桔梗
西日が私の頬を赤く染める。雨が上がって、蒸し暑い夏だった。長袖のブラウスが腕に張り付き、肌を薄く透かしている。青あざの透けた布を、時々指ではがしながら、川沿いの小高い道を、ひとり歩いている。そろそろ学校は終わる時間だろうか。家にはもう帰らない。帰りたくない。
今朝家を発ったとき、父親は缶ビールの海に沈んでいた。何事も無かったかのように眠っているが、私の体には、あざがいくつも増えている。
学校にも、もう行かない。クラスメイトは、時折こちらを見ながら何かひそひそと話している。机に落書き、ぼろぼろになった教科書。今日はいよいよ、内履きが無くなった。遠くから笑い声が聞こえる。談笑ではなく、嘲笑であった。「カワイソー」とせせら笑う声が聞こえたとき、私の中で何かが切れた。
なぜ私はわざわざこんな場所に、毎日毎日来ているのだろう。どうして自分から苦しい所に身を投じているのだろう。もはやここへ来る理由は無い。肩に掛けた汚い鞄をそこらへ放り、きびすを返して歩き出した。背後から、まだまだ笑い声が聞こえる。私はたまらなくなった。耳を塞ぎ、逃げるようにその場を去った。実際逃げたのだ。
机の上には、また落書きが増えていることだろう。
知らない町まで来た。自分の住んでいる場所と繋がっているはずなのに、なんだか違う、新鮮な空気。きゅう、と腹が鳴った。そういえば、朝から何も食べていない。遠くに、ファストフード店の看板が見えた。現在に至るまで一度も行ったことは無い。行きたい、と望みさえしなかった。環境のせいで、望む、という感情が壊死していたのだ。それでも今日は、不思議と欲が湧いた。それくらい、心が軽くなっていた。
ファストフード店は、夕方の微妙な時間だったので、ちらほらと人がまばらに座っているだけで、十分に空いていた。ポケットには、購買で昼食を買うための五百円玉が一枚。それとお釣りの硬貨が少々あるだけだった。一歩進むたびに、小銭が暴れてチャリチャリと音をたてている。初めてなので勝手が分からず、頭上の電光掲示板をしばらく眺めていた。
次々と表示されるメニューを見るに、どうやら「チキンバーガーセット」が、現在の所持金で注文できる限界のようだ。所持金は、小銭すべてを合わせて五百七十二円。チキンバーガーセットは五百五十円だ。とりあえず注文をしようと、レジに並んだ。
私の番が来た。人見知りの私は、うつむきながら小さな声で、
「チキンバーガーセットをひとつ」
と絞り出した。店員は無表情のままレジを操りつつ、投げやりな態度で、
「お飲み物は」
とだけ言った。飲み物。完全に失念していた。一瞬の沈黙——とは言っても私には非常に長く感じたが——の後、やはり小声で、
「オレンジジュースを」
と絞り出した。
代金を支払い、レシートと一緒にプラスチックの立て札を受け取った。どうやら好きな席に着いて、この札を立てておくと、店員が食事を届けてくれるようだ。
少し迷って、人の少ない壁際の二人席に腰かけた。
カウンターの一人席は嫌だった。他人と顔を合わせて、もしくは隣で食事をすることが苦手だった。人に対して良い記憶が無いのだ。
辺りを見渡すと、皆下を向いてスマホを弄っている。少し異質な光景だった。スマホを持っていない私は、椅子の背もたれに寄りかかってただ、壁に描かれた奇妙な絵を眺めていた。
店員が注文したセットを運んできた。お盆の上には、紙で包装されたチキンバーガー、オレンジジュース、それから少し萎びたポテトフライが載っていた。ジュースを一口飲み、包み紙をめくると、ついに姿を現した。他のセットと比べ、安価であるためいささか小さいが、普段コンビニや購買のスカスカな菓子パンを食べている私にとっては、宝物と言っても差し支えのないほど輝かしく見えた。
一口かじると、サクサクのチキンフライと、シャキシャキのレタスが、旨味を音で引き立てる。マヨネーズソースに混ぜ込まれたコショウが、良いアクセントとなっていた。
忘れかけていた食欲が刺激され、一心不乱に貪った。周りの喧騒も、聞こえなくなるほどだった。美味しいものを食べたのは久々だった。最期に「おいしい」という感情が芽生えたのはいつだったか。これまで食事は生きるための作業に過ぎなかった。ただの作業から、楽しみに変化したようだった。苦痛は頭の中から消え去っていた。
