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向日葵の海で

作者: 霧咲悠

 どこまでも広がる、一面黄色の絨毯。

 澄んだ青空に、ふわふわとした綿雲。

 心地良いそよ風が甘い香りを運び、向日葵の絨毯をそっと撫でた。

 穏やかな日差しが向日葵を上向かせている。その向こうで、同じように空を仰ぎ一人佇んでいる少女が目に映った。

 それが、俺が彼女を初めて目にした瞬間だ。……そして今ではもう見ることの叶わない光景でもある。


   1


 俺は小学生の頃の夏休み、祖父の家へ泊まりに行った事がある。

 そこは小高い丘の上に建っており、二階の部屋からは周囲のすべてを見渡せた。

 窓から見えるその景色を、幼かった俺はかなり気に入っていて、祖父の家に来る度に二階へ駆け上っては部屋の窓枠を掴み、遠く広がる自然に感嘆の声を漏らしたものだ。

 家の裏手にある山は季節ごとに表情を変える。春は綺麗な桜色に、夏は若々しい緑色に、秋は燃えるような赤色で、冬は全て枯れ落ち荒涼とした山肌を晒す。それはこちらへ来る度に、俺の目を楽しませてくれた。

 しかし、俺はそれよりも好きな景色を知っていた。

 その山の麓、ここから林を抜けた先にある一面の向日葵畑。黄色に輝く花はとても眩しく、向日葵達の溢れんばかりの生命力が遠目にも伝わってくる。

 ここへ来た初めの頃は、だだっ広い自然の中にいて何が楽しいのだろうかと、都会から親に連れて来られた俺は憮然としていたのだが、いつかの夏休みにこの向日葵畑を見てからは心奪われ、毎年夏に祖父の家へ来ては、二階の窓から向日葵を眺める事を密かな楽しみとしていた。

 そしてその年はいつもと違い、祖父の家に何日か泊まる事になっていた。

 重い荷物を背負って一人でやってきた俺は、着いた途端疲れも忘れ、一目散に二階へ走った。そしていつもの様に窓から身を乗り出し、爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込みながら、眼下に広がる向日葵畑を見下ろした。

 ふと違和感を感じる。別に向日葵に変わりは無く、その向こう側に見える山も手前の林も、おかしなところは何もない。

 じっと目を凝らし、その原因を見つけた。

 背の高い向日葵。ゆらゆらと風にそよぐその中で、人影を見つけた。

 それを見つけた俺は、子供ながらの行動力で家を飛び出し、向日葵畑を目指して走った。

 玄関を通るとき祖父に声をかけられたが、適当に二言三言返し、頭の中ではちらりと見えた人影について思い巡らせていた。

 まず年齢。あの向日葵の背は確かに高いが、だからといって大人があの中ですっぽりと隠れるだろうか。せいぜい自分と同じかその前後だろう。

 ……しかしそれ以外に分かる事は、何も無かった。いやそれすらも、遠くから見た自分の勝手な推測でしかないのだ。とにかく直接この目で見てみたいという思いが、さらに膨れ上がる。

 それが単純な好奇心から来る気持ちか、もしくは自分だけの景色の中へ突如入り込んだ事に対して、文句を言いたかったのかは分からない。

 ただ、足はずっと動いていた。林を抜け、向日葵の鮮やかな黄色を視界に捉える。

 思わず立ち止まり、つんのめって転びそうになってしまう。

 窓から見ていたのよりずっと綺麗だった。花はみんな空を見上げ、一身にその光を受けとめようとしている。

 しばらくそれを眺めると、向日葵の中へと分け入った。頭上で花弁が慌しく揺れる。

 やがてその人へと辿り着いた。――俺と同じくらいの、少女だった。

 周囲の向日葵と同じように空を見上げていた彼女は、突然現れた俺に気づいたのか視線を下ろしてこちらを見つめる。

「だれ?」

「あ……その」

 彼女と向き合った俺は、その姿に釘付けとなった。

 くりっとした丸い瞳に、綺麗な肌。唇はやや薄いが艶っぽく、すっと結ばれている。そして白いワンピースに、つばの広い白い帽子。対照的に真っ黒な髪の毛は肩まで伸びていて、太陽の光を反射してきらきらと光っている。いや、俺は今この場において、彼女こそが太陽のように感じられた。

 向日葵達よ、どうした、太陽はここにいるじゃないか! 何故上ばかり見ているんだ?

