Aの巻(その一)
中学三年生の葵。
4月のある日曜日の朝から、街角に立ち続けていた。
葵の目的は、自分の体を買ってくれる男を探し声をかけること。
そこで、大勢の中から一人気になった男性、翔太を見つける。
ファーストコンタクトでは声を掛けることが出来なかった葵。
戻って来ることを信じて待っていた薫の前に、翔太は再び現れる。
そして、薫は勇気を振り絞って声を掛ける。
4月。
とある晴れた穏やかで温かい日曜日。
「私を買ってくれませんか?」
少女が通りすがりの男に声を掛ける。
男はYOASOBIの「夜を駆ける」をワイヤレスイヤホンで聴いているせいか少女の声に気が付かずその場を通り過ぎる。
「あ…」
少女は固まったようにその場に立ち尽し、男の後ろ姿を見送るだけだった。
それから数時間たった頃、男が用事を済ませて戻って来た時、待っていたように再び少女が声をかける。
「私を買ってくれませんか?」
意を決してか、先ほどよりも大きな声で。
「え?」
朝倉翔太(26歳)は、いきなり後ろから声を掛けられ振り向くと、きつい目をして天然パーマの髪の毛の少女が、睨むように翔太を見つめていた。
正確に言うと、大きな白い不織布のマスクをしていたので、奥二重の眼しか見えなかった。
「いくら?」
翔太は、ワイヤレスイヤフォンを外すと咄嗟に口を滑らす。
(おいおい、待てよ。
‟いくら“はないだろうに。
どう見ても高校生、下手すりゃ中学生だろうに。
体つきだって、まったくイケていないし、眼つきも悪いし、全然、俺好みじゃないじゃないか)
翔太は、170cm後半ですらりとした体形で、すこし遊んでいるようなイケメン俳優っぽい風貌。
一方、少女は廣瀬葵(14歳)。
身長は、翔太とは20cm以上差がある150cm前半。
髪は背中まで伸びたソバージュのように癖のある茶色がかった髪の毛、それと一重瞼と見分けがつかない奥二重で険しい眼つきを除けば、どこにでもいるような女子。
「え?」
葵は、いきなり「いくら?」と聞かれ、金額のことを考えてもいなかったので一瞬躊躇する。
(どうしよう。
相手から提示されるのではないの?
こっちから?
どうしよう、考えていなかった。
相場は?
わかる訳ないじゃない。
1万円じゃ、高いかな。
でも…)
「1万円で…」
(なにぃ?
1万円?
それは安い。
安価過ぎるだろう。
デリヘルでも、もっと高いだろうに。
後ろにやばい男が控えているのかな。
でも、周りには、そんなやばそうな奴は見当たらないし。
ともかく、ここで値切れば、諦めるだろう)
翔太は、葵を買う気はさらさらなく、値段を値切れば諦めるだろうと考えていた。
「高い!!」
(え?
えぇー?!
高い?
やっぱり、相場はもっと低かったんだ。
でも、ここで引き下がったら、目的が達成できないわ。
じゃあ)
「じゃあ、5千円で!」
「ええ?」
(まじか?
5千円で体を売ろうっていうのか?)
翔太は戸惑い、すっぱりと断ろうと思ったが、逆に葵の思い詰めたような瞳が気になり、少し話をしてみようと思った。
「あのさ。
一回、そのマスクを取って、顔を見せてくれないか?
いざとなって、髭ボーボーの男だったなんて、シャレにならないからな」
「そ、そんな。
髭ボーボーでもないし、男じゃありません」
ゆっくりとマスクを取った葵は少しそばかすがあったが、普通の少し可愛らしい顔をしていた。
「まあ、いいか。
じゃあ、5千円で買おう」
「は、はい」
商談が成立することイコール体を売る、それが何を意味することなのか、想像していたことが現実になり、緊張と恐怖が葵を襲い始める。
(なに、こいつ。
自分から体を売るって言ったのに、震えているじゃないか?)
