知らずにいれば幸せだけど、知ってしまえば死あるのみ。
はい、第12回。
本当は「もっと真面目にやれ!」とお叱りを受けるくらいふざけた話にしたかったのだけど、なんか頭の中で物語がコロコロと転がり続けて、こうなっちゃいました。
ふざけるのって、実は難しいのですね。
バックスは、担いでいた大剣を、手放しても倒れないよう、地面に突き刺した。
そして、混乱の坩堝にあるカルカの前に歩み寄る。
カルカは、恐るべき巨人が、一歩一歩、地を震わせながら迫りくるように感じられた。もちろん、実際はそんなわけないのだが。
「カルカ、すまんが協力してくれ。時間があまりないんだ。」
「あああ、あの、協力というと、それは、その……」
まさかとは思うが、そのまさかだったらと思うと。カルカは考えがまとまらない。
バックスの表情は、とりたてて深刻な様子でもなく、いつもの何も考えていないような顔にも見えるが、だからこそ、感情が読めなくて逆に怖くもある。
迫力に圧され、じりじりと後ずさりしていたカルカの背中が、天使宮の外壁に触れた。
バックスの左手が、カルカの右耳の横を切って、背後の壁にドン、と突かれた。いわゆる「壁ドン」の状態である。そして、バックスの右手は、カルカ左の頬を撫でるかのように移動し、人差し指と中指で、カルカの顎を下から支える。
頬に触れるかと思われたバックスの長い指が、カルカの混乱した頭には、やけに美しく見えた。
バックスが、カルカの顎に添えた指にほんの少しだけ力を入れる。それに従ってカルカが顔をあげると、そこにはバックスの、左の耳からうなじにかけてのラインが見えた。バックスは、後ろを向いていた。
「そういや、案内役が降りてきたとして、端末もない俺にも見えるのか?」
「案内役は、人に直接触れねば魂を取り出せないのである。人界に降りてくるから、瞳の力が失われていないのなら、ヌシにも見えるはずである。」
「あ、そうなんだ。わかった。」
バックスがずっとよそを向いていたので、カルカは拍子抜けしたというか、少しだけ冷静になれた。
大剣レイテストとの会話を終えたバックスが首を戻すと、今度こそカルカと向き合う形になる。
「心配するな、カルカ。天使バクスシーヌ・エスオブトの名において約束する。悪いようにはしない。」
バックスは、切れ長の目を細め、大きな口の、その口角を上げて、にかっと笑ってみせた。
そうだ、この笑顔だ。これが、なんというか、非常に、どうも、よろしくない。
その表情は、どんな暴力的な脅しよりも、カルカの心をきつく縛るのだ。
しかし、それは決して悪い気分ではなく、ともすれば、安堵感すらあった。
これも、天使の力、なのだろうか。
カルカの胸に渦巻いていた、不信感や恐怖感が消え去っていく。
今、目の前で、バックスが心配するなと言っている。だから、心配する必要はないのだ。
「は、はい、わかりました……それで、私は、どうしたらよいのでしょう?」
「そうだな、難しいことはない、ただ、俺の目を見てくれればいい。」
はあ、本当に簡単なことだ。そんなことでいいのなら。
こんな至近距離で女性と見つめあうのは、ちょっと照れるけど。
「それじゃ、三つ数えたら、行くからな。しっかり、歯を食いしばれよ、カルカ。」
待て待て待て! 今なんつった? 歯を食いしばれ、だと?
「一つ。」
カルカは、予想外の言葉に狼狽えた。そんな話は聞いていない。
「二つ。」
しかし、カウントはもう止められない。そういう重い響きがある。
「三つ、行くぞ!」
これはもう、なんだかわからんが、覚悟を決めるしかない!
カルカはがっちりと奥歯を噛みしめ、バックスの見開かれた瞳に、己の焦点を合わせる。
その赤い瞳は、最初、輝く紅玉のようだったが、次の瞬間には、燃え盛る炎のように赤い色が揺らめいた。その赤は、すぐに視界の全てを燃やし尽くすように広がっていく。
同時に、これまでの記憶と、まったく記憶にない体験までもが、次々と眼前に蘇る。
今しがたのバックスの顔、西側に飛ばされるときに見ていた光景、材木小屋の煙突の中、稲妻に撃たれて死ぬ瞬間、大きく傾いた世界、世界の異変について話すバックス、空に走る無数の稲妻、大きく傾いた世界。
目の前に浮かびあがる記憶は、どんどん過去にさかのぼっていく。しかし、どの記憶も、まるでその当時に戻ったかのように鮮明なのである。
バックスと初めて会ったあの夜、新設天使宮の完成祝い、神官学校の卒業式、いつもつるんでいた悪友との馬鹿話、ひそかに恋焦がれていた二年上の先輩、神官学校の入学が決まった日の父の歓声。
過去に戻るにつれ、時をさかのぼる速さは増していく。
十四歳、些細なことで父親と大喧嘩した夜。十二歳、近所の友人と度胸試しで侵入した廃墟。十歳、母親を喜ばせるようと、初めて一人で作った料理。七歳、川遊びで深みに嵌り、ひどく水を飲むことになったあの日。
一つ一つの記憶は一瞬で、次々と昔の記憶に変わっていくのに、なにもかもが今現在起きていることのようにはっきりとしている。無数の記憶の断片が、めまぐるしく現れ、変わり続ける。
五歳で高熱に浮かされ、三歳で初めて見る弟、一歳で聞いた母の子守唄、やがて一際まぶしい光が閃いて、真っ暗闇になって、鼓動の規則正しい音だけが響く。
心の奥底にあった、思い出すはずもない記憶までもが掘り起こされていた。
恐ろしい。そら恐ろしい。私は、何を見ているんだ。いったい、何をされているんだ。
記憶の奔流は、胎児の頃にまで到達していた。しかし、それでも終わらない。
続けて、他人の記憶が流れ込む。これは父の、いや母か。違う、その両方の記憶だ。
自分が生まれる前の両親、その二人が出会う前、さらにその二人が子供の頃、生まれる前。
世代をさかのぼり、流れ込む記憶の量はどんどん増加し、速度を増していく。
父と母の前の世代、さらに前の世代、そのまた前の世代へと、記憶の量は倍々に増えていき、多数の人間の記憶は、大きな歴史のうねりとなる。
第三次魔王戦争、二神王の乱世、邪龍大災、魔術師革命、第一次、第二次魔王戦争、大天使の国境制定。
歴史の授業で学んだ出来事が、その時代を生きた多くの人間の記憶として、頭の中に氾濫していく。
もういい。もう見たくない。やめろ。やめてくれ!