 呆然と立ち尽くす俺を、彼女は無垢なその顔に疑問を乗せてじっと見つめていた。再び声をかけられて我に返る。

「あの、あなたは? 名前、なんていうの?」

「……あっ、僕は亮輔だよ」

「りょうすけ君?」

「うん、そうだよ。君はなんていうの?」

「私は……」

 言いかけて、考え込むように目の前の少女は俯いた。

「……分かんないや」

「えっ?」

 分からないとは、一体どういう事なのか。もしかして記憶喪失ってやつか?

「私ね、誰からも名前を呼んでもらった事がないんだ」

「……どういうこと?」

「そのまんまだよ。お父さんもお母さんも、私の事名前で呼んでくれないの」

「じゃあ、いつもはどうしてるの?」

「いつも? ……『いらない子』とか『邪魔者』って言われてるよ」

 それを聞いた俺の胸は、締め付けられるように痛んだ。同情か哀れみか、なんにせよ彼女の境遇を考えると、悲しみが喉元まで這い上がってくるような感覚があった。

「いつもいつもそう言われるから、もしかしたらそれが私の名前なのかも。……そんなこと、無いと思いたいけど」

 そう呟く彼女は、寂しそうに地面を見つめた。髪の毛に隠れて詳しくは分からないが、きっとその瞳は今にも泣き出しそうなのだろう。彼女は初めて目にした時の輝きを失い、今のその姿は日陰で頭を垂れる花のようだった。

「そ、それよりさ。君はここで何をしてたの? いつもここで遊んでるの?」

 あまりに痛ましいその姿を見ていたくなくて、俺は無理やりに話題を変えようとした。

 俺の言葉に彼女は顔を上げ、嬉しそうな笑顔を作る。しかしその目は未だ悲しみの色を帯びていて、俺は彼女に心の底から笑って欲しいと思った。

「私はね、この前ここを見つけてから、ここでいつも遊んでるの。あ、遊ぶっていっても何もしてないけどね。嫌な事とかも、ここでぼーっとしていると全部忘れられるんだよ」

 そう言う彼女の手には、小さな向日葵が握られていた。他の向日葵と比べて一回り小さいが、俺達にとってはちょうど良い大きさだった。

「あ、これはその、可愛いなって思ったからつい摘んじゃって……。あの、ごめんなさい」

 彼女は俺の視線に気付いたのか、手に持った向日葵を背後へ隠しながら、消え入りそうな声で申し訳なさそうに謝った。

「いや違うよ、謝らないで。別にここウチの庭とかじゃないし! そ、それよりここの向日葵って綺麗だよね、僕も一本取っていいかな?」

 責めるつもりはまったく無かったのだが、彼女にはそう感じてしまったらしい。俺は慌てて弁解し、手近にあった小さめの向日葵をぷちっと抜き取った。美しいこの景色を自分の手で壊す事に多少の罪悪感はあったが、今はそれよりも目の前の少女を優先していた。