青白い顔で、体を震わす葵を見て、翔太は呆れていた。
「取り敢えず、商談成立だな。
こんなところで、体をいくらで売る売らないの話をしていて、周りが変な目で見ているから、とっとと行くぞ」
「は、はい。」
葵はマスクを付けると、翔太の後を追う。
葵が翔太に声を掛けた場所は、人通りの多い道端で、怪訝そうな顔で2人を見て通り過ぎていく通行人も少なくなかった。
「でも、どこに?」
「ここから15分くらいのところに、俺の家があるから。
そこでいいだろ?」
「え?
家?
ご家族の方は?」
「ば、馬鹿か。
マンションで一人暮らしだよ」
(こいつ、鋭い眼つきをしているのに、天然か?
家族がいるところに、金で買った女を連れて行く馬鹿がどこにいるか)
「そ、そうですよね」
(でも周りの子の話では、ご家族に気が付かれないように、こっそり彼の部屋でするって言っていたけどな。
それに、ホテルじゃないんだ。
よかった。
いろいろな事件があるみたいだから、ホテルじゃない方が安心ね)
葵は翔太の後ろに少し俯きながらぴったりとついて歩く。
(そう言えば、こいつ、朝出かけるときにも見かけたな。
何人か相手したのかな?
いや、そうは見えない。
だとすると)
翔太は休みを利用して、電車で隣町にゲームソフトを買いに出かけていた。
その時に、道端に立っていた葵を覚えていたが、声を掛けられたのは気付いていなかった。
それが、10時ごろ。
今が2時なので、4時間、葵はそこに立っていたことになる。
「着いたよ」
翔太が足を止めた先には、7階建ての高級そうなマンションが建っていた。
「え?
ここ…」
葵はマンションの外観にすでに気を呑まれていた。
葵の住んでいるところは、築50年以上経つ木造アパートの1階。
2DKの間取りに、母と2人で住んでいる。
母子家庭で葵は父親の顔を見たことがなかった。
母親のパート収入が唯一の生活費で、生活は困窮。
4歳年が離れた姉は、それが嫌で中学卒業と同時に働きに出て、そこで出会った男性と速攻で籍を入れ、今は彼氏と別のアパートに住み、母親と葵は二人きりだった。
その生活と、目の前の豪華なマンションとでは、住む世界がまるっきり異なっているように葵の目には感じられた。
エントランスは大理石で施され、そこを通り過ぎ、エレベーターに乗り込む。
途中、管理人室では管理人の男が、翔太に恭しく頭を下げ挨拶をするが、その後ろにちょこちょこ付いて入る葵には怪訝そうな視線を送っていた。
エレベーターは3階に停まり、翔太と葵はその階で降りる。
そこから303号室と書かれた扉の前に翔太が立つと、鍵を出しドアを開ける。
翔太は先に入ると、玄関廊下の照明の電気をつけた。
「狭いところだけど、中に入って」
(狭い?
どこが?)
葵には翔太が謙遜して言った言葉をそのまま受け取っていた。
「おじゃまします」
葵は靴を脱ぎ、脱いだ靴を横にそろえると‟カチッ“と玄関ドアのロックを掛ける。
(不用心な人だな。
お母さんから、必ず、ドアには鍵を掛けるようにって言われていないのかしら)
翔太はそれを不思議そうに見る。
(おいおい、自分からロックするのか。
逃げ道を自分で閉ざして、無防備な奴だな)
気を利かせたつもりだったが、葵自ら鍵を掛け、翔太は拍子抜けする気分だった。
「コートは脱いだら、これにかけて」
翔太がハンガーを差し出すと、葵は頷き、ハンガーを受け取り、ベージュのコートを脱いで、翔太に言われたハンガー掛けにかける。
コートの下は、葵の年恰好には、似合わない派手な色と柄のワンピースを着ていた。
それは母親のワンピースで、少しでも大人っぽく見えるようにと葵が選んだものだった。
(趣味悪。
これ、自分の服じゃないだろうに)
そう思いながら、翔太はリビングのテーブルの椅子に座るように葵を促す。
「とりあえず、お茶でも飲もう。
緑茶でいいか?」
「はい」
(緑茶?