脇目も振らずに食べ続けていた。口の周りがマヨネーズまみれになっていることに気づかないくらいだった。合間に食べるポテトの塩気が食欲を促進した。
ハンバーガーとポテトを平らげ、ようやく周囲の音が返ってきた。氷で薄まったオレンジジュースを一口飲む。結露した紙コップから滑り落ちた水滴が、スカートを濡らした。
食べ終えると、不安や苦痛がふつふつと蘇り、私の胸を次々に刺してきた。痛みを薄めるようにジュースを飲む。飲みかけのジュースはすぐに無くなり、ズゾゾ、と不快な音を立てた。退路を断つ音だった。
絶え間なく突き刺さる刃に耐えかねて、私は天井を仰いだ。橙色の無機質なLEDが、私を照らしている。眩しさに目を細め、目線を落とした。お盆には、「働く仲間、募集中!」という文言と共に、制服の、笑顔の男が印刷されていた。その男と目が合うことが、なんとなく嫌だったので、ジュースのコップを顔の上に置いた。水滴が、男を濡らした。
私はしばらく、湿ったコップを見ながら、この苦痛をいなそうと身を固くしていた。水に浮かんだ氷を眺めていると、ふと一つのアイデアが浮かんだ。現状を打破する、最高の一手だ。私はたまらなく嬉しくなった。
席を立ち、後片付けをし、私は店を出た。入ったときより、ずっと軽い足取りだった。まるで宙を浮くようだった。
斜陽が私のブラウスを茜色に染め上げる。雨で増水した川も、色濃くなっていた。遠くに橋が見える。私はあの橋を目指す。
ドライヤーのような熱い風が、私の汗ばんだ髪と、スカートを揺らす。ドライというよりは、ウェットな風だ。私の冷えた心には、その熱さが心地よかった。
セミの声が聞こえる。私を押し潰さんとばかりに。また雨が降るのか、雲が太陽を覆い隠し、辺りは薄暗くなった。ペンキの剥げた橋だ。所々に白いペンキがしがみついている。欄干に手を掛ける。ざらざらとしていて暖かい。同時に心も熱を持っていた。これからすることを考えれば、震えとにやけが止まらない。
黒いローファーを脱ぎ、揃える。
髪をくくっていたゴムをほどく。黒髪が風になびいた。
芝居がかっている、自分でも感じた。でも、最期くらいは、自分が主人公になりたかった。
欄干に足を掛け、一息に体を持ち上げる。よろめきながらも立ち上がり、両手を広げた。
突如雲の隙間から陽光が差し、私を照らした。その光景は、これまで見た何よりも美しかった。
「綺麗」
無意識にそう呟いていた。神様が私を止めようとしてくださっているのだろうか。違う。もしこの世に神がいるのならば、私はこんな目に遭っていない。
私はもう戻らない。これは苦しみから逃げるための行為ではない。復讐だ。私を虐げた奴らへの。私を助けなかった奴らへの。そして、何もできなかった弱い私への復讐だ。罪の意識を抱えて生き、鎖に縛られたまま地獄へ堕ちろ。
増水した川が、ごうごうと音を立てて流れている。荒れ狂う大蛇のようだ。激しい風が、初夏の匂いを運んでくる。始まりの匂いだ。私にとっては、終わりの。
深呼吸をする。吸って、吐く。肺が初夏で満たされる。このような単純な動作も、今日で最後だ。
さあ、行こう。大蛇が呼んでいる。
跳んだ。思い切り跳んだ。世界が反転する、この浮遊感が心地よかった。すべてがゆっくりに見える。なびく草が、狂う川が、昇る橋が。着水の寸前、私はとびきりの笑顔で、
「ざまあみろ」
と吐き捨てた。
セミの声は、もう聞こえない。
風の音が聞こえる。窓の、風に叩かれる音が、私の頭痛を刺激する。重い瞼をこじ開けると、見慣れない木造の天井が見えた。質素な、白いベットの上だ。ゆらゆらと揺れる光が、部屋を薄く照らしている。首元に解放感を覚えた。触れると、あの窮屈なブラウスではなく、薄い白いシャツに変わっていた。
私は、死んだはずでは無かったか。それともここが、「あの世」と言われる場所なのだろうか。もう少し華やかな場所だと、勝手に思い込んでいた。天国を夢想する連中がこの光景を見たら、さぞがっかりとするだろう。
