魔王降臨恐ろしや、魔王蹂躙あな恐ろしや。
ファンタジーの花形悪役、魔王。
魔界でトップクラスの強さを誇る魔王の恐ろしさ、とくと感じて頂きたい。
「いや、もう、ホント、すんません。そんな大事なもんだとはしらなくて、その。」
筋骨隆々の肉体に、ぴったりとしつらえられた立派な燕尾服に身を包んだ男が、冷たい床に正座している。立てば、バックスよりも優に大きい体躯であろう。
牡牛の頭に、下向きに曲がった山羊の角を持ち、そこに濃縮した悪意を添加したような、いかにも悪魔然とした面構えだったのだが、今はうつむいてしまい、なんともしょぼくれた表情になっている。
「バーカ。神が作り給うた人間の魂だぞ、大事なもんに決まってんじゃねーか。それなのに、オマエらときたら、俺らの目の届かないところでちょくちょく掠め取ってんだろ。なーにが『そんな大事なもんだとはしらなくて』だ。」
カルカを寝かせたベッドの横に、その長い足を組んで腰掛け、床に座る悪魔に小言をいうバックス。
「それはもう、ホントすんません。反省してます。しかしですね、私どもも、これが仕事でして。」
正座している悪魔は、うつむいたまま、ポツリポツリと言葉を重ねる。目の前の得体のしれない女が、また、いつ激昂して、自分を痛めつけるのではないかと恐れながら。
なるほど、真っ黒な顔で目立ちにくいが、頭には大きなコブができ、前歯は欠け、鼻先はひん曲がっている。ついさっき思いっきり殴られました、という痕跡だ。
ちなみに、バックスは思いっきり殴ってなどいない。幼子を叱るように、軽くゲンコツをくれてやった、くらいの気持ちである。その勢いで、悪魔が床にキスをするなどとは、思ってもみなかったが。
「なーにが仕事だ。人のものを勝手に盗ったらいかんと習わなかったのか? ま、習ってるわけねーか、オマエ、悪魔だもんなー。」
バックスは、正直、この悪魔に教育的な指導をしようとか、そんな気はさらさらなかった。悪魔が悪事を働くのは、物が下に落ちるくらい当たり前のことである。
この世界は、人間のために作られている。「悪魔」というのは人間にとって悪いものだからそう呼ばれているのであり、その行為を咎めたところで、意味がない。だって、そういう存在なのだから。
「いやあもう、まったくその通りでして。魔界生まれ魔界育ち、学がないと、こんなことくらいしか仕事がありませんで。へへぇ。」
牡牛頭が、渾身の愛想笑いで、バックスのご機嫌をうかがう。卑屈にへりくだっているが、魔界ではそこそこの地位についているはずだ。そうでなきゃ、こんなにきっちりとした身なりなどしていない。
それは、バックスにもわかっていた。
「ふーん、仕事ねぇ。人間の魂を盗ってくるなんてしょーもない仕事、なんでオマエがわざわざ出てきたんだよ。下のヤツに行かせればよかったんじゃねーのか?」
これは普通に、バックスにとっては不思議なことだった。
天使が回収しなかった人間の魂を、こっそり横から奪っていくなんてことは、下級の悪魔にでもこなせる簡単なお仕事である。怠惰な魔界のお偉いさんが、自ら出てくるなんてのは珍しい。
当然、今、情けなくも正座してうなだれている悪魔にも、それなりの理由があった。
魔界で流れている噂である。
*
最近、天使宮の結界に穴が開いて、そのままほったらかしになっているところ、あるだろ?
あそこに、とんでもなく強い女戦士がいるらしい。
近いうちに人間界に打って出ようと準備してるヤツがいんじゃん。あそこの期待の若手邪心霊が、ちょっと腕試しとばかりに、そこの天使宮ぶっ潰しにいったらしいんだけどさ、祝福された武器どころか、ナイフさえ持ってない女戦士にあっさりやられたんだって。
ソイツ、何者なのかって。さぁね。でも、英雄クラスだろ、そんなことできんの。
ちょっと様子探ろうかって送った悪霊なんかも、あっさり散らされたっていうし。
そんなわけで、あそこ、結界に穴開いてるからって、行かないほうがいいよ。マジで危ないから。
……とまあ、これを聞いて頭を痛めたのが、噂話の中に出てきた「近いうちに人間界に打って出ようと準備してるヤツ」こと、雄牛の頭にヤギの角、異様に筋肉の発達した巨大な身体を持つ魔王、ゼクトである。正確にはまだ魔王ではないのだが、これから人間界に侵攻開始して、魔王として君臨する予定だったのだから、もう魔王でいいことにする。
そんな魔王の部下が、つい最近、いとも容易く人間にやられたというのだから、まったくもってタイミングがよろしくない。人間界に攻め込もうとしていた魔王軍の士気は落ちるし、なにより、魔界での面子に関わるではないか。
当然、この借りはしっかり返さねばならないが、じゃあ誰にその役を任せるかって話だ。
なにしろ、噂の女戦士の強さがはっきりしない。武器も使わずにアレを倒せる人間なんて、確かに英雄クラスでもないと難しいだろう。しかし、人間界を調べてみても、そういう英雄の話は見当たらない。
無名ということは、まだまだ新人なのかもしれない。しかし、駆け出しだからと言って馬鹿にできないのが、突然変異的に人間界に現れる英雄クラスである。これまで幾度も人間界に攻め入った先達の魔王たちが、最終的に敗北を喫してきたのは、ありえないほどの人間離れ、英雄たちのせいと言っても過言ではないのだ。
仕方ない。いつか我が覇道の障害ともなりかねんその女を、我が自ら叩き潰してやろう。悪魔をなめるとどうなるか、その身に刻み込んでくれる。
そして、英雄の一人や二人に屈する我ではないこと、魔界の者どもにも知らしめてやるのだ。
我は、魔王ゼクト。かつて人間に敗れていった無能どもとは違うことを、思い知るがいい。
ははは! ふははははは!
