願わくば、桜の下で
外は桜が満開であった。
窓から緩く舞い込む風に、桃色の花弁をそえる。
窓際の席の依子は、ページの上にはらりと落ちた花弁をそっとつまむと窓の外を見やる。
始業までまだ1時間くらいあるので、教室には人影がない。
やさしい朝の光景に、依子はそっとほほえんだ。
依子は今年の春33歳になった。
短大を出て、飲食店に勤務している。
もともと社交的ではないし、要領はかなり悪い方だったので、気がつけば面倒な仕事をどんどん押し付けられて、毎日が早番、毎日が遅番。休日出勤は当たり前な生活を送っていた。
その日も仕事が終わったのは夜中の1時半で、それから1時間車を運転していつもどうり帰宅するはずだった。
「もうそろそろ桜が咲いてるんじゃない?」
厨房で片付けをしていると、休憩室から先に上がったパートのおばさんたちの明るい声が聞こえてきた。
そうか、もうそんな時期なのか。社会人になってから、季節感がまるで感じられなくなった気がする。
朝が来て昼が来て夜が来る早さで、春が来て夏が来て秋が来て冬になるようだ。体感の一年がやたらと早い。
そうだ、今日帰りにちょっと高校に寄ろう。
依子はふっと思い立った。
体は鉛のように疲れているが、我ながら良いことを思い付いた、と心はすこし浮き立つ。
依子の卒業した高校はやたらと桜の木が植えてあり、中には樹齢100年か!と思うほどの雰囲気のある大木もある。
もし咲いていればお花見ができるかもしれない。
帰りにコンビニに寄って、イチゴクレープとオレンジジュースを買う。
本当は和菓子とお茶の方が雰囲気は有るのだろうが、以前読んだ漫画に出てきたこのセットが印象的で、以来何かにつけてイチゴクレープとオレンジジュースを買うようになった。
はたして桜は咲いていた。
校舎の裏側に車を寄せて桜の木に近づく。
おばさんたちの話ではまだ咲き始ではないかということだったが、十分咲き誇って見える。
夜の2時なのでまわりには人影もなく、その空間全てが依子のものであった。
街灯に照らされ、夜の紺に浮かび上がる薄いピンクの対比が心を締め付ける。
「なぜ....」
依子の口からため息のように言葉がこぼれ落ちる。
と同時に関を切ったようにはらはらと涙が溢れた。
なぜ美しいと、感じないのだろう。
働き始めて数年は花見もしていた。
人一倍感動しやすい依子はよく心奪われて一日中見入っていたものだ。
だが今、変わらず美しくある桜を前に全く心が動かない。
そして、気づいてしまった。
忙しさのなかに、大切なものを忘れてきてしまったことに。
あんなに、あんなに、あんなに美しさに心を締め付けられていたのに、今は心を無くしたことに締め付けられて、胸が苦しい。
どのくらいそうしていたのか、頬をなでる少し寒い春の風に校舎の方を見た。
校舎沿いにも等間隔でやや小振りな桜が植わっている。
依子は苗字が「足立」だったので、年度の始めは必ず窓際の席であった。
朝の誰もいない空気のなかで桜を見るのが好きで、咲いているときは必ず早起きをして学校へ行っていた。
「大人になると10代の時の気持ちが分からなくなるって言うでしょ?私、絶対この気持ちを忘れないようにするんだ。」
得意気に友人に語っていた自分の記憶がよみがえった。私はいったい、何をしているんだろう。
依子はじっと足元を見つめた。
毎日毎日、「お客様の幸せ作りのために」と言わされながら、その実は社長や部下の為に身を粉にして働いて働いて....気がつけば趣味を全て手放し、休日は寝て過ごすだけの33才になって。
高校生の私は、今の自分を見たらなんと言うだろう。
私、今生きてるって言えるのかな。
変えよう。
グッと拳を握りしめて顔を上げる。
幸いと言うべきか、私は結婚していないし子供もいない。
もう30も越えた。
怖いものなんて、何もないんじゃないか。
皆、何とか生きてる。
私も、もっと私のために生きてもいいんじゃないか。
別にそんなに大それた物を望んでいるわけではない。
ただ、春には花見をしたいだけだ。
夏になったら海にいって、お祭りにも行こう。
秋になったらお月見もしよう。
冬には温かいココアを淹れて本を読もう。
そんなささやかで、大切な時間を過ごそう。
仕事や生活を変えるのはそう簡単なことではないかもしれない。でも、心を決めてしまえば、それは不可能なことではないと感じられた。
ふわりと風に花びらが舞う。
セーラー服の自分が微笑んだ気がした。
彼女からの祝福を受けたようで、依子はふっと微笑んだ。
初小説書いてみました。
とにかく完成させてみたい、という一心で書きましたので、ずいぶん短いストーリーになりました。
今、心臓バクバクです。
ご意見頂けたら嬉しいです。