輪っかも翼もない者を、誰が天使と呼ぶものか。
また続き書きました。
あいかわらず、いきあたりばったりです。
赤髪の女、バックスが目覚めると、まったくいつもと違った。
ベッドが冷たく硬い。いや、これはベッドじゃないな。
ここはどこだ。なぜ、こんなとこで寝ている。
上半身を起こし、周囲を見回す。
この感じ……天使宮の祭室か。それにしては、祭壇もないし、ずいぶんさっぱりしたものだ。
木製の長椅子がいくつか並んでいる。一番手前の席で、白地に、緑の染料で文様の入れられた、やや動きにくそうなダボッとした服の男が、こっくりこっくりと舟を漕いでいる。
ふむ、何もわからん。寝起きのせいか。なぜだ。なにが起こった。
バックスは立ち上がり、首を右、左に順に曲げ、準備運動のように両肩を回す。
肩甲骨のあたり、力がはいらないような、なにか妙な感じだ。体も重い。
天界記憶領域にも接続できない。おかしい。
まさか、端末の不具合?
バックスは、慌てて右手を振り上げ、頭上の何もない空間を掴もうとした。
当然手ごたえはないが、今度は左手でまったく同じことを繰り返す。
おいおいおい。
鼓動が早くなる。それなのに、顔からは血の気が失われるような感覚。
自分の頭の位置が、だいぶ上のほうにあると勘違いしている人の洗髪、みたいな動きをするバックス。
当然、その手に触れるものなどない。
マジか。マ、ジ、か。
頭上をまさぐっていた両手をだらんと下す。激しい鼓動が、その豊満な胸を突き上げている。
落ち着け、落ち着け。そんなわけはない。そんなわけは、ない。
思い出せ。眠る前に何があったか。一番最近の記憶を思い出すんだ。
えーと、確か、前に起きた朝のことは覚えている。いつものように命令を受けたんだ。
そして、さっそく管理室を出て、えーっと、どうしたんだっけか、えーっと。
「……おや、お目覚めになられましたか」
「うるさい、黙ってろ」
カルカは、魔力枯渇の後は、一時的な記憶の喪失や意識の混濁があるのが一般的、だと習った。
だから、彼女が目を覚ましたときには、驚かせないよう最大限に柔らかい口調で話しかけようと思っていた。
大量の瓦礫を運び出し、散らかった祭室を二日がかりで片付けて、女戦士がぜんぜん目覚めないのを待ち疲れたこともあって、少しばかりうとうとして、はっと我に返ると彼女が立ち上がっていたから、シミュレーション通りに声をかけたのだ。
もうすっかり暖かい春の季節とはいえ、夜は冷えるだろうとブランケットもかけたし、あまりに目覚めないから、異常がないか何度か身体精査の奇跡で調べたりもしたし、いやまあ、体重が重すぎてベッドに運べなかったことは悪かったけど、だからって起きて一言目に「黙ってろ」って、そんなのある?
イラつく気持ちが湧き上がりそうになるが、神官たるもの、それを抑えるのもまた仕事のうちである。
ま、まあね、意識の混濁ってヤツだよね、心が不安定になってるんだよね。
思いがけない反応だったけど、これは想定内ってヤツだよ、想定内って。
「思いがけないのに想定内」とかいう謎の理屈で、乱れる心を落ち着かせるカルカ。
女戦士の表情は、険しい。暑いわけでもないのに、汗までかいている。
なにやら尋常ではない様子だが、カルカはいつまで黙っていればいいのか。
しばしの、沈黙。
それを破ったのは、バックスだった。
「ダメだ……まったく思い出せない」
バックスは両手で顔を覆い、ため息をつきながら、ゆっくりとしゃがみこむ。
あ!これ、まさに「一時的な記憶の喪失」ってヤツじゃないのか? 教科書どおりのヤツだ。
もしそうなら、心配しなくても、徐々に記憶は戻るはず。教えてあげよう。
「落ち着いて。あなたは、魔力枯渇で気を失っていたのですよ」
椅子から腰を浮かせ立ち上がりながら、カルカは努めてやさしい口調で話しかける。
両手を当てていた顔をあけて、カルカの顔を見上げるバックス。
「俺が……魔力枯渇……?」
「そう、あなたは、ここに来てから二日もの間、眠っていたのですよ」
バックスは、呆然とした表情でカルカを見つめた。カルカは続ける。
「きっと、その影響で、記憶障害が出ているのでしょう。でも、大丈夫。それは一時的なもので、だんだんと思い出すはずですよ」
「魔力枯渇。そうか。そうか……」
納得したのかしないのか、バックスは再度すっくと立ち上がり、言った。
「オマエは神官、だな?」
「は、はい」
「よろしい。それなら」
バックスは、カルカの正面に向きを変えて、一つ息を吸ったあとに、言った。
「天使バクスシーヌ・エスオブトの名において汝に命ずる。天使エイドムニス・トラットルを呼び出してくれたまえ」
カルカは黙った。というより、何も言えなかった。何を言っているのかわからなかった。
ただ、目の前の女が、想像をはるかに超えた、ものすごくヤバいヤツだということはわかった。
英雄クラスの能力を持ち、しかも頭がおかしい。これはヤバい。テキトーな受け答えでは、最悪「命を落とす」までありうる。
どう答えたものか迷い、かといってあまり黙っているのもまずかろうと考えた結果、カルカは声を発せず、ただ口が無意味に開いたり閉じたりした。
バックスは、これまで神官というものとあまり関わったことがない。
