何もないからしかたない、これから先の相談だ。
第19回目のお話です。
会話回。何も起きないので、欠伸が出るかもしれません。
何もない空間の中に、黒いドレスの天使と、赤い鎧の女戦士がいる。
この場所にはなにもない。上下もなければ、東西南北もない。
したがって、彼女たちがそこに浮いているように見えたとして、実際はそうではない。
「何もせずにいれば下に落ちる」という環境下で、下にある床や地面に接することなく、かつ、落ちることなく留まっているのが「浮いている」状態だ。地面がないどころか、上も下もないこの場所では、彼女たちは「浮いている」わけではなく、ただ単に「そこに存在している」としか言えない。
神の奇跡を使えるジオトヒクルには、こんな状態の世界でも自由に動くことが出来るが、そうでないバックスにはちょいと勝手が悪い。なにしろ、動くための手がかり足がかりがないのだ。ばたばたと体を動かして向きを変えるくらいのことはできるが、移動するのは難しい。
この何もない世界に突入する直前、バックスはほんのちょっとだけ床を蹴ってしまった。その影響で、ジオトヒクルとまっすぐ向かい合っていたバックスの体は、じーっと観察していたらようやく気付く、くらいの速度で、彼女らにとっての上方に少しずつ移動していた。
「いやー、でもさ、なんだかんだ言ってジオっちは、俺のことをけっこう信用してくれてるよね?」
バックスは、にまーっと微笑みながら言った。
「はぁん? なんでそう思う?」
対するジオトヒクルは、怪訝そうな顔で答える。
「だってさ、何か怪しいヤツいたら、普通はとっ捕まえてふん縛ったりするもんじゃない? なのに、ジオっちは、そういうのまったくなかったからさー。」
「アホぅ。んなもん、いつも敵と戦っとるヤツの考え方じゃ。ワシらの仕事は、あくまで死んだ人間のお出迎え。捕まえるとか、そういう荒事とは無縁よ。」
「ふーん、なるほどねー。」
バックスは、自分だったらどうするだろうと考える。
面白そうだからしばらく様子を見るかなー。あれ、なんだ、俺も普通じゃないな。
「それに、」
ジオトヒクルが言う。
「天使を騙すためのウソとしちゃあ、内容があまりに馬鹿げとる。何か悪巧みしとるんじゃったら、もう少しマシな作り話になるじゃろうと思うてな。」
極めて冷静な判断でここまで来たようなことを話すジオトヒクルだが、実際は違う。なにか納得いかないままに、バックスの勢いに押し切られた、というのが正直なところだ。そうなった理由はなんだろうと、頭の中を整理しながら、ジオトヒクルは言葉を重ねているのである。
「そりゃあそうだ、俺は本当のことしか言ってないからな。その考え方は正しい。」
大きく首を縦に振るバックス。少し得意げなのは、なぜなのか。
「もう一つ。防衛局のヤツらの態度な。ワシャアほとんどあそこには行かんから知らんかったが、アイツら、ちょっとおかしくねぇか?」
天界でのやり取りを思い出し、ジオトヒクルは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「え? そうかな。みんな、基本的にはいいヤツらだと思うけどな? おかしいっちゃーおかしいヤツもいるけどさー。」
これは意外、と驚いた顔を見せるバックス。
「アイツら、ワシが親切心であのなんとかいう剣を届けてやったのに、礼の一つも言わんと、無表情であの剣をバッと取り上げて『レイテストが戻ったぞ、バクスシーヌ様に至急連絡を!』だと。あれはないわ。」
フンと鼻息も荒く、ジオトヒクルは文句を垂れる。
「ふーん……」
それを聞いたバックスは、視線だけを上に向けて、考える。
防衛局は、普段からそんなにキツい感じの職場ではない。
この世界に訪れる脅威の存在を常に監視し、それが現れたら、速やかに排除する。
神から与えられたこの仕事は、非常に責任重大ではある。しかし、ここで働く天使たちが、その重圧から、いつもピリピリ、カリカリしてるかって言うと、そんなことはぜんぜんない。
むしろ、脅威をと戦う際には、盛大に神の力を行使することが許されているため、自ら好んで、最前線まで出張っていく者すらいるくらいだ。例えば、それはバックスのことだが。
そもそも、アイツら、俺のことを「バクスシーヌ様」なんて呼ばないしなぁ。ああ気持ち悪い。
「天界の状況はだいたいわかった。うん、これはかなりヤバイぞ。かなりヤバい。」
たぶん、相当ヤバいのだろう。同じことを二回続けて言うくらいだから、相当ヤバいのだ。
「ん? 何がヤバいんじゃ? あの剣を届ければなんとかなると、言うとらんかったか?」
ジオトヒクルが尋ねる。
「それは、そうだなぁ……うん、大失敗だったかもな。」
バックス、思わず苦笑い。おそらくは、そんな風に笑っていられる状況じゃないはずだが。
「大失敗ぃ!? どういうことじゃそりゃあ?」
驚いて声が大きくなるジオトヒクル。
「オマエの話を聞いてわかったよ。防衛局な、完全に脅威に乗っ取られてるわ。」
「はあ!?」
ジオトヒクルは、思い切り眉間にしわを寄せ、さらに大きな声をあげた。
