Kの巻(その五②)
人の噂も七十五日。
薫の仕事も順調に増えています。
噂が落ち着いただけでなく、薫本人も気づいていないのですが表情も柔和になり、好感度もアップしたことでもあります。
ただ、仕事が増えると当然裕樹と過ごす時間に制約が出てくるのは当たり前のこと。
不満と裕樹が他の女性と付き合うのではという心配も増えていきます。
そんな時、裕樹の生活にも変化が、それに薫も巻き込まれていきます。
12月に入り、薫の学校の期末テストが終わり、終業式が近づいたころ。
朝から薫は裕樹のアパートにいた。
「薫ちゃんは試験休みだっけ?」
「そうよ。
今月はあと登校日を除けば終業式でおしまい」
「余裕だね」
「そうでもないわ。
最近、またモデルの仕事が復活してきたみたいなの。
ママったら、喜んじゃって。
学校が休みの明日と明後日は朝からお仕事、お仕事。
登校日を挟んで、またお仕事。
日曜日までお仕事を入れようとしたから、それは怒って止めさせたわ」
「凄いね。
噂がまわったんじゃないの?」
「うん。
でも、人の噂は八十八夜っていうじゃない」
「七十五日だ」
「てへ
でも、本当に2,3か月でお仕事が入るようになったわ。
まあ、メインやセンターじゃなくて、盛り上げる方だけど」
「薫ちゃん…」
「ん?
大丈夫よ。
人の目なんか気にしないし、噂も気にしない。
グラビアの真ん中にいなくても気にならない。
本当に大丈夫よ」
(だって、私には裕樹がいるもん。
裕樹がいれば、何も怖くない)
「そうか」
(吹っ切れた顔だな。
何かあったのかな?
まあ、これなら大丈夫だろう。
良かった)
「あ、でも、マネージャーさんどうしたの?
前の人は訳あって辞めたんだよね」
「うん」
薫は顔を曇らす。
「今は、ママがマネージャーやってくれているわ。
ママ、会社のこともあって忙しくてたいへんだけど、私は身内以外の人がマネージャーに付くのはもうこりごり。」
(でも裕樹がマネージャーになってくれたら嬉しいんだけどな)
「そうだ。
テストの方はどうだったの?
点数が悪いとたいへんなんだろ?」
「うふふ。
私を誰だと思っているの?
今学期は集中して頑張ったのよ。
学年で三分の一に入ったわよ」
「おおー、すごい。
じゃあ、高校進学も大丈夫だね」
「うん。
中二の時が悪かったからぎりぎりっていうところかしら。
でも、高等部への進学は決まったから、3学期はのびのびかしら」
「そうか。
高校進学が決まったのか。
おめでとう」
「えへへ。
ありがとう。
プレゼントはなんでもいいわ」
「う…」
裕樹は薫との間に溜まってきている金額を律儀に考え、言葉を詰まらす。
「(クス)
冗談よ。
裕樹が優しくしてくれれば、それが一番のプレゼントよ」
薫は裕樹の横に位置をずらし、しなだれかかる。
「薫ちゃん…」
裕樹は薫を抱きしめると、そのままベッドに連れて行く。
「えー?!
クリスマスイベントの仕事?」
家に帰った薫はあからさまに不満の声を上げる。
「そうよ。
お得意様なの。
お願いね」
「いやよ。
せっかくのイブなのに。
イブは裕樹と一緒って決めているの」
「わかっているわよ。
雑誌のイベントで、ちょこっと顔出して写真撮るだけよ。
真ん中じゃないから、不満なの?」
「そんなこと言っていないわ。
以前はメインが良かったけど、今は逆よ。
目立って、また、嫌な目にあうのはもうこりごり。」
「薫が言うから、いつも日曜日を避けていたじゃない。
イブは日曜日じゃないでしょ」
「そうだけど、その日は特別。
絶対に嫌」
「そんなこと言わないで。
夕方までに済むし、裕樹君、仕事なんでしょ?
裕樹君が帰って来るまでに、彼のアパートまで送って行ってあげるわよ。」
「本当に?