人間の頭では到底処理できないであろう量の記憶が流れ込み、時を遡行していく。
それはついに記録されている最古の歴史をも越えて、創世の記に示された世界創造の瞬間に到達し――
*
少しだけ時間を戻す。ほんの少しだけ。
バックスが三つ数えて、大きく目を見開いたとき、カルカは、言われたとおり、その瞳を覗き込んだ。
それから、カルカは、一度たりとも瞬きをすることもなく、憑かれたかのようにただバックスの瞳を凝視した。瞳孔が開き、全身が震え、無意識に掴んだバックスの手首に血がにじむほど爪を食い込ませ、口はだらりと開き、左の鼻孔からはどろりと血液が流れ出し、あ、とか、かは、とか、ようやく聞こえるくらいの呻きが洩れる。それでもカルカは、バックスの瞳から目を逸らさない。逸らせない。
これが、バックスが三つ数えた後に、さらに五つほど数えたくらいの間に起こったことだ。
最後に、カルカの身体がガクガクと一際大きく震え――痙攣と言うべきか――強張っていた全身から力が抜けた。そして、その膝が折れ、崩れ落ちる。ただ、カルカの左手だけは、バックスの右手首を強く握った状態で固まっていた。カルカの首がぐらりと傾き、大きく見開いたままの目に溜まっていたものが雫となって床に落ちる。
「う、ぐ……」
実のところ、バックスは、かなりショックを受けていた。何かをこらえてようやく出たのが、この声だった。
人の領域を超えた世界を見せるのだ、いくらかの衝撃は与えると予想していたが、ここまでとは。
「おい! おい、レイテスト! こんなになるなんて聞いてないぞ!」
じわりと瞳をぬらし、声を荒げるバックス。
「人が死ぬのだ、相応の苦痛は伴うに決まっておる。急を要する事態ゆえ、仕方ないのである。」
「それは! それはそうだけどよぅ……もっとやさしい方法なかったのかよ……」
バックスの手首を握り、だらりと垂れ下がっているカルカ。
爪の食い込んだ部分からはわずかに出血していたが、カルカが命を落とすまでに感じたであろう苦痛を考えれば、こんなものは痛みのうちではない。
バックスは、手首を握り締めるカルカの指の一本一本を丁寧に解き、これ以上カルカを傷つけることを恐れ、ゆっくりと慎重な動きでその身体を地面に横たえさせる。そして、見開かれたままのカルカの両目に手のひらを当て、そのまぶたを閉じた。
「バックスよ、じきに案内役が来るぞ。うっかりして取り逃せば、カルカ殿の苦労も水の泡である。備えるのである!」
「……ふん、わかってるよ。降りてきた天使と、きっちり話をつけなきゃだな。こんな風に人間を壊してそのままにしちゃ、天使の沽券に関わる。」
すっかり日が傾いてきた。青い空はやや暗くなり、そのうち薄赤く染まるだろう。
気配。はるか上空だ。雲のない空に、針で突いて穴を開けたような、黒い点が見える。
それは見る見るうちに大きくなり、巨大な鎌を担いだ、背に大きな翼を持つ女であることがわかった。おそらく、この地上では、バックスだけが。
それは、天使の姿は天使にしか見えないと言うこともあるが、もう一つ理由がある。
例えば、これを普通の人間が見ることができたとして、「何かが飛んできた」とは認識できないだろう、ということなのだ。ふと気がついたら目の前にいる、そんな並外れた速度なのである。
そんな速さにも関わらず、彼女は勢いで地面に衝突するようなことはない。地表すれすれでしっかり身体を反転させ、地面から拳一つほど足を浮かせた状態でピタリと静止する。
彼女にしてみれば、それはごく当たり前の、普段どおりの所作だった。
しかし、頭上に白い光を放つ円盤が浮いた彼女の表情は、なんとも冴えない。はあ、と溜め息まで洩らす始末である。
なんか、随分テンション低いなぁ。大丈夫かな?
バックスは、ちょっとだけ心配した。彼女のこの様子が、自分のせいだとも知らずに。
わが精神がいまだにそれを所望するのなら、続きを書くと思います。
なーんちって。