蝶蝶
眠たいのに眠れないというのは、ある種の拷問みたいなものであり、連日の熱帯夜に快眠している奴の顔が見てみたい。そんなことを考えながら寝返り打つ。・・・あった。となりで眠る女房の顔。序に鼻先でもつまんでやりたい気持ちを抑え、俺、再度背中を向ける。
窓は開いているというのに、一向に風は踏み入ってはこない。思い出したように時折カーテンが揺れるのは、首振り扇風機が息を切らせているせいだ。
「ご苦労さん。お前も大変だな」と慰める。
その時、『カチッ!』と、俺の労いに答えるように動作をやめた首振り。
「どうした?」「どうしたんだ!?」
空気の流れが次第に凪に豹変。事態の深刻化を危惧しながら、四つん這いで忍び寄る。
「…なんだ。タイマーが切れただけなのね」
深まる夜の岩陰で、冴えわたる空っぽの頭を掻き毟りながら、俺は仕切りなおしに台所へ行き、タバコを吹かした。冷蔵庫の冷や水を取出し、嚥下する。夜の静寂に喉が鳴る。嗚呼~、ねぶたい、ねぶたい、と。
「こりゃ~、やっぱり拷問だわ」
寝床へ引き返し、何かの暗示でも読み取るように天井を睨む。
不意に何かが視界の隅で動いている事に気付いた。焦点が目的物を捉えるまでに、そう時間はかからない。凝視してみると、天井からぶら下がった電球の笠に蝶がいた。
羽は赤色に発光したかと思きや、緑色に。緑色に発光したかと思いきや、赤色に。その色は幾度も明滅を繰り返しながら仄かな光を放っている。
「・・・美しいなぁ。まるで心臓の鼓動に合わせて光を燈しているみたいだ」
俺は、蝶から視線を動かさずに、尚且つ女房を起こさぬようにゆっくりと身を起こした。そして蝶に向かって息を殺し、手を差し延べた。
思いの外、蝶は逃げることなく安易に手のひらに乗った。尚も、その色を羽に明滅させながら・・・。
それから、升酒の表面張力を崩さぬような慎重な足取り(蝶が逃げないように)で、窓際へ行き、カーテンの隙間から蝶を逃がしてやろうと考えた、その時だった。
「カタスギテ・アカナイ!モウチョット・モウチョット!!」と蝶蝶。いや、女房が寝言を吐いたのだ。
当然蝶は驚いて逃げた。正確には、ビクッ!とした俺に驚いて逃げた。
蝶はベランダを越え、向かいの通りの白い橋を渡り、やがて俺の視界から消えていった。
女房は依然、すやすやと、そこで寝入っている。
「かたすぎて開かない?」、「もうちょっと?」。俺、反芻。
窓際に立って、もう一度外を眺めてみた。
そこは、人影もなく、車の往来すら窺え知れぬ交差点。にも拘らず、その明滅をひたすら繰り返しながら、信号機がつっ立っているだけだった。
それから俺は、カーテンをしっかりと閉め、拷問に静かな終わりが来ることを祈りながら、目を閉じた。