ただただぼんやりと、天井を眺めていた。ふと、天井に映る影が、自分一人では無いことに気づいた。影を頼りに目線を動かすと、ベッドの隣の椅子に、男が座っていた。腕を組んで眠っている。二十代後半くらいの、金髪の男だ。厚手で緑色の洋服の上に、革でできた鎧を着ている。体を起こし、しばらく注視していると、視線に気づいてか、男は目を覚ました。深い、青い瞳だ。秋空のようで、吸い込まれそうだ。
「気分はどうだい」
その男のやわらかい声を聞いたとき、私はどうしようもなく不快感を覚えた。ただ下を向いて、シーツを固く握りしめていることしかできなかった。
「大丈夫?」
男が伸ばした手を、私は反射的に払いのけた。男の驚いた様子の瞳に、私が映っていた。
今、手を払いのけて分かった。私は死んでいない。ここは「あの世」ではない。この痛みは本物だ。生きている、という事実に、私は微塵も喜びを感じなかった。
私は死にたかった。復讐だと己に言い聞かせてはいたが、本当はただ、逃げたかったのだ。
逃げたい。今度こそ。確実に。
私はとっさにナイトテーブルの上のランタンを手に取り、ひと思いに床へ叩きつけた。ろうそくの火が消え、ガラスが辺りに飛び散った。私は手探りで大きなガラス片を拾い上げ、己の喉元へ突き立てようとした。
その時だった。何者かに手首を強く掴まれた。痛みでガラスを取り落とした。金髪の男だ。男の瞳は、暗がりでも分かるほど青白く燃えていた。強い怒りと、悲しみが見えた。
「自分で自分の人生に終止符を打つんじゃない。終わりは与えられてこそだ。天に与えられるまで生きるんだ。どんなに苦しくても、辛くても生きるんだ」
私を掴む手がより強くなった。
「それともなんだ。そんなにも生きるのは嫌か」
「嫌よ!」
ここまでの大声を出したのは初めてだった。私は掴まれていないほうの手で、男を引き剥がさんと掴みかかった。
「もう嫌! 私が何をしたっていうの! どうして私を苦しめるの! どうして誰も、私を助けてくれないの! どうして私を死なせてくれないの! こんな仕打ちをするなんて、神様ってのは大層嫌味な野郎なのね! あんたは何? 私を助けて、神の真似事でもしようってわけ? もう結構よ! 間に合っているわ! 今すぐ私を死なせて!」
泣きわめく私の頬に、しびれる様な痛みが走った。男が、私の頬を張ったのだ。
「君は助けられる努力をしたのか? 自ら助けを求めることもなくそんなセリフを吐いているのならば、それはいくら何でも他人に任せすぎだ!」
彼の声は怒りで震えていた。その怒りを、私ハッと鼻で吹き飛ばした。
「助け? そんなの一体誰に求めろって言うの? 助けようとする意志があったのなら、そんな奴らはとっくに私を救ってくれているはずよ! 私がこうなっていることが、一番の証拠だわ! そんな奴ら、一人もいないのよ! 父親だって、私に見向きもしなかった! 私には、どこにも居場所は無いの! だから……」
「だったら、今日からここが、君の居場所だ」
涙に溺れる私を、彼は強く、抱きしめた。痛いほど、強く。
「辛かっただろう。苦しかっただろう。でも、いかなる理由があろうとも、自分のことを諦めてはいけないよ。助けてくれる人は絶対にいるんだ。ゆっくり心の傷を癒すといい。何でも僕に話してごらん。きっと心は軽くなる。今まで、よく頑張った」
私は思わず、彼の体を強く抱きかえした。苦手な「人」に抱かれているはずなのに、不思議と温かく、心地よかった。
今までどんなに苦しいときも零れなかった涙が、ぽたり、ぽたりと滴り落ちた。私は新しく生き直すのだ。すすり泣く私の背中を、男はいつまでもさすってくれていた。
窓からやわらかい朝日が差した。どうやら私は、あのまま眠ってしまったようだ。風が赤く染まった葉を揺らしている。目を細めて、窓の外の木々をぼんやりと見ていると、コンコンコン、と戸を叩く音が聞こえた。
「はぁい」
返事をすると、昨日の男が食事を持って入ってきた。白いシチューと、丸いパンだった。どちらもまだ、あたたかな湯気を立てている。
「昨日は結局何も食べなかっただろう。たくさん食べなさい」
そう言ってナイトテーブルにお盆を置き、椅子に座った。