「ほら、これでお揃いだよ?」

「……うん!」

 彼女の表情がぱあっと明るくなった。不覚にもそれに見惚れてしまった俺は、気まずげに視線を逸らした。

 そして俺は、日が暮れるまで名前も知らない女の子と遊んだ。

 向日葵に囲まれ、太陽のような彼女と、ただ一緒に話をしただけだったが、それでも不思議と退屈はしなかった。

 やがて空が暗くなり始めると、俺は祖父が家で待っている事を思い出した。

「あ、僕そろそろ帰るよ」

「え……もう帰っちゃうの?」

 まだ遊び足りない、と言わんばかりに彼女が引き止める。その寂しそうな声に思わず首を横に振りそうになったが、何とか堪えた。その代わり、彼女へ問いかける。

「君は明日もここに来るの?」

「来るけど……どうして?」

 遊び足りないのは俺も同じだった。俺はそのまま言葉を続ける。

「もし良かったらさ……明日も一緒に遊ばない?」

「明日も来てくれるの?」

「うん。君が良ければ、だけど」

「やったあっ!」

 頷くと、彼女は飛び上がって喜んだ。そんなに嬉しかったのだろうか。少々驚きはしたが、彼女に喜んで貰えて俺も悪い気はしなかった。

「それじゃあ私、お母さんに私の名前聞いてくるよ!」

「名前を?」

 その言葉を聞いて、俺は悲しげな彼女の表情を思い出す。……大丈夫なのだろうか。

「うん! じゃあまた明日、りょうすけ君!」

「……うん、また明日」

 彼女に手を振りながら、まだ名前を呼べないことがもどかしかった。


 次の日、俺は目が覚めるとすぐに出かける準備をした。

「亮輔。またどこか行くのか」

 荷物を持ってリビングに出ると、祖父が声をかけてきた。

「うん、いってきまーす」

「……待ちなさい」

 そのまま通り過ぎようとしたところを、肩を掴んで止められる。

「どうしたの、おじいちゃん?」

「また昨日みたいに、遅くに帰ってくるんじゃないぞ」

「大丈夫だよ、僕ずっとあっちの向日葵の所にいるから」

「……やれやれ。そうだとしても、出来るだけ遅くならないようにな。それと、ちゃんと朝ごはんを食べてから行きなさい」

「……はーい」

 はやる気持ちを抑えつつ席に着く。俺は朝食をよく噛みもせずさっさと平らげて、再び荷物を手に取る。早く彼女に会いたかった。

 玄関で靴を履いていると、再び祖父が声をかけてきた。

「ほら亮輔、お昼にこれを持っていきなさい」

 そういって持たされたのはピクニックに行くようなカゴだった。中を確認すると、サンドイッチが入っていた。しかし、とても小学生一人が食べきれるような量ではない。

「おじいちゃん、僕こんなに食べられないけど……」

「友達と遊ぶんだろう? 一緒に食べておいで」

 そういう祖父の顔は面白そうに微笑んでいた。まさかばれていたとは思わなかった。

「そっか……ありがとう、おじいちゃん!」

「ああ、気をつけてな。いってらっしゃい」

 家を出て昨日と同じように林を抜ける。途中木の根につまずいてサンドイッチの入ったカゴを落っことしそうになり、足元を慎重に確認しながら進んだ。

 やがて視界が向日葵で埋まる。こうして見ると結構な広さの向日葵畑の中から、どうやって彼女を見つけ出そうか……。

「あっ、りょうすけ君!」

 声がした方を探すと、向日葵の向こう側で小さな手がぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

 足早に近づくと、ようやく彼女の姿が見えた。

「おはよう」

「おはよう! ……ん? それはなあに?」

「ああ、これはおもちゃと、お弁当だよ」

 そういって荷物を地面に下ろす。中には俺が祖父の家まで持ってきた玩具がいくつか入っている。

「これとかさ、どうかな……」

 そう言って車のラジコンを手に取った俺は、彼女の顔を見て――その額にある、真新しい痣に気がついた。

「ねえ、その怪我どうしたの?」

「あっ、これ? ……えへへ、お母さんに私の名前聞こうとしたらぶたれちゃった。でもねでもね、ちゃんと私、名前聞いて来たんだよ!」

 彼女は笑いながら、手に持っていた紙を開いた。そこにはさっさと書きなぐったような文字で『亜理紗』と書かれていた。

「……なんて読むの?」

「ありさ、って言うんだって。改めてよろしくね、りょうすけ君!」

「うん。よろしく、ありさちゃん」

 そして彼女――亜理紗は太陽のような笑みを見せてくれた。俺も一緒になって笑った。

 しかし……やはり、自分の名前すらも分からなかったなんておかしい。いくら子供だったといえ、その時は流石に俺も彼女の事を案じていた。

 一体、亜理紗はどのような環境におかれているのか。一緒に遊び笑いあっている時も、互いにサンドイッチを齧っている時も、そして日が暮れて再び会う約束をした時も、その疑問は俺の頭の中で黒く燻り続けていた。


   2


 亜理紗と出会ってから数年が過ぎた。

 俺は中学生となり、その年の冬には高校受験を控えていた。俺と同い年だった亜理紗も、俺と同じく受験生だろう。

 あれからも、俺達は何度も一緒に会っていた。

 俺は夏休みが終わり両親の元へ戻ってからも、亜理紗の事を考えていた。そして長い休みがあれば祖父の家に行き、あの向日葵畑へと足を運んだ。

 しかし、そこで彼女が姿を見せる事はなかった。

 それを寂しく思いながら年が明け、次の夏休みに向日葵畑に行くと、亜理紗はまたそこに佇んでいた。一年越しの再会に俺が尋ねると、どうやら彼女は夏の間だけここに来ているらしい。それからは、夏休みになるとあの向日葵畑で亜理紗と会うようになった。

