな私を見た神は
「ふふふ、それだよそれ。神という圧倒的な存在を前にしてだよ? 何でも叶うというのに、特別な才能も、万能の能力も、富や権力さえ差し置いて、君はただそれだけを望むんだ。可能性を前にしてなお、その思いは揺らぐことなく。その果てを想像してもなお、一欠片の後悔もなく。幸福な一瞬よりも、冗長な永遠を望んだ。そんな君だからこそ――楽しめるんだ」
神は、楽しげにそう言った。
そして、
「じゃあ、二度目の生を存分に楽しんでよ」
と続けると、私の意識は急速に薄れていく。
最後に、そんな自分を笑う神の声を聞いたような気がした。