クリスマスケーキやプレゼントを買っている時間ある?」
「夕方までって言ったでしょ。
大丈夫よ。」
「約束できる?」
「ええ」
「絶対よ。
ママ」
「はい、はい」
薫と母親の加津江との間でそのようなやり取りがあったクリスマスイブの当日。
薫は裕樹に内緒でクリスマスケーキとプレゼントを買って、裕樹を驚かせようとアパートで待っているつもりだった。
しかし、夕方までには終わるはずだった仕事が長引き、薫たちが解放されたのは夜の7時過ぎだった。
「もう、ママの嘘つき!
着くころにはケーキ屋さんも閉まっているし、クリプレも買えないわ!」
加津江の運転する車の助手席で薫は怒った声を出す。
「ごめーん。
だって、スポンサーさんが薫のことを気に入って、もう少しもう少しっていうんだもん。
ごめんねー。
でも、また仕事をくれるって」
「いやよ。
あのおじさん、可愛い可愛いって言って、私の手を握って来るのよ。
冗談じゃないわよ」
「え?
そんなことしたの?
ごめん、それはきつく言っておくわ。
そんなことしたら、二度と取引しないって。
ごめんね」
「ううん。
それは大丈夫。
気持ち悪かったから、思いっ切り足を踏んでやったわ」
「え?」
以前は何でも言いなりだった薫が嫌なことは嫌だと、言葉と態度に表すようになったことを驚くと同時にほっとする思いだった。
(これも裕樹君の影響かしら。
以前はお人形さんのように言いなりになるだけで、心配していたのだけど。
もう、あんなことに巻き込まれることはないかしらね)
「ママ!」
「は、はい?」
「そんなことより、間に合わないじゃない。
どうしてくれるのよ」
薫は半分泣きそうな声で拗ねる。
「ごめん、ごめん。
でも、大丈夫よ。
裕樹君は薫に会うだけで満足してくれるわよ。」
「そうかな…」
「そうよ。
薫みたいなかわいい子が会いに行くんだもの。」
「だといいけど」
「絶対よ」
「ママの『絶対』はあてにならないもの」
(あちゃー!
娘に読まれている)
「本当だって。
じゃあ、特別に今晩は外泊を許してあげるわ。」
「え?
本当?」
薫の声がいきなり変わり、弾むようだった。
「でも、着替えが…」
「薫のことだから、裕樹君のところに洋服1セット置いてあるでしょ?」
「ど、どうしてそれを?」
薫は顔を赤らめる。
裕樹から借りている整理ダンスの引き出しの一段に、部屋着として洋服以外にも、いつ泊まることになっても大丈夫なように下着も1セット置いてあった。
(呆れた。
本当に置いてあるんだ)
加津江は苦笑いするしかなかった。
加津江の車は裕樹のアパートの近くで止まる。
「大丈夫かな。
イブなのに何も用意していなくて、裕樹、がっかりしないかな」
「大丈夫だって。
薫が行けば、それだけで裕樹君、ニコニコもんよ。
絶対よ」
「ほら、また、その台詞」
「じゃあ、泊まることになったらLINEちょうだいね」
「それは残念ながら、きっとないわ。
裕樹、明日は仕事があるから」
「そうなんだ。
でも、大丈夫よ。
自信をもってレッツゴー」
「もう、ママったら」
薫は加津江の車を降りると、少し離れたところにある裕樹のアパートに向かって歩き出す。
アパートの近くに来ると、裕樹の部屋の電気は消えているようだった。
(へんね。
留守かな。
でも、もうとっくに仕事が終わって帰っている時間なんだけどな。
もしかしたら、私以外の女の人とどこかでイブをお祝いしているのかしら)
薫は絶望的な思いに駆られ、足取りが重くなる。
(相手はきっと大人の女性よね。
私はやっぱり子供だし、魅力がないもんね。
そうだとしたら、身を引く?
