冷たく甘いオレンジジュースを飲む
おかえり、という声を聞いたかどうかは分らなかったが、僕はランドセルのまま、導かれるようにうす暗い台所へと足を踏み入れた。
そこには母がいた。
母は、いわゆる『アッパッパ』と呼ばれる白いワンピース形状の服で、ひとり台所に立っている。
暗く沈んだ台所の、裏側の引き戸はいっぱいに開けられていて、小さな川の土手に生えそろう草木と、河原を縫って流れる清らかな水とが、明るい色の四角を切り出している。
色はどこかの日本画でみたように、淡い緑と緑青色と、黄味がかった若草色とが交互に入れ替わり、風が涼やかに草木をそよがせているのを感じることができた。
風向きが良いようで、いつもは気になるはずの裏の便所の匂いは届かず、ただ、乾いた灰色の木壁と小窓の格子に木漏れ日がちらちらと踊っていた。
今日は暑かったね、と言いながら母は僕に背を向けて、小さなテーブルの向こう側に歩いていって、丸いパイプ椅子に座った。よく見ると素足だった。
なぜ母がこんなに若いのか、少し考えてから僕は自分がランドセルを背負っているのを思い出した。急に両方の肩に幅広の革がみしりと喰い込む感触がして、僕は慌ててランドセルを下ろす。
弾みをつけるように床に下ろしたランドセルは、背負っている時よりもずいぶん軽そうに見えた。何が入っていたのか、まるきり思い出せない。
母は、前からこれが飲みたかったんだよね、とテーブルのグラスを手前に寄せる。母の体型に似た、ずんどうのガラスのコップには、少し濁ったみかん色の液体が満ちている。かなり冷えているのか、コップの外側には細かく水滴がついている。母は、長いストローを挿し、おいしそうにそのジュースらしき液体を飲み始めた。僕はただ、ストローから時おり口を離しては母が、こういうのを、飲みたかったんだよね、と笑っているのをなんとなく眺めているだけだった。
自分も飲みたい、と思ったわけではなかった。
普段ならば、暑くなってきたこの時期、数キロ離れた学校から歩いて帰ってきた僕に真っ先にジュースを勧めるだろう母が、涼しげな恰好をして、自分だけなみなみと冷たい飲み物を楽しむ、ということはまずないだろう。いつも自分の好きなものでも、先に僕に、少なくとも半分こで分け与えてくれる母なのに。
なぜ彼女は、ひとりで。
思う間もなく、僕はすでに気づいている。
彼女はこの世のものではない。
だからジュースだってこんなにも瑞々しく輝いているし、グラスは冷たそうに露に覆われているし、ピンクのストライプが入ったモダンなストローをのびあがっていく液体も怖れを覚えるほど、甘やかにみえるのだろう。
それは僕の飲み物ではなかったのだから。
どうして僕を置いて死んでしまったの?
と、聞いたのだろうか。僕はひとことも発した覚えはなかったのだが、母はやがてストローから口を離し、言った。
「だってね」
ここで目が覚めて気づいた。
母は、死んでなぞいないということに。
成人して少し経っていた頃にみた夢だ。
離れて暮らしてはいたものの、彼女は元気で、時おり電話で他愛ない近所の話や説教じみた話をしては、もう切るよ、ということばでしぶしぶ受話器を置くのが常だった。
そんな時代は長く続いた、僕も年を経て、いろいろなことがあった。
時おり、初夏の台所の夢を思い出すことはあった。台所の暗がりと、切り取られた日本画のような川岸の風景、オレンジジュースのグラス、美味しそうにジュースを飲む母……あれは何だったのだろうか、と何度もなんども思い返した。
それにしても、そう感じる時にはたいがいいつも母は、元気だった。
同じ夢をみたのは、ずいぶん経ってからだった。
年老いた母は、ベッドに仰向けになって、天井をみつめている。
寝たきりだと言うのに、寒い、さむいと何度も言うので介護担当の職員は靴下を穿かせているのだという。
認知症もあるのだろうが、母の目はどこまでもおだやかに天井をみつめている。
「元気?」
意味をじっくり考えれば空しいことばを吐いて僕は今日も彼女の部屋に入る。
それでも、以前の寝たきりの状態よりは、ましになった。
彼女の目線を敏感に反応して、ウェブサイトはさまざまな光景を天井に映し出している。
今日の景色は、富士山周辺だった。白く長くのびた稜線、青く澄みきった海、数々の宣伝サイト。
母にはすでに手が届かない世界。それでも目線が動く限り、それは彼女の前に世界を拡げてみせる。
仕事で忙しい僕は、何やかやと言い訳を取り繕い、なるべく会いに行かないように努めていた。
たまに訪ねる時でも、幾千万の言い訳とともに、早々に部屋を後にしていた。
その日は、以前訪れた時より、かなり間が開いていたのだと思う。
母の住む施設は、長いリフォームがようやく済んで、すっかり新しい四角の塊となっていた。
病室もすっかり奇麗になって、天井には彼女が目で操作した景色がいつも映し出されている。
部屋に入るなり、僕は息を止めて立ち止まった。
あの台所が、天井一杯に映し出されていた。
空気までいっしゅん、ひんやりと初夏の風を送ってよこす。
母は相変わらず若々しく、アッパッパは抜けるように白く、四角く切り取られた裏口は淡く輝いていた。
そしてまたそこで、母はオレンジジュースをすする。いかにも冷たそうに、美味しそうに。
「どうして」
まだ幼い僕の声が、枕元のスピーカーを通じて雑音まじりの中に響く。
「どうして、まだ死なかったの?」
「だってさ」
若い母の声が、スピーカーから響く。楽しげな笑いを含みながら。
「あんた、ずいぶん寂しがるだろうしね。何度も繰り返して、覚えていた方がいいかと思ってね」
僕はようやく、言った。
「オレンジジュース、僕にも注いでくれる? のどが渇いたんだ」
ベッドに横たわったままの母が、穏やかに微笑んだ。
(了)