コーヒーじゃないんだ。
ドラマとは違うな)
葵はそう思いながら、室内をきょろきょろと見回す。
リビングとカウンターに仕切られたキッチン。
ドアが開いていたが、そこには洗面所とその奥にユニットバスが見える
全体的に綺麗好きなのか、明るく小綺麗な部屋だった。
その中で目を引くのは40インチ以上ある大きなテレビとゲーム機だった。
「それか?
PSとかのテレビゲーム用だよ。
オンラインゲームなどは、違う部屋にあるんだ。」
「そ、そうなんだ…」
(小学生の時、友達の家で触らせてもらったくらい)
葵は、好きにゲームができる翔太を少し羨ましくなる。
「まあ、テレワークしながら、ちょっとした気分転換も兼ねてだけどね」
翔太は葵にウィンクして見せる。
「テレワーク?」
「ああ。
在宅勤務と言って、会社とネットワークでつなげて、ここで仕事をするんだよ。
俺の場合、月、水、金がテレワークで、火曜日と木曜日のどちらか、会社に出勤ていうところかな」
「すごい。
会社とネットワークをつないで仕事をするなんて」
素直に驚いて見せる葵に、翔太はご満悦だった。
「豆大福を買って来たんだ。
お茶受けにどうぞ」
「え?
すみません。
いただきます」
目の前にはいい香りがするお茶の入った湯呑みと美味しそうな豆大福が乗っているお皿が置いてあった。
葵は、お礼を言ってお茶を一口すする。
(その鋭い目つきは節穴か?
今どき、知らない男に出された飲み物の中に薬やヤバイものが入っているかと警戒するのが普通だろうに)
「お茶、美味しいです。
こんなに美味しいお茶を飲んだのは初めてです」
「そうか。
まあ、有名どころのお茶だからな。
その豆大福も、隣町で結構有名なお店のだから、美味いよ」
翔太は、葵に美味しいと言われ再び気分が良くなった。
葵は、翔太に勧められた豆大福を一口齧る。
柔らかな皮、上品な餡子の甘さ、豆の塩味が絶妙に口の中で溶け合う。
こんなに美味しい豆大福を食べたのは、葵にとって初めてのことだった。
「お、美味しい」
葵は、つい顔をほころばす。
(ほう。
笑顔は、まあまあ、可愛いな)
「さてと」
「え?」
(も、もう、“する”んだ。
私、手が豆大福の粉で汚れているし、口の中も…
どうしよう)
焦る葵の様子を見て、翔太は呆れた顔をする。
「おーい、そっちじゃないよ。
少し、話をしないか?」
「え?
話し?」
(よかった。
あとで、洗面所を借りよう
でも、話って?)
「お前さ…。
名前は何て呼べばいい?」
「私ですか?
私の名前は、廣瀬葵です。
葵と呼んでください。」
(おいおい、それは源氏名じゃないな。
それ、本名だろうに。
いいのか?
本名なんか、見ず知らずの男に名乗って)
翔太は全てが拍子抜けだった。
「オジサンは?」
「え?
俺の名前か?」
(相手の名前を聞くのか?!)
「それに、“オジサン”?
魚じゃないんだから」
翔太は最近見たテレビのCMを思い出した。
「まあ確かに、葵ちゃんから見ればオジサンか。
でも、面と向かって言われるとえらく傷付くわ。
これでも、まだ26歳でオニイサンの部類だと思うんだけどな。」
「ご、ごめんなさい」
顔を赤らめ素直に謝る葵を見て、翔太は思わず苦笑いする。
「まあ、いい。
俺は、朝倉翔太。
翔太でいい。
葵ちゃんは朝から、あそこに立っていただろう?