裕樹のことを思えば、それが一番よね。
でも、そうなったら私、きっと生きてはいけない)
泣きそうな顔で薫は裕樹の部屋の玄関ドアにたどり着く。
ガラス窓の内部は真っ暗で、裕樹がいないのを物語っていた。
薫は一瞬躊躇したが、アパートの鍵を取り出しドアを開け一歩中に踏み入れる。
部屋の中は電気が付いておらず、街灯の灯りが室内をぼんやりと照らしていた。
(…)
室内に上がり込み、部屋の電気を付けようとしたその瞬間、薫は背後から抱き締められる。
「きゃ…」
あまりの急なことで、薫は悲鳴を上げそうになったが、口を手で塞がれる。
「うー」
「薫ちゃん」
「う?」
「ごめん、驚かせちゃったかな。
僕だよ。
わかる?」
声の主は裕樹だった。
「う、うう」
裕樹に口をふさがれたまま薫が頷くと、裕樹は薫の口から手を離す。
「ごめん、ごめん。
驚かせちゃったね」
「ごめんじゃないわよ。
びっくりさせないで。
心臓止まりそうだったんだから」
薫は半分本気で怒っていた。
しかし、抱きしめられた時、すぐに裕樹の匂いを感じたので相手が裕樹だとわかっていた。
「ごめんて。」
「何で部屋の電気を消していたの?」
「ちょっと、驚かせようと思ってさ。
電気を点けて見て」
「うん」
“裕樹がいた”
それを実感し、薫は機嫌が直るどころか、嬉しさが込み上げてくる。
そして、裕樹に言われたように、部屋の電気を点けた
「え?」
リビングのテーブルの上に美味しそうなクリスマス料理が並び、真ん中にケーキの箱が置いてあるのが、目に飛び込んでくる。
「裕樹…?」
後ろから裕樹に抱きしめられたまま、薫は顔を裕樹に向ける。
「ん?
今日はイブだから、絶対に薫ちゃんが来てくれるなと思って、用意しておいたんだよ。
ほら、この前、イブ当日も仕事だと言っていたから、用意をしておこうと思って。
あ、まさかケーキとか持ってきた?」
「ううん。
ごめんなさい。
何も持ってこらなかった…」
「いいんだよ。
薫ちゃんが来てくれただけで嬉しいから」
明らかに落胆する薫の耳元で裕樹は優しく囁く。
「裕樹~」
薫の目から涙が零れる。
「こらこら、泣かなくたっていいだろう。
それに、これはスーパーで買った料理だから口に合うかわからなけど、勘弁してね」
毎年イブには両親と一流レストランで食事をしていた薫は、いつかささやかな料理で構わず、好きな人の家でイブを過ごせたらと言う夢を持っていたので、テーブルの上の料理が特別なものに見えて仕方なかった。
「そんなことない。
とっても美味しそう」
「それは、それは。
仕事帰りでお腹が空いたろ?
食べよう食べよう」
「うん」
頷くと薫のお腹が「きゅぅ~」と鳴く。
「お腹空いちゃった」
二人はテーブルについて、料理を食べる。
薫にとっては夢に見た至福の時だった。
(来年も再来年も、もっと先も裕樹と一緒にこうしていたいな。
頑張らなくっちゃ)
料理を食べ終り、ケーキを並べた時に裕樹は紙袋を持ってくる。
「?」
「クリスマスプレゼント。
大したものではなく、ほんの気持ちだからね」
「プレゼント?
だって、私何も持ってきていない…」
「いいんだって。
開けてごらん」
「だって、だって…」
なおも躊躇う薫だったが裕樹の笑顔を見て頷くと渡された紙袋を開ける。
「え?
わー、可愛い!!」
紙袋の中から現れたのは可愛らしいピンクのカバの縫ぐるみだった。
(あら?)
そのカバの首に綺麗なダイヤモンドのような石のついたペンダントをしていた。
「これ?」
「ああ、イミテーションダイヤだよ。
あんまり綺麗だったのでつけてみた」
「へ~、イミテねぇ」
薫はカバの首輪代わりのペンダントが気になるのか、盛んに触っていた。
「ねえ、裕樹。
私、本当にクリプレ持って来なかったの。
なのに、貰っていいの?」
「いいってば」
「ありがとう。
本当に嬉しい」
薫は本当に嬉しかったのか、カバをぎゅっと抱きしめる。
「お礼として、今晩、ここに泊まってあげる」
「へ?」
いきなりのことで、裕樹は戸惑った声をあげる。
「嫌?