「まあまあ、落ち着け、ジオっち。似たようなことが、確か百五十年くらい前にもあったんだよね。」
ジオトヒクルの頭上にある輪っかの淡い光が、少しだけ強くなる。
天界記憶領域を検索すると、脅威による防衛局乗っ取り事件の記録が見つかった。
「ほう、確かにあるな。ニ百七十年前の話じゃが。」
「あれ? そんなに前の話だっけか。まあ、誤差の範囲だ。」
バックスは、あははと自分の間違いを誤魔化すように笑う。
「倍くらい違うじゃねぇか。いやまあ、それは別にどうでもええ。なんで乗っ取られたとわかる?」
「そりゃあ、簡単なことだ。」
バックスは、自信満々とばかりに、胸を張る。
「本物の大天使、バクスシーヌ・エスオブトが、ここにいるからだ!」
ああ、そう……そうか、そうだな……うん、そういうヤツだもんな、テメェは。
その言葉には、ジオトヒクルを納得させる理屈は何一つなかったが、反論を押し留めるには十分な力強さがあった。
「そ、そうか……で、そうだとしたら、これからどうする?」
一応、聞いてみるか。前にもあったんなら、解決策もわかっているじゃろうしな。
「なー。どうしたもんかなー?」
「テメェがわからんかったら、誰が知っとるんじゃい!」
ホント、コイツと話すと疲れる。えぇいクソ、無垢な瞳で見るな。泣く子も黙る赤眼持ちのくせに。
「……なあ、前にも同じようなことがあったんじゃろ。そんときゃあどうした?」
バックスは、また得意顔になって答えた。
「そりゃあもちろん、俺がぶっ潰してやったさ!」
「こぉの! ダアホ! どうやってそこに到ったかを聞いとるんじゃボケェ!」
熱くなったら負けだと思いながら、ついつい声をあらげてしまうジオトヒクル。
いかんいかん、落ち着けワシ。案内人は常に冷静じゃなきゃいかん。
「うーん、どうやってって……脅威のいるとこ、まあ、あんときは俺の部屋だったんだけど、そこに乗り込んでいって、こう、剣でずばーっとね。」
右手で剣を振る仕草をしながら説明するバックス。
「だーかーらー……」
いっこうに要領を得ないバックスの返答に、ジオトヒクルは思わずため息を漏らす。
「そんときゃあよ、どうやって天界に戻ったんじゃ?」
ここで、ようやく質問の意図を汲んだバックスは、ぱあっと明るい笑顔で頷きながら答えた。
「ああ! なるほどね、そういうこと! あのときはね、俺、端末を失くしてなかったから、普通に飛んでったよ。」
まさかの前提違い。前にも同じことがって、防衛局を乗っ取られたって部分だけかよ!
……いや、まあそれは、ワシが早合点しただけじゃが。ああ、もう。
「だから、そこは大丈夫。ジオっちが、俺を天界まで運んでくれたらいいだけのことだ。だろ?」
いけるいける、楽勝楽勝。バックスはそんな感じだが。
「簡単に言うな。天界には、天使以外は入れん。端末のないテメェじゃ無理じゃ無理じゃ。」
ジオトヒクルは首を振る。
「えー、そうかなー。端末はなくても、俺、天使なんだし、大丈夫じゃないかなー?」
と、ここで、なにもない世界の背景が、突然真っ赤に変化した。保護色効果でバックスの姿がちょっとだけ見づらくなって、耳が痛くなるような甲高い音がキーンと響く。
「ん、なんじゃこらあ?」
ジオトヒクルが周りを見渡したとき、世界はまた、もとの何もない空間に戻る。
通常の世界修復では見ることのない変化だった。それに、修復に入ってからの時間が、けっこう経っている。いつもなら、いいかげん終わる頃なのだが。
「どうも、修復がうまくいかないみたいだねー。たぶん、防衛局、仕事してないわ。いろんなとこに脅威が入り込んでるのかも。」
深刻な事態なのだろうが、バックスの喋り方にはいささかの緊張感もない。性格的なものと言えばそれまでだが、こういうときこそ落ち着きが肝心なのである。パニックに陥る姿など晒そうものなら、周囲にいらぬ不安感を植えつけてしまうことを、バックスは熟知していた。
「いよいよ一刻の猶予もならん、ってことかの。」
実際、このバックスの変わらぬ調子は、乱れかけたジオトヒクルの気持ちを安定させた。
「そだな。ま、まだ大丈夫だ。修復終わったら、すぐに天界へ向かおう。」
ジオトヒクルは不思議だった。目の前にいる、自称天使の言うことが正しいと言う根拠はどこにもない。
それなのに、話せば話すほど、コイツが言うのならそうなのだろう、という気がしてくるのだ。
それにもう一つ。天使の中でも、ごく一部の者だけが持つ赤眼の力。それを使えば、あるいはジオトヒクルのことも屈服させ、自由にできたかもしれない。しかし、この自称天使は、それは決してやろうとしなかったのだ。そのこともまた、信用に足るというジオトヒクルの考えを後押しした。
「わかった。じゃが、天界に行くんはええが、剣はどうする? なくてもなんとかなるんか?」
「あ! そうだった! それ、どうしよっかー?」
やっぱダメじゃ! コイツを信じるのはええが、過信はいかん!
ジオトヒクルは、相手のペースに飲まれ、一旦は緩んだ緊張の糸を、改めてピンと張りなおすのだった。
次があるかは運次第。運がよければ続きを書くかもしれません。