俺で何人目だ?」
「え?
何人目?
そ、そんな…」
葵はまるで尻軽女のような言われたかを聞いて、ショックを受けたが、自分のやろうとしていること思い出し、口ごもる。
「翔太さんが、初めてです。
朝、翔太さんを見かけて…」
朝、翔太の姿を見かけて、葵は直感的に『この人だ』と決めていた。
「マスクをしていたのにか?
それは、それは、光栄だな。
‟ビビビ“と来たのか」
「‟ビビビ“?」
「いや、いい。
わからなくても。
じゃあ、4時間以上、あそこに立っていたのか?」
「正確に言うと、朝、8時から…」
葵は、体を売ろうと8時から道端に立っていたが、翔太を見るまで踏ん切りがつかずに、立ち尽すだけだった。
「8時から?
6時間以上、立ちっ放しか?
脚、パンパンになっていないか?
それより、腹減っただろうに」
葵は俯き、首を横に振るが、その時、お腹がグゥとなる。
「まるで、お約束だな。
でも、あいにくすぐに食べられるものは豆大福しかないか。」
ガタっと翔太は椅子から立ち上がる。
「あっ」
葵は、翔太が豆大福を自分のために、また、持って来てくれると察し、遠慮しようと声を掛けようとした時、翔太の優しい笑顔を見て、声を失う。
「ちょっと待ってろ。
それにお茶のお代わりも、な」
翔太はそういうと、空になった湯呑みと、豆大福が乗っていた皿を持ってキッチンに行き、新しいお茶と、豆大福を持って戻って来ると、葵の前に置く。
「遠慮しないで、食べな」
その翔太の一言が、葵には嬉しくて仕方なかった。
葵の母親は男運がないのか、声はかけられ恋人関係になるが別れての繰り返しで、その間に姉と葵を産んでいた。
葵が中学に進学する頃、新しい男と半同棲生活を送るようになり、ほとんど男の家に入りびたりで、たまに戻って来ては必要最低限のお金を置いて、また男の家に戻っていく。
『それで足りなかったら、バイトでもしなさい』
それが口癖だった。
少し食料品を買うと、手元にお金はほとんど残らず、食べ盛りの葵にとっては、空腹を水で紛らわす生活が続く。
心配した姉が、一緒に住もうと言ってくれるが、姉の旦那が酔っぱらった時に、一度自分の体を舐め回すような眼で見られ不快と身の危険を感じ、一人でアパートに残り、母がたまに戻って来るのを待っている日々を送っていた。
なので、豆大福といっても、美味しくお腹に溜まるのもは久々で、しかも、優しくしてくれる翔太に目的を忘れ、嬉しくて仕方なかった。
2つ目の豆大福をぺろりと平らげると、葵は人心地付いたようだった。
「葵ちゃん、いくつ?」
それを見計らって翔太が話しかける。
「大学生です。
二十歳…」
「嘘だろ?
本当は?」
「高三。
十八です」
「嘘」
「嘘じゃないです…」
(絶対に嘘ついているな。
良くて高1ってところかな)
翔太は押し問答続ける気はなく、話を他に向ける。
「で、その高1の葵ちゃんは、『体を売る』って、どういうことかわかってやっているの?
あ、豆大福、お代わりする?
豆大福好きで、5個買って来たんだ」
「え?
い…、いつつも?
そんなに食べるんですか?」
「なんで、驚く?」
「だって、男の人って、お酒ばっかりで、甘いものは苦手っていう人が多いって」
「それは、昔だって。
今どき、スィーツ系男子も多いって」
「そう言われれば、そうですね。
同級生の男子も、甘いものが好きだって子が多いから」
「だろ?」
そう言って翔太は豆大福の入っているパックを持って来て、中の一つを葵の前の空になった皿の上に置く。
「あ、あれか。
俺が勘違いしていたのかな?