「そういえば、自己紹介はまだだったね。僕はルドベキア。傭兵だ」
傭兵。確実に日本では無いことを思い知らされた。それどころか、元の世界と地続きであるかどうかも怪しい。ここは一体どこなのだろう。
「君の名前は?」
「私は……」
私は答えられなかった。忘れてしまったわけではない。ただ、もし私がその名を明かせば、彼は私をそう呼ぶだろう。名は己を縛る鎖だ。その名を呼ばれれば、私は過去に囚われてしまうだろう。生き直すと決めた私にとって、かつての名は呪いでしかなかった。
躊躇っていると、ルドベキアが口を開いた。
「なら、キキョウ、でどうかな。極東の花の名前だ。良い響きだろう。」
キキョウ。その花の名前に聞き覚えはあった。どんな花であったかは、忘れてしまったが。私はうなずいた。
「じゃあ、キキョウと呼ぶよ。よろしく、キキョウ」
「よろしく……」
私は小さく頭を下げた。こうして、——は消えた。ここにいるのは、キキョウだ。
「ここは……どこ?」
「ここは首都テレジアから少し離れたフィオナ村だが」
ルドベキアはナイトテーブルに載ったお盆を見た。
「……それよりも一度、食べると良い。せっかくのシチューが冷めてしまう」
見ると湯気はだいぶ落ち着いていた。持ち上げると、器はまだ十分に温かかった。木のスプーンで一口啜る。ミルクのやわらかな香りが、口の中に広がった。丸パンをかじる。コンビニやファストフード店よりも、ずっと素材の旨みがした。
気づくと眼前には、空の器とスプーンのみが残されていた。ルドベキアも苦笑している。その笑みが、遠い昔の友人と、少々似ていたので、胸がきつくなった。
「気に入ってもらえて良かった。家の人に無理言って作ってもらった甲斐があったよ」
私は恥ずかしさのあまり、下を向くほか無かった。
「明日にはここを発って首都へ向かわねばならない。君のことはこの家の親父さんに頼んである。しばらく置いてくれるそうだ」
嫌だった。親切な計らいに不満があるわけではない。むしろ、この上なくありがたいことだ。しかし、私はまだ、他人を信じることが怖い。ルドベキアが去った後で、もしもまたひどい仕打ちを受けたら、私はきっと耐えられない。ルドベキアについて行きたい。命を、私を救ってくれた人と、共にありたい。
私は人を信じたい。私はあなたを信じたい。
「待っ、て」
ごゆっくり、と立ち去ろうとする服の裾を、私は思わず掴んでいた。
「私を、連れて行った、ください。お願い、します」
蚊の鳴くような、小さな声を絞り出した。けれども固い、決意が表れていた。
「僕は傭兵だ。死が常に付きまとっている。危険な目に、君を遭わせるわけにはいかない」
ルドベキアの目は冷たかった。明らかな拒絶だった。だが、氷の奥に、確かなぬくもりを感じた。
「せっかく助かった命だ。君自身のために生きなさい。戦は地獄だ。わざわざ君が踏み込む必要は、無い。幸運を無駄にしてはいけないよ」
裾を引いて去ろうとする彼に、私は必死に縋り付いた。
「私は人を信じることができなかった。それでも、初めて、信じられる人に出逢えたの。独りはもう嫌。置いて行かないで……。お願い……」
「僕が善い人である保証はない。どうしてそこまで盲信できる?」
「あなたは私を助けてくれた」
「僕は悪党で、君を奴隷として売り捌くかもしれないのに?」
「私は初めて人に救われた。例えあなたのその行為が偽りでも構わない。私は信じたい。人を、信じてみたいの」
私は震えていた。孤独への恐怖だった。きっと彼も感じたことだろう。彼はため息をついて私に向き直った。
「分かった。ついておいで。ただし——」
ルドベキアが私の肩に手を置いた。
「くれぐれも、死なないように」
首都への道のりは非常に長かった。かれこれ三日は歩いている。彼は「少し」と言っていたのに。距離の感じ方が、私と彼では大きく異なっていた。
「どうして首都に向かっているの?」
あるとき、私は彼に尋ねた。
「先月、国王が崩御なされたそうで、二人の王子が遺されたんだ。本来なら長男が次期国王となるしきたりなんだが……。その長男というのが実は養子で、気に入らなかった弟君が、『王の血を引いている自分が正当な王位継承者だ』と主張したんだ。ついこの間まで、双方にらみ合っていたんだが、いよいよ戦いに発展してしまった。それで僕たちが集められているんだ」