 そして今ではもう二人とも十五歳。二人の仲も近づき、親友のような関係になれた……と俺は勝手に思っている。亜理紗も俺に、家族に対する愚痴などを話してくれるようになった。

 今年の夏も彼女に会う為に、祖父の家へと泊まりに行った。もはやこれも恒例行事となっていて、その度に祖父は意地悪く笑みを浮かべ「頑張れよ」などと茶化すのである。

「――……。――……」

 そしてある日、いつもと同じく向日葵畑で二人並んで座っていると、亜理紗が何かの鼻歌を歌っていた。

「リサ、それ何の歌?」

「え?」

「いや、今何か歌ってただろ?」

「わっ、もしかして私口ずさんでた?」

「そりゃもう、随分と楽しげに」

「わ、忘れてっ! うう、恥ずかしいな……」

 そう言って顔を赤らめると、亜理紗は俯いた。そんなに恥ずかしい事なのだろうか? 俺は彼女の頭をぽんぽんと撫でながらもう一度聞く。子供の時は持て余していた白い帽子も、今では丁度良いようだ。そういえばこれは、彼女の母が始めて買い与えてくれた物だと言っていたな。

「……無意識に歌ってるなんて、そんなに好きな歌なのか?」

「その……この前お母さんがね、私にオルゴールを買ってくれたんだ。それからもう、毎日ずっと聞いてるの」

「へえ……良かったじゃないか」

 亜理紗とその両親の関係は、徐々にだが良くなっていっているようだった。今でこそ普通の関係になりつつあるが、昔は結構酷かったらしい。

 親から一切愛情を注がれないだけではなく、理由も無く夕飯を抜かれたり、家から追い出されたりなど、それはもう散々な扱いを受けて、出会ってから何度目かの夏には、会った途端突然泣き付かれたりなどして、俺も困惑した記憶がある。

 それからだろうか。亜理紗から愚痴を聞き、相談に乗って慰める。そんな事を繰り返している内に、俺は段々と彼女へ恋心を抱くようになっていった。だが、まだ思いは伝えていない。この向日葵畑での穏やかな時間を、壊したくなかったから。

「そういえばリョウは、高校はどうするの?」

 不意に、亜理紗がそんな事を聞いてきた。

「さあなー。特にやりたいこともないし、とりあえずウチの近くにある所にするかも」

「そっか……。私はね、今度家族で遠くの方へ引っ越す事になったの。だから通う学校もそっちの方なんだ」

「……えっ!?」

 予想もしなかった言葉に、彼女の顔を凝視する。

「引っ越すって、一体どこに……」

 俺の問いかけに、亜理紗は聞きなれない土地の名を口にした。続く説明で、それがかなり遠い地方なのだと知る。

「で、でも、夏にはこっちに来られるんだろ?」

「それもできないの。たぶんもう、あっちでずっと過ごす事になると思う」

 彼女が行く所への距離を考えれば、それは当たり前だろう。ただ、突然過ぎて頭が追いつかない。二度と亜理紗と会えなくなる? 冗談じゃない。

「じゃあ俺が会いに行く! それなら問題ない!」

 無茶苦茶だった。何故、と問われれば俺は返す言葉を失っただろう。彼女と俺は夏にこの向日葵畑で会うだけの間柄だ。それはどれだけ仲が良かろうと、変わらなかった。それにそこまでして彼女に会って、何がしたい? 思いを伝えるとでも? 自分の考えすら纏まらず、とにかく後先考えずに思ったことを吐き出した。ただ彼女と離れる事が怖かった。

「ごめんね。私も、リョウと会えなくなるのは嫌だよ。でも……ごめんね」

 謝らないでくれ。その言葉が出掛かって、言わずに飲み下した。

 何をやっているんだ、馬鹿野郎。自分本位で、彼女の事を考えず、駄々っ子のように喚き散らして。

 服が汚れるのも構わず、仰向けに寝転がった。空を雲が流れている。

 ふと、亜理紗が今すぐいなくなってしまうような気がした。慌てて手を伸ばすと、彼女の腕に触れた。そのまま掴む。

「どうしたの、リョウ?」

 目を閉じて大きく息を吸い込んだ。太陽の光が瞼を通して目の前を白く染める。もう一度深呼吸をするとやっと冷静になれた。亜理紗は何も言わずにじっとしていた。俺は起き上がると、掴んだままだった腕を引っ張った。