茶飲み友達かぁ」
葵は首を横に振り項垂れる。
「男女関係…」
消え入りそうな声で答える。
「そう、じゃあ目的は?
綺麗なお洋服でも買いたいのかな?
って、何となくスケベ爺の取り締まりみたいだな」
葵は、お道化て見せる翔太に警戒心を解いているのかクスっと笑うと、おもむろに話し始める。
「私の家は、母と4歳年上の姉との母子家庭で、姉は結婚して家を出たので、今は、母と二人暮らしです。
でも、貧しくて…」
「それで…」
葵は首を横に振る。
「それもあるかも知れません。
貧しいので、なんでもお姉ちゃんのお古。
今の学校の制服もお姉ちゃんのお下がりです。」
「…」
翔太は優しい顔で葵を見つめ、次の言葉をじっと待つ。
「でも、お姉ちゃんのことは大好きなので、お下がりでも…。
そのお姉ちゃんですが、昔、ヤンキーで学校中、だれからも一目置かれる生徒だったそうです。
ある日、私が学校帰りに同級生の男の子に揶揄われている時、たまたま、通りがかったお姉ちゃんが、私のことを助けてくれて、その時に『私の妹にへんなことするんじゃない』て啖呵きって…。
そうしたら、直ぐに学校中に、そのことが広まってしまい、それから誰も私の傍に寄り付かなくなってしまって。
陰で、皆で、私のことを不良の妹だから不良だと言って、ディスってハブられて。」
「ディスってハブる?」
「馬鹿にされて、村八分のことです。」
「いや、わかっているけど。
今どきも、そう言うのか?
まあ、いい。
続けて」
葵は小さく頷き、口を開く。
「いつも独りぼっち。
家に帰っても、お母さんは新しい恋人に家に行ったっきり。
学校の成績も下の方だし…」
葵は親指を立て、そして、下に向ける。
「じゃあ、いっそ、不良になろうかと思って。
お姉ちゃんほど、喧嘩が強い訳じゃないので、体を売って不良になろうかと思って」
(おいおい、体を売れば、不良になる訳じゃないだろうに。
それに不良になってどうするんだ?
環境が変わる訳じゃないだろうに)
葵の複雑な家庭環境と追い込まれて支離滅裂になっている思考回路を翔太は不憫に思った。
それから小1時間ほど、翔太は葵に生い立ちから自分の夢と言ったことから、好きな芸能人や趣味のことを上手に話させると、葵の顔は最初に会った時とは雲泥の差ほど温和になっていた。
「さてと。
で、これからどうする?」
「え?」
「体を売るってことだよ」
「う…」
葵は、すでに頭が冷静になり、なんで体を売るなんて発想になったか後悔していたが、自分から約束して、勝手に反故にするなんてことはできないと葛藤していた。
「まあ、その話はなかったと言ことでいいかな?」
「え?」
葵は驚いて翔太を見つめる。
「久々に若い女の子と話ができて楽しかったから、それで十分だよ。
この言い方、やっぱ、爺臭いかな」
おどけて見せる翔太に、葵は笑い出す。
「そんなことないですよ。
翔太さんはオニイサンみたいに良い人ですよ」
葵は自分のことを好きなだけ話し、すっきりした上に、優しい一言を掛けてくれる翔太に思わず胸が熱くなるのを覚えた。
「今日は、まだ、時間あるかな?」
「え?」
葵はリビングの時計を見ると、いつの間にか午後の4時を回り、外は夕暮れ模様になっていた。
「大丈夫です」
「お母さんは?」
「母は、今日は戻ってきません。
大抵、平日の夕方に気が向いた時、顔を出しに来るくらいですから」
寂しそうな顔をする葵を見て、翔太は思わず同情する。
「じゃあ、もう少し、付き合ってもらおう。
せっかく、5千円で買った時間だから」
「ええ?
