あの日
樹海に紛れ込んだような空気が試験会場には立ち込めていた。
皆それぞれ赤本を開く者、自作ノートを広げる者と様々である。
そんな人たちをよそに、10時の集合時間の10分前に会場に飛び込むやいなや
冷たい視線を浴びた中川悟は、受験番号を確認し席に着いた。
隣は浪人生であろうか、私服だ。
「やべ、ノート見る時間ない・・・」と心中で呟く。
「それでは、参考書等を閉じて下さい。」
試験官の声が響き渡る。そして諸注意等を述べ始めた。
隣の女子がノートを鞄に仕舞うとき、ふわっとよい香りがした。
一瞬だけここが試験会場だということを忘れられた。
問題冊子が配られたとき、現実に引き戻された・・・。
兄から貰った時計を確認し、深呼吸をし、そのときをまつ。
「始めてください!」
皆一斉に問題冊子を開き、カリカリとシャーペンの音のみが響く。
あっという間に時間は過ぎ・・・
「やめて下さい!」
(やっと終わった、これで帰れる!!)
そして帰り支度を終え、外の空気を身にまとった。
帰路についた中川は、電車に乗るために駅へ歩みを進める。
受験を終えた受験生でごった返す電車の中は苦痛でしかなかった。
「人多いわ-、疲れたし。」
「ほんまよな、勘弁してほしいわ。」
隣に立っている男二人の会話を耳で捉える。
まもなく最寄りの笠駅に着いた。ここら辺では大きな駅であるため、受験を終えて開放感に浸っている受験生の殆どはここで降りた。
近くにはショッピングモールがあり、中川の大好きなマックもある。
一人でマックに立ち寄った中川はお持ち帰りではなく、店内で食べることを選んだ。
理由・・・特になし。
コーラ片手にマックナゲットを口にほおばる。
ふとレジを見る。またマックナゲットに視線を移す。
(いや、待てよ。あの子はどこかで見た気がする・・・)
「ああ!」
周りにも聞こえるような声を上げてしまったため、何時間前と同じような冷たい視線を浴びる。
当然、その子もこちらを向き、いぶかしむ目で自分を見ていた。気がする。
しかし、その子は受け取ったマックの袋を提げ、店を出て行った。
あっという間にポテトをたいらげ、自分も店を出た。
ふと視線を真っ直ぐにすると、またもあの子がいるではないか。
何をしているのか分からなかったが、生まれてこの方人見知りの中川は未だに声をかけられずにいた。
「ねえ、君!さっき隣だったよね?」
まさか声をかけられるとは想像もしていなかった中川は、はっと驚いた。
喉からしぼり出すように、
「はい、そうですよ。奇遇ですね。」
なんとも堅苦しい言い回しだと我ながら理解していながら、口から出てしまっていた。
「バス停まで送ってよ。」
「え、何ですか?」
「だから、バス停まで送ってよ!」
「あ・・・分かりました!」
こんな感じの会話だった。かもしれない。
「まだ、名前聞いてないよね。私は、桜井。桜井香奈。君は?」
「あ、僕は中川悟といいます。」
「なんで敬語なん?」
「私服だから、先輩かなと思いまして・・・」
「違うよ、間違えて、私服で来たんだよー。」くしゃりと崩れた笑顔を見せた。
そう言いながら、二人は駅の灯を背に受けながらバス停に到着した。
彼女が歩くたび、あのいい香りが彼の鼻をくすぐった。
「ありがとね!今日はお疲れ様、ばいばい。」
「こちらこそ、お疲れ様でした。おやすみなさい。」
そう言って、二人は別れた。
(あ!連絡先聞くのを忘れた・・・。)
そう気づいた時には、21時を回っていた。
自転車で約7分のところにある家に着いた。
色々なことがありすぎて、家に着き心が落ち着いた。
「ただいまー」だらけた声をあげる。
「おかえりなさい」と姉の声が聞こえた。
「おかえり、どうだった?」と今度は母の声だ。
「まあまあかな、全力は尽くせたよ。」
「そうかい、それはよかったね。母さん、あんたの受験が終わったから、赤飯炊いたよ。」
「赤飯?まだ受かったわけじゃないじゃん」疲れているため、少し冷たい言い方になってしまった。
「そうだけど、お姉ちゃんのときもそうしたのだよ。所謂・・」
「験担ぎってことでしょ」母の言葉を奪った。
「そうそう、まあいいじゃない。食べて、ゆっくり休みなさい。」
マックで食事を済ませたものの、樹海のような試験会場からそして受験から解放されて
心にゆとりができているのか、お腹が空いているのを感じた。
服を着替えていると、姉が、
「お疲れ、はい、ご飯用意したから食べな。」
「うん、ありがとう。」
姉は、自分より三つ上だ。大学三回生である姉は、就活で忙しいようだ。
悟が受けた大学に通っている。里香は就活、自分は受験。この家庭にはあまり会話がなかった。
父は、悟が4歳のときに交通事故で亡くなった。里香は7歳。二人ともうまく事を把握できていなかったが、夜な夜な泣いている母(幸恵)や母に寄り添う祖母をみて、
良くない事態だということだけは分かっていた。
母子家庭は、現代では珍しくないのだが、保守的な考えをもつこの界隈の人たちからは、
我々がかわいそうに思えたのか、いらぬ同情があったらしい。
それでも、母は、女で一人、子供二人を育ててくれた。
里香は、そんな母を気遣ってか、高校入学と同時にバイトを始め、金銭面で家庭を救ってくれた。それでも彼女は勉強も怠らず、常に学年トップを走り続け今に至っている・・・。
と、まあ、赤飯を食べながら感傷に浸っている自分がなんとも滑稽で、自分自身を嘲笑した。
食事を終え、入浴も終えた。ようやく自分の部屋に入り、ベッドに体を投げた。
いつものなら、小説を読んで寝るのだが、やはり疲れていたのか、桜井香奈もことを思い出す暇もなく眠りについた。