ただ、仲間がどこそこの神官から呼び出されたとかいう話はたまに聞いていたので、神官とはそういうことができる人間なのだと、漠然とした理解はあった。
ひょっとして、神官にもいろいろあるのだろうか。あるのかもしれない。天使だっていろいろだ。
「ん、どした?オマエには難しい注文だったか?」
難しいなんてものではない。天使にご降臨頂くなんて、カルカの上の上の上の上の、とにかく相当高い力を持つ神官でなくては無理だ。それを、さらに名指しでやるなんて、聞いたことすらない。
「は、はい、残念ながら、私ごときではとても無理です。」
「あ、そう。なら、誰だったらできる?」
この女、とんでもないことを言っているという自覚はないらしい。そりゃそうだ、自分を天使だと思い込んでいるんだから。
天使様を呼びつけるなどという大それたことが可能な人間など、少なくともカルカの直接知る範囲には、存在しない。
神王直属の大神官なら、天使降臨の儀を執り行うこともあるらしいが、それをやるのは国家レベルのなにかがあるときだけだ。狂人の、まさに狂ったとしか思えない申し出が通るなんてことは、ありえないだろう。
「すいません、ちょっとそういうのは、誰でも無理なんじゃないかと」
「えー。それは困るなぁ」
困ってるのはこっちだ、と言いたいのを飲み込むカルカ。
汝に命ずる、とか言ったときは凛としていたのに、それからあとは、てんで気の抜けた喋り方だし……あ、そうか!つまりこれは、からかわれているんだ。そうだよ、これはきっと、質の悪い冗談に違いない。そうとわかれば。
「すいません、天使様。あなたが本当に天使様なら、直接お呼びになればよいではありませんか」
「いやまあそうなんだけどね、連絡先を知らないというかー」
まだとぼけるつもりか。ひょっとして、壊した屋根と祭壇の弁償を恐れて、有耶無耶にしようとたくらんでいるんじゃあるまいな。カルカは少しばかり腹が立ってきた。
「だいたい、翼も持たない天使様なんていますかね。私もこの目で直に見たことはありませんが、天使様といえば、立派な翼を持っているものでしょう」
「え?」
バックスは、何言ってんのコイツ、という顔をした。
そして何かに気づいたかのようにハッとして、左右の肩を順に確認するように首を回し、また正面を向く。一気に顔色が悪くなった、ような気がする。
マジか。マ、ジ、か。
バックス、本日二回目の「マジか。」
端末がないと、飛翼も使えないのか。
さっきから背中に感じていた違和感とか、やけに体が重いのとかも、ぜんぶこのせいだったのだ。
天界に帰る道がわからないどころか、まさか帰る手段すら失っているとは。
「なにを、今初めて知った、みたいな反応してるんですか。そろそろ冗談は終わりにしましょう」
カルカはにこやかに言った。はい論破ー、と余裕の笑みである。
ここで、人間のことにはいまいち詳しくないバックスにも、はっきりとわかった。
この神官は、私が天使であるということを、まったく信じていない。
そりゃそうだ、端末も飛翼もないこの姿、天使ですよっていうほうが無理がある。
しかし、しかしだよ。それでも事実は変えられない。私は紛れもなく天使なんだ。
誰か、知ってる天使でも来てくれれば簡単な話なのだ。それなのに、端末がないでは、どう連絡をとっていいかもわからないし、簡単な神の奇跡すら起こせないではないか。頼みの神官も、天使を呼ぶなどできないというし。
せめて、こうなる前の記憶さえ戻れば……どうなるものでもなさそうだが、なにか、なにかのヒントになるんじゃないのか。
バックスがそんなことを考えていると、ぐぅきゅるきゅると、カルカにもはっきりと聞こえるほどの大きさで、バックスの腹の虫が鳴いた。
「二日間何も食べていないんですから、さぞかし空腹でしょう。簡単なものですが、お食事を用意しますよ。こちらにどうぞ。」
カルカは、にこにこと笑ったまま、祭室正面の出入口に向かって歩き出す。
明日になれば、きっと彼女の記憶も戻るだろう。そうすれば、事情を聴きだして、報告書も書けるってもんだ。それで万事解決、平穏な生活に戻れる。うんうん。
ほっと一息のカルカに対し、バックスは心中穏やかではなかった。
この先、俺は、どうなるんだ。どこかの通りすがりの天使が、偶然にも俺に気付いて助けてくれるだろうか。それは、まあ、ないだろうなぁ。俺も、仕事中に人間の様子など気にしたことなんかないし。
バックスは、両目をぎゅっと閉じて、両手で頬を、軽くパシパシと叩く。
悩んだところで、問題は解決しない。それより、確かに腹が減った。神官の好意に甘え、馳走になるとしよう。人間の食い物か。初めてだ。うまいのかな。贅沢をいえる立場ではないが。
「あの、大丈夫ですか。こちらですよ」
扉の向こうから覗き込むカルカの姿が見える。
頼りなさげなやさ男だが、よく見ると、人のよさが滲み出たような、いい顔じゃないか。
地に堕ちて、最初に会った人間がコヤツだったのは、運がよかったのかもしれんな。
「ああ、大丈夫だ。今行く」
バックスは、なんだか慣れない重い体の、重い足を上げる。
少しひんやりした風を感じる。天井に空いた大きな穴から、きれいな星空が見えた。
何か思いつくようだったら、続き書きます。