お金なんかいいですよ。
私の方こそ、美味しい豆大福を食べさせてもらって、しかも、いろいろと話を聞いてもらったのに」
「いいから、いいから。
約束は、約束。
それより、二人でやる対戦型ゲームがあるんだ。
ゲーム好き?」
葵は頷く。
「でも、友達のところで、少し触らせてもらったくらいで、操作方法もろくにわからないです」
「いいよ。
教えるから」
「本当ですか?
じゃあ、やってみたい」
葵は飾りでない笑顔を見せる。
(あれ?
この娘、意外と笑顔が可愛かったりして。
よく見ると、可愛い顔をしているじゃないか)
翔太は、思わず葵の笑顔に釘付けになる。
それから、テレビの前に行き、ゲームのコントローラーを出し、葵に操作の仕方を教え始める。
「いい?
このゲームは、対戦型のカートゲーム。
乗り物を選んで、サーキットでスピードを競うゲームなんだ。
コントローラーにAボタン、そうそう、右のボタンね。
そのボタンを押すと加速され、ボタンを離すと減速するんだ。
それと…」
葵にコントローラーを渡し、使い方を教えているうちに、いつの間にか二人の距離は触れられるぐらいに近づいていた。
(この娘、手は小さいけど、指は細くて長いな。
それに、なんだかいい匂いがするな…
いかん、いかん。
こんなガキに、何を考えているん)
「あー、また、負けちゃった。
今度こそ、負けないわ」
葵は何かの度に、飛び上がったり、楽しそうな声を上げる。
それを傍で見て聞いている翔太は、久々に楽しい気分になっていた。
しかも、葵は呑み込みが早く、うかうかしていると負けそうになり、それがまた、翔太を本気にさせ、楽しさを倍増させる。
「さてと、お腹空いただろう?」
「はい」
葵は、視線をゲームから外し、窓の外を見ると、いつの間にか外は真っ暗になっていた。
「え?」
時計を見ると午後の6時を回っていた。
「ケンタ、好きか?」
「ケンタ?」
「ああ、ケンタ。
食べれる」
「は、はい」
たまに、姉が差し入れで持って来てくれるケンタのチキンが葵は好きだった。
「でも…」
葵が話しかけようとしていると、翔太はすでに電話を掛けていた。
「そう。
そのセットを二つ。
なる早で、お願いします」
翔太はスマートフォンをテーブルの上に置く。
「翔太さん?」
「帰っても、お母さん、いないんだろ?
食べて行けばいい。
俺もたまには一人じゃないほうがいいから。
あ、でも、帰りたければ、持って帰ればいいから」
「そ、そんなぁ」
葵は首を横に振る。
「一緒にいただきます。
でも、いいんですか?」
「良いに決まっているだろう。
それより、もう一戦、どう?」
「はい。
今度は負けませんよ」
「言ったなぁ」
その日初めて変に遠慮をしない子供のような振る舞いを見せる葵に翔太は顔をほころばせる。
その後、フライドチキンとパンケーキ、サラダのセットの宅配が届くまで、ゲームをやり続け、届いてからは、二人で楽しそうに会話をしながら食事。
上手に話を合わせる翔太に、葵の話は止まらない。
翔太も久しぶりに若い女性、というよりも女の子との楽しい時間が新鮮だった。
「さて、遅くなったな。
送っていくよ」
「え?
大丈夫です。
私の家、近いですから。
駅向こうの、知っています?
丹後町の大きなお風呂屋さんの煙突がある銭湯の近くです」
(おいおい、家の場所まで教えるのか?
まったく、無垢な娘だな)
「本当に大丈夫?