私がここに泊まるの嫌?
私こと、本当は嫌い?」
「へ?」
「本当は、ただ可哀想だから付き合ってくれているの?」
薫は悲しそうな顔をする。
「何を馬鹿な事を」
「だって、好きな子が泊っていいって言われたら、男の人って喜ぶんじゃないの?」
薫の顔は真剣だった。
「それとも、そんなことを言い出す娘は、積極すぎて嫌?
ふしだら?」
「そうだな」
「え?」
「女の子に先に言われる男って、だらしないなって」
「…」
「明日、仕事は休みにしたんだ。
だから…、その…
よかったら、今晩は遅くまで…
じゃなくて、泊っていけるか?
て、さ」
「裕樹…」
「泊って行ってくれるかな?」
「うん、うん。
泊って行ってあげる」
薫が裕樹の隣に席を移そうとして立ち上がるのを制して、裕樹が薫の隣に座る。
「裕樹…」
薫は嬉しそうに裕樹にしなだれかかる。
テレビの画面が、どこか遠い地方の雪景色を映し出す。
「寒いけど、ここは、積もるほど降らないわよね」
「そうだな。
今夜ぐらい降ってくれてもいいのにな」
「ねえ、裕樹。
私は裕樹のことが大好き。
裕樹は、私のことが好き?」
裕樹は薫の肩に腕を回し、抱き寄せると耳元でささやく。
「大好きだ」
「裕樹…」
その一言で、薫は天にも昇るような気分だった。
「ねえ、私のどこが好き?」
「す、べ、て」
裕樹はそう呟くと薫の首筋に顔をうずめる。
「あ…」
薫は気持ちよさそうな顔で、裕樹のなすがままに体を預けていく。
二人は外で積もるほどではないが、雪が舞っているのを知らなかった。
次の日の朝
裕樹は目を覚ますと、じっと裕樹を見つめている薫の顔があった。
「おはよう」
裕樹が目を覚ましたのを見て、薫は微笑む。
「おはよう。
随分と早起きだね」
裕樹が目覚まし時計を見ると、7時を回っていた。
「だって、裕樹の顔を見ていたくて、寝るのがもったいなかったんだもん」
「まさか、一晩中?」
「ううん。
少し寝たよ」
可愛らしい笑顔を見せる薫が無性に可愛くなり裕樹は腕を伸ばし薫の背中に伸ばすと、そのまま薫を抱き寄せる。
「きゃ」
言葉とは裏腹に嬉しそうな顔をして、自ら裕樹の腕の中に納まっていく薫。
二人がベッドから抜け出たのは、お昼近かった。
「やべー、洗濯機回していなかった。
乾かないかなぁ」
「ねえ、裕樹。
私、洗濯機回してみたい」
「へ?
回したことないの?」
「うん。
ママが、怪我して傷があると仕事に差し障るからっていって、家事はやらせてくれなかったも」
(おー、この子は完ぺきに箱入り娘か)
裕樹は薫の新たな一面を見たような気がして面白かった。
「ねぇ~、洗濯機、やらせて」
甘えた声を出す薫
(まあ、洗濯機を回すだけなら怪我をしないか)
「ああ、いいよ。
洗濯物を洗濯ネットに入れて、中へポイっと入れるだけ」
「裕樹。
洗濯ネット、余っていない?」
「え?
ああ、少しあるよ」
裕樹が洗濯ネットを薫に渡すと、薫は昨日着ていた服を入れると洗濯機の中に入れる。
「?」
「いいでしょ。
一緒洗っても。
これは着替えとして、ここに置いて帰るから」
「あ、いいよ。
それで、スイッチを入れて…
そうすると自動で水量とか表示されるから、その量にあった洗剤を入れるんだよ」
「へぇー、どれどれ」
薫は裕樹に教えられた通り洗濯機のスイッチを入れ、液体洗剤を入れる。
(この洗剤の香りも好きだけど、裕樹の匂いはこれじゃないみたい)
薫は裕樹の体臭が好きで、きっと洗濯石鹸の香りがついたのだろうと思っていたのが、当てが外れた。
(おい、おい。
洋服や下着が乾いたら、僕が畳んでタンスにしまうのか?)