「え、わっ?」

 多少強引に亜理紗を抱き寄せると、その髪に顔をうずめた。

「……」

 彼女の匂いを胸一杯に吸い込み、二度と忘れないように抱きしめた。

 やがて体を離し、亜理紗の瞳をまっすぐに見つめる。

「なあリサ。もしまた会うことができたら、その時は俺の話を聞いてくれないか? ……聞くだけで、良いから」

「……うん、分かった。覚えておくね。それと、リョウは明日帰るんでしょう? もう一度朝、会えないかな」

「大丈夫だけど……なんで?」

「渡したいものがあるの」

 そう言って彼女は笑った。


 翌朝。俺は目が覚めると外へ出た。向日葵畑で彼女を待つために。

「……おはよう、リサ」

「うん、おはよう」

 俺が向日葵畑に着いてすぐに亜理紗は現れた。後ろ手に何かを隠しながら。

「それじゃあ早速、渡すね」

 そして前に出された手に持っていたのは、四角い箱だった。

「これは?」

「開けてみると分かるよ」

 俺はそれを受け取り、蓋を開いた。――その途端、優しげなメロディーが響き渡る。

「……どうして」

 それは昨日、彼女が口ずさんでいた歌と同じだった。

「リョウに……亮輔に持っていて欲しいから。そのオルゴール、次に会う時まで持っててね? 絶対に失くしちゃ駄目だよ」

「うん、分かった」

 絶対に失くすものか。俺は確信をこめて頷いた。

「その……わ、私だと思って、大切にしてよね?」

 恥じらい頬を赤く染めながら言うその姿に、心臓が一瞬高鳴った。そうだ、初めて彼女を見た時と同じだ。向日葵に囲まれた彼女は、とても綺麗だった。

「ああ。リサと同じように、毎日聞くよ」

「そ、そう……」

 亜理紗はとうとう帽子のつばで顔を隠してしまった。俺はそれを笑いながら抱き寄せる。彼女は驚きの表情を浮かべ、俺を見上げた。

「……じゃあね、亜理紗。俺もう行かなくちゃいけないから」

 一度強く力を込めると、すっと肩を離した。……最後に、目が合った。

「またいつか」

「うん、また会おうね!」

 そうして俺は、向日葵畑を後にした。風に揺られて立ち並ぶ向日葵達は、亜理紗に背を向けて歩く俺を見送っているようにも、引きとめているようにも思えた。


   3


 懐かしい思い出に浸っていた俺は記憶の海から浮かび上がると、窓枠に乗せていた腕をそっと離した。

 たぶんここに来るのはもう、今年で最後だろうなあ。一階ではおそらく、親戚達が慌しく祖父の遺品を整理しているのだろう。ばたばたと足音が行き交っているのが分かる。

 俺は深いため息をつきながら、再び視線を遠くの景色へと戻した。

「ここから見える光景は、残してくれないんだな、じいさん……」

 祖父が亡くなって、この家は取り壊されてしまう事になった。できる事なら俺が住んでしまいたかったが、まだ大学を卒業していない身としてそれは難しかった。

 何度目かのため息。これが最期といわんばかりに、窓から見える景色を目に焼き付ける。

 先程思い出した事が頭の中でぐるぐると回っている。それにつられて向日葵畑に目を落とす。

 黄色い絨毯の、その中に白い小さな点が見えた。

「……!」

 驚き、そして焦る。急いでバッグに飛びつき、丁度持ってきていた箱を取り出すと、すぐさま階段を駆け下りた。

 急げ、急げ。早くしろ!

 一心不乱に駆けた。呼吸が乱れ、木の根に足をとられそうになりながら林を抜ける。甘い香り。向日葵畑が近づいてきた。

 ぜえぜえと喘ぎながら膝に手をついた。ぽたぽたと顎から滴る汗を拭い、顔を上げる。

 ……まだあの帽子、被っていたんだな。

 成長しさらに美しくなった彼女は、あの日と同じようにそこで佇んでいた。

 俺はオルゴールの蓋に手をかけると、そっと開いた。今となっては聞きなれたメロディーが、俺と彼女の間を流れていく。

 聞こえてくる音に気付いたのか、視線を空から外した。

 ――太陽が、こちらを向いた。

「あ……」

「よう」

 軽く片手を上げて声をかけると、亜理紗は俺に向かって勢い良く飛びついてきた。

「……ただいまっ!」

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