良かったら、車で送るけど」
「大丈夫です」
葵は、自分の住んでいるアパートを翔太に見られたくなかったので、尚更、固辞する。
「わかった。
じゃあ、これね」
翔太は、財布から5千円札を取り出すと、葵に渡す。
「そ、そんな。
受け取れません」
「何言っているの。
いいから、受け取りなさい」
「そんな」
しばらく押し問答が続いた後、葵は観念したようだった。
「本当に、いいのですか?」
葵は上目遣いで、翔太を見る。
「ああ。
今日、半日、付き合ってもらったから。
それに楽しかったからね」
「じゃあ…」
葵はすまなそうな顔をしながら5千円札を受け取ると、自分の財布に大事そうにしまう。
「あの…」
「ん?
なに?」
「あの…。
また、会いに来ていいですか?」
「へ?」
(やべえ、懐かれたか。
まあ、週一で5千円なら、いいか)
「だめですか?
あ、当然、お金はいりません」
「いや、いいよ。
いつでも会いにおいで」
「はい!」
葵は今日一番の笑顔を見せる。
マンションの前で葵を見送る翔太。
葵は何度も何度も振り返り、手を振る。
その都度、翔太は手を振り返し、葵が見えなくなるまで、見送っていからマンションに戻る。
部屋の中は、葵の残り香を感じた。
(こう見ると、結構、美人かな)
翔太は防犯のためと知り合いから勧められ、玄関の内側と窓際に録画式の防犯ビデオカメラを取り付けていた。
その画像に葵が入って来て、また、帰るときの画像が写っていて、特に帰るときの画像は、まだ、マスクをする前で、葵の笑顔がしっかり写っていた。
それから1週間立った水曜日の午後4時を回った頃、翔太の家のインターフォンが鳴る。
その日は、テレワークで翔太は家で仕事をしていた。
(はい、はい。
なんだろう。
宅急便かな)
翔太の頭の中から、葵はすでに消えていた。
「はい」
インターフォンの通話ボタンを押して、答える。
「こんにちは。
廣瀬です。
廣瀬葵です」
「へ?」
(葵?
葵ちゃんか?!)
インターフォンのモニターに映し出された影は、逆光だったのか顔をよくわからなかったが、背格好は葵だった。
「あ、あの…
ご迷惑でしたら、帰ります」
葵は、翔太の返事がなかったので心配そうな声を出す。
「あ、いいよ。
今、ロックを開けるから。
ここまで、来れるかな?」
「はい、大丈夫です」
翔太はエントランスのドアのロックを開ける。
3,4分すると、ドアフォンが葵の来訪を教える。
「はあ…い?
いっ、いー?!」
ドアを開け、目の前に立っている葵を見て、翔太は凍り付いた。
「?」
「そ、その制服…
近くの中学校の…
中学生か?!」
葵の着ていた制服は、翔太が会社に行く時に通学路になっている見慣れた公立中学校の制服だった。
「はい。
嘘をついて、ごめんなさい。
中3です」
葵は、ぺこりとお辞儀をした。
タイトルの「AとK」は、葵と薫から来ています。
また、スタンダールの「赤と黒」を文字っています。
ただ、主人公や内容は全く違い、単なる語呂合わせです。
葵と薫は住んでいる場所が全く違うので、二人そろって何かをするということはありません。
各々別の場所、別の環境で相反する二人が生きていくさまを交互に描いていきます。
「不良になるため、躰を売る」
突飛かも知れませんが中学生の発想って、まあ、育った土地柄や環境に左右されますが、特に性に目覚めていく年頃、そういうことところもあると思います。
また、「じゃあ、その後どうするの?」ということを全く考えていない『暴走天使』的なところもあり、目が離せない年頃でもあります。
蒼が声を掛けた翔太は、大人の女性相手のナンパ氏的なところがあり、当然、葵に興味がある訳ではなく、放って置けないという気持ちからマンションに招き入れました。
ただ、テレワーク中心の世の中。
生身の女性は葵だけ。
心の葛藤が湧き上がってきます。
次回は、薫の物語。
薫と裕樹の出会いから。