やれやれと思いまながら嫌ではない裕樹。
「やったー!
これで私も洗濯をマスターしたわ」
(ちょっとまって、洗濯できるものとできないもの、洗剤だって気を付けなければいけない洋服もあるんだよ)
無邪気に喜ぶ薫を見ながら、裕樹は苦笑いする。
「そうそう、裕樹は年末年始どうするの?
ここにいる?」
「ん?
そうだな。
このご時世だから、実家に戻らず、ここにいるかな」
「やったぁ
じゃあ、お正月も会えるね。
そうだ、お正月、家に来ない?」
「え?
薫ちゃんの家に?」
「うん
ママも裕樹に会いたがっていて、もし、ここに残っているなら連れてきなさいって言っていたわ。
いいでしょ?」
「う、うん…」
(なんか大変なことになってきたぞ。
薫ちゃん、どこまで話しているんだろう。
でも考えたら、平気でお泊りするくらいだから、全部知っているんだろうか)
「裕樹、大丈夫?」
青くなったり赤くなったり、裕樹の様子がコロコロ変わるのを見て薫は心配そうに声をかけた。
「裕樹、大丈夫?」
「ああ」
(少し?
いや、だいぶ酔ったか)
元旦の夜、薫と裕樹はお互いの家から少し離れたところにある神社に初詣に出ていた。
その日、前から招待されていた薫の家に昼前から訪れていた。
初めは緊張した雰囲気だったが、すぐに薫の両親と意気投合し、飲めや食えやの大宴会に発展していた。
もともと初詣は約束していたのだが、あまりの騒ぎに耐えかねて薫が裕樹を引っ張り出したのだった。
「はい」
薫は近くのコンビニで買ったお茶のペットボトルを裕樹に渡す。
「お、サンキュー。
ちょうど喉が渇いていたんだ」
裕樹はペットボトルを受け取ると、美味しそうに中身のお茶を飲む。
「飲み過ぎたんでしょう。
ママったら、上機嫌で裕樹と飲みまくるんだもの」
「凄かったなぁ。
薫のママ、酒、強いよな」
「でも、私もあんなに楽しそうにお酒飲むママを見たのは初めて。
パパもニコニコしながら、結構飲んでいたわ」
「そうだな。
薫のパパって、口数少ないけど、始終、ニコニコしてお酒を飲んでいたな」
「うん。
パパも楽しそうだったわ。
今年はお正月の初めから良い年になりそう」
(今年は、裕樹がいてくれるから。
ママもパパも、裕樹を見て大いに気に入っちゃって、私の将来の旦那様だって、義理の息子だって、大喜びしていたのよ。
今日会って、余程、気に入っちゃったみたい)
薫はまんざらではなかった。
ただ、気に入り過ぎて、裕樹を占有されているようで、気が気ではなかった。
裕樹のほうは緊張し過ぎて進められるがまま酒を飲んでも酔った気分になれなかったが、実際はかなり酔っていたようで夜の寒さが心地よかった。
「温かい。
まるで湯たんぽ、ううん、カイロみたい」
薫はポケットに突っ込んでいる裕樹の手を握って喜んでいた。
「まあ、アルコールが入っているから白金カイロみたいなものだ」
「ハクキンカイロ?」
「ああ。
薫ちゃんは知らないだろう。
僕も小さなときにひいおばあちゃんが使っていたのを見たくらいだ。
ベンジンていう燃料を入れて、芯に火で温めるとずっと温かいんだよ。
それも、すごく温かいんだ」
「へぇー、ポカロンよりも?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、裕樹はその白金カイロみたいだな」
「へ?」
「あ?!」
薫は恥ずかしいことを言ったとばかりに顔を赤らめる。
「そ、そういえば、薫ちゃんの家って大きいよね。
同じ敷地にもう一軒家が建っているよね」
「うん。
今日、上がってもらった家が、家族が住んでいるお家。
もう一軒、小さな家は社宅。
3,4人は住めるし、普通の家みたいに一人ひとり部屋があって、お風呂があってキッチンやリビングもあるから自炊もできるの。
同じ敷地だから、仕事で自炊ができないときは、こっちに来てみんなでご飯を食べたりできるのよ。
遠いところから出てきた子やマネージャーさんに住んでもらっていたの。」
「今は?