*
魔王ゼクトが、噂の、結界に穴開きっぱなしの天使宮を訪れると、死んだ男がベッドに寝かされていた。
ただの死体ではない。どういうわけか、魂が回収されず、そこに留まっている。普通、人間は、命を落とすと、数分のうちにその魂は天に召されるものだ。しかし、この死体の様子、数分どころか数時間ほど経っている。
人間の魂というものは、魔界の住人にとってはなんとも美味で、しかも強大な魔力を得るための、最高の栄養源なのである。なぜこの男の魂が、いまだに死んだ身体の中にあるのか、その理由はわからない。ただ、ゼクトにしてみれば、これからちょっと面倒事を片付けるにあたって、景気づけに一啜り行っとくか、てなものである。
ところが、ここで、部屋の外から近づく足音と、ぶつぶつと何か独り言をいう女の声が聞こえた。
ここに来るハメになった原因の、あの噂の女戦士かもしれない。おいしいものは後にとっておくタイプの魔王、ゼクトは、一旦、魂のことは忘れ、死体が寝かされているベッドを背に、臨戦態勢をとる。
いかに相手が英雄クラスの人間だろうと、まだまだ新人で、しかもただの一人。人間界を丸ごと敵にして戦う、魔王を名乗るような悪魔が、そんなものに遅れをとるわけはないのだが、その慢心により敗れ去った魔王の話も多い。油断は大敵、戦うときは万全の体制で挑むべきなのだ。
そういう点では、ゼクトは非常に賢明な魔王であるといえた。
部屋の扉が開く。赤い髪の、人間としてはかなり大きい女だ。ゼクトは一目で、それが今回の標的であると直感した。
まずは小手先の魔法。幻覚で、ゼクトは己の姿をより大きくおぞましい姿に見せ、恐慌で精神にも直接圧力をかけていく。
「わ、びっくりした。なんだオマエ、急に出てきやがって。」
そこいらの人間のように、泣き叫んで小便チビるとか、そんな情けない反応はさすがにないと予想はしていたが、それにしたって、驚き方があっさりしすぎだろう。精神作用の魔法、どうもこの女戦士には効き目が薄いらしい。
それなら、直接攻撃の魔法はどうだ。英雄の中には、耐性持ちなどという、オマエちょっとズルいぞって体質のヤツもいるらしいので、火系、氷系、雷系、三種類の攻撃魔法を準備してある。
ゼクトがまず放ったのは、爆熱火球。真っ赤に燃え盛る炎の球が直撃し、バックスは火達磨に……ならない。
ほう、なんと火炎耐性持ちだったか。用心はしておくものだな。
次にゼクトの手から放たれたのは、極凍結矢。突如空中に出現した七本の氷の矢が、バックスの身体を突き刺し、全身が凍り……つかない。
なに? 凍結耐性持ちでもあったか。恐るべきヤツよ。なら、これはどうだ。
右手、左手と順に魔法を打ち出したその次は、ゼクトが両手で放つ、空裂雷槍。ゼクトの両手の間で眩しい火花がはじけ、そこから飛び出した稲妻は、バックスを貫いてその身体をズタボロに……しない。
ま、待て!? なんだこれは! もしかして、全魔法耐性なの、コイツ!?
いや、慌てるな。魔法が効かないなら、直接攻撃で仕留めればよいではないか。鍛え上げられし我が肉体は、むしろそれこそを望んでおる!
ゼクトは、右手を高く掲げた。取寄の魔法で、そこに特大戦斧が現れる。魔界の名工に作らせた、人間にはとても使えないサイズの斧だ。そんなデカブツを、肩と腕の筋肉がきしむほどの力で、眼前の女戦士の頭めがけて振り下ろす。
バックスにとって、それは極めて緩慢な動きだった。相手を攻撃するスピードではない。
この一振りの間に、ジオっちなら、天界と地上を三往復はできるんじゃないかな。
避けるのは容易い、けど、避けるほどでもない、か。
バックスは左手を上げ、飛んでるちょうちょでも捕まえるように、親指、人差し指、中指の三本の指で、斧刃を掴んで止めた。張り詰めた筋肉が全部弾け飛ぶのではないかというような衝撃が、ゼクトの腕、肩から体中に伝わる。
はあああ!? 受け止めた、だとぉっ!?
ゼクトは腕にビリビリと痺れを感じているのに、受け止めた女戦士のほうはてんで涼しい顔である。
そして、特大戦斧は、ゼクスが押しても引いても、もうその位置からまったく動かない。
バックスが、斧刃を掴んだ左手を少しだけ外側にずらすと、戦斧でさえぎられていた二人の目が合った。
「おい、こら、なんのつもりだ? 悪魔がここに、なにしに来た?」
バックスは、旅先でちょっと親戚に会った、くらいの口調である。
悪魔に対する正義の怒りとか、突然攻撃されたことに対する憤り、なんて感情は微塵も感じられない。
ここにきて、ゼクトは、はっきりと理解した。
コイツは、英雄クラスなんて生易しいもんじゃない。もっと恐ろしいなにかだ。
頭の中では、この究極のピンチからどう逃れるかを、すでに考え始めていた。
ゼクトは、賢明な魔王である。
ただ、どうしようもなく運が悪かった。
魔王の感じている恐ろしさ、いかがだったでしょうか。次回、もっと恐ろしくなる予定です。
途切れることなくモチベーションが続いていたら書きますね。たぶんね。