明かりがついていなかったけど、皆、実家にでも戻っているのかな」
「ううん。
今は誰も住んでいないわ。
皆、ある程度お仕事が順調になって、20歳を超えると自立しちゃうの。
それと、このご時世でしょ。
お仕事も以前より減って、今は新しい子を入れられないってママがこぼしていたわ」
「そうなんだ」
二人は神社でお参りをする。
(今年は元旦から裕樹さんと一緒に居られて嬉しい。
どうか今年も、来年も、ずっとずっと裕樹さんと仲良く、楽しく過ごせますように)
(昨年は、こんな可愛い子と出会えて、ありがとうございます。
今年も、ずっと一緒にいられますように)
二人は神社を後にする。
その頃には、裕樹の酔いはすっかり醒めていた。
「さて、これからどうするか。
時間的に遅いし、送っていこう…
おや?
その荷物は?」
裕樹は改めて薫が大きめのバッグを持っているのに気が付いた。
「えへ。
お泊りセット。
今晩、裕樹のところに泊まろうと思って」
「え?
だって、パパやママは?」
「なんでも私の弟か妹を作るんだって。
だから、私は裕樹のところに泊まりなさいって」
「ほえ?」
「なあに?
その顔。
私が泊ったらだめ?」
薫の顔が険しくなる。
「そんなことないって。
元旦早々、一緒にいられるとは思わなかったから。
当然、嬉しいに決まっているよ」
「本当?」
「本当」
「嬉しい!
裕樹の好きなセーラー服も持ってきたのよ」
薫は嬉しそうな顔をしてバッグをポンポンと叩く。
「え?
あのセーラー服?」
「うん」
三つ編みおさげでセーラー服姿の薫は学校の制服姿よりも大人びて見え、また何とも言えない色気があり、好きだった。
「ああ?!
嬉しそうな顔をしている」
「ま、まあまあ。
その荷物、持つよ」
「やったー!
裕樹、ありがとう!!」
薫はご機嫌な顔で荷物を裕樹に渡すと、裕樹と腕を組んで歩き始める。
2月のある日。
裕樹のアパートで裕樹は困った顔をしていた。
「裕樹。
どうしたの?」
薫は目ざとく裕樹の様子に気が付き、心配そうに声をかける。
「え?
うん。
このアパート、3月末までに出なければいけないんだ」
「え?
アパートを出る?
どうして?」
「なんでも、このアパートの大家さんが、ここを売って楽隠居するんだって。
それで、ここを買った業者さんが、アパートをやめてビルを建てるそうだ。
なので、ここから出てほしいって。
新しい家を探しているんだけど、なかなかいい物件が見つからなくてさ。」
「そうなんだ。
場所は、やっぱりこの辺り?」
「そうだね。
仕事場があるから、出来ればこの辺りがいい」
(薫ちゃんが来ても大丈夫なように、セキュリティがちゃんとしているところ。
それに、あの時の声が周りに漏れないように、防音もしっかりしているところがいいな。
あと、家賃も今並でないと厳しいしな)
今のアパートは新築で防音もしっかりしている鉄筋建てで、相場からは破格の安値だった。
不動産屋を何件回っても、今並の設備に家賃のところは見つからず、何日か過ぎていく。
そんなある日、薫が顔を輝かせてやって来る。
「裕樹。
新しいところ、見つかった?」
「いや、まだだ」
「やったー!」
「え?」
小躍りするように喜ぶ薫を、裕樹は怪訝そうな顔で眺める。
「あ、ごめんなさい。
見つかっていないなら、家の社宅に住むのはどう?」
「え?
薫ちゃんの家の敷地にあった、あの家?」
「うん。
人も入らないし、誰も住まないと家がだめになるってママが。
それでね、ママと相談したら、裕樹だったらいいって。
それ以上に、ぜひ住んでほしいって」
「で、でも。
家賃は?」
「家賃はなし。
その代わり、私のマネージャーになってくれればいいってママが言っていた」
「えー?!
薫ちゃんのマネージャー?」
家のことより裕樹は薫のマネージャーになって欲しいということに驚きを隠せなかった。
「マネージャーなんてやったことないよ」
「大丈夫。
ママが教えてくれるから、勉強してくれればいいって。
裕樹、車の免許、持っていたでしょ?」
「ああ、持っているよ」
「じゃあ、運転手も大丈夫ね。
初めは運転手で付いてきてもらって、徐々に仕事に慣れていけばいいって。
あと、社宅は今リフォーム中だから、引っ越しは3月の下旬まで待ってねって、ママが言っていたわ」
薫は決まったもんだと思い笑顔をみせる。
「ちょ、ちょっと待って」
「大丈夫。
裕樹が小説家になりたいって夢を持っているってママに話してあるから、今より執筆活動ができる時間が増えるはずよ」
「…」
裕樹にとっては渡りに船の話で、マネージャーをやっていけるか不安はあったが、断る話ではなかった。
しかし、もし、薫との仲に亀裂が入ったらどうなるのか、そちらのほうが不安だった。
「裕樹、なんだか浮かない顔をしている。
やっぱり、嫌なの?」
薫が心配そうな顔をする。
「いや、嫌だなんてことはない…
ただ…」
(まあ、いいか。
いい話だし、先のことを考えて不安になっても仕方がないしな)
「ただ?」
「いや、なんでもない。
本当に家賃免除なの?」
「うん。
社宅なんだからって。
だから、マネージャーとして社員になってくれればって」
「え?
社員雇用なの?」
「当然でしょ。
お給料や詳しい話はママが今度会ったときにするって。
私も裕樹がマネージャーやってくれたら、心強いし。
それにあそこに住んでくれたら、いつでも好きな時に会えるから嬉しいな」
(そうか)
裕樹は薫の母親が積極的な意味が分かった気がした。
今、薫の依存症を抑えられるのは裕樹だけで、もし、また症状が酷くなっても裕樹がいれば見知らぬ男と変なことをすることもなく、抑えられるという安心剤的な存在と考えているのだろうと。
実際は、それもそうだが、裕樹の人柄を気に入ったという点、将来、薫の婿になってもらいたいという気持ちが働いていたのは、当の二人は知る由もなかった。
話はトントンと進み、裕樹は薫の母親の加津江の会社と雇用契約を結び、四月から正社員になる書類に印鑑を押す。
社宅は綺麗にリフォームされ、まるで一軒家を独り占めするようだった。
「でも、今後、新しい子が入ってきたらどうするんですか?」
「特に何てことないわよ。
裕樹君なら間違えを犯すことはないでしょ?
薫がいるし」
加津江はちらりと裕樹の顔を見ると、裕樹は大きく頷いて見せる。
(うふふ。
可愛いこと)
「ついでに寮長もやってもらおうかしらね」
これで新しい子が入ってきたら、寮長としての役割もすることになった。
(でも、これって薫ちゃんと付き合っていることが前提だよな。
もし、薫ちゃんに好きな男性が現れたら…
あの業界だから、かっこいい男なんてごろごろしているだろうから。
そうしたら、仕事もクビで追い出されるわけだ。
かなりのリスクだぞ。
でも、そうなったらなったらでその時考えればいいか)
どこか能天気な裕樹。
(やったー!
これで、裕樹がマネージャーでお仕事の時は常に一緒だわ。
部屋も近いし何時でも会えるな。
でも、もし裕樹に飽きられたらどうしよう。
私のことなんか見捨てて出て行っちゃうかな…。
飽きられないように頑張ろう。
いつでも私のことを好きって言ってくれるように裕樹好みの女性になって、もっともっと自分を磨かなくっちゃ)
健気に誓う薫。
二人の新生活はもうすぐ始まります。
葵も薫も高校進学に合わせるように環境が変わっていきます。
特に葵は翔太のマンションに転がり込み、同棲(?)生活をスタート、薫は裕樹をマネージャーに迎えより身近な存在に。
翔太は葵に対し戸惑いが、裕樹は薫の対しどこか冷めたような意識が。
2組の物語は大きく動いていきます。
中学編はここまでで、高校編に続きます。
お楽しみに。