ルドベキアがこちらを振り返った。
「君はどちらが正しいと思う?」
「私は……」
少し思案した後、答えた。
「私は弟君の方が正しいと思う。血縁がなければ、言い方は良くないけれど、はっきり言って部外者よ。街の人たちも従わないかもしれないわ」
「僕だってそう思う。でもね、見方を変えると、優先するということはつまり、もう一方、つまり長年守ってきたしきたりを蔑ろにするということになる。そういった視点の違いが、争いの火種になるんだ」
ルドベキアは目を伏せた。しばらくの沈黙の後、私は口を開いた。
「ならルドベキアは弟君に加勢するの?」
ルドベキアは首を横に振った。
「どうして」
「兄のほうが民衆からの支持が篤い。兵力も多く集まっている。だから僕は勝ち馬に乗る。自分が正しいと思う道に進むのは良いことだ。でも、正しさだけじゃ生きてはいけない。正義なんてものは、生きていてこそだからね。生の前に善悪は無いようなものだ。傭兵として生きるからには、勝ち続けなければならない。敗北は、死だ。弟君のほうが報酬は良いけれど、死んでしまったらすべては無意味さ。」
そう語る彼の冷めた瞳を、私は一生忘れないだろう。
テレジアは嫌に静かだった。店はほとんど開いておらず、歩く人も見かけない。時々ハトの羽音が聞こえるだけである。
「静かね」
その声が、案外周囲に響いたので、私は慌てて口を塞いだ。
「そうだね。王子の対立で、国は混乱している。収穫祭の時期だけれど……。こんな様子じゃ、外へ出るのも恐ろしいだろう」
日も随分傾いている。急いで目的の集合場所へ向かわなければならない。
「急ぐよ」
ルドベキアが私の手を取った。力強く、温かだった。
傭兵たちの集合場所に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。集合場所とは言っても、ただの広場でしかなく、そこには大勢の傭兵たちがたむろしていた。
端の空いているスペースに、私とルドベキアは腰かけた。皆、剣やら弓やら、思い思いの武器を携えている。薄暗く、彼らの顔は良く見えない。眼光だけが、肉食獣のように鋭かった。ルドベキアの話によれば、明日には戦場へ駆り出されるそうだ。殺気立っているのもうなずける。
「そうだ」
ルドベキアがこちらを向いた。やわらかい瞳の光が私を射た。
「これを渡しておくよ」
ルドベキアが私の手の平に載せたのは、小さな麻袋だった。袋を開けると、小さな銀貨が何枚も入っていた。
「それと……、これも」
ルドベキアは私に、大きな革袋を渡した。
「そこには生活に必要なものが一通り入っている。あと着替えも。明日からは町はずれの宿屋にでも泊まるといい。さすがに一つや二つは開いているだろう。キキョウを危険に晒すわけにはいかないからね」
私は何も言えなかった。ついて行って足手まといになるのは承知している。それでも独りになってしまうのは怖かった。
そんな私の内心を案じてか、ルドベキアは私の手を優しく取った。
「大丈夫。僕は必ず帰ってくるから。安心して待っていて。ほどほどに頑張ってくるよ」
「……うん。わかった」
彼の手は震えていた。彼だって怖いのだ。命が掛かっている分、私の何倍も恐ろしいはずだ。それでも他者を思いやれる心を、私は何よりも美しいと思った。
「信じて、待つわ」
彼の震える手を、強く握り返した。ルドベキアが、照れくさそうに笑った。少年のような笑顔だった。
いよいよ出発の時間になった。日は沈み、三日月が淡く輝いている。
「行ってくる」
ルドベキアが私の肩に手を置いた。その手が未だに震えていたから、私は彼を抱き寄せた。鎧越しに、彼の体温を感じた。
「最後まで、カッコつかないな。どうも慣れない」
苦く笑った。私は肩に顔をうずめたまま問いかけた。
「ルドベキアはどうして傭兵になろうと思ったの?」
「守りたかったからさ」
「僕は幼いころに、戦いで両親を亡くした。荒れていたよ。でも、僕に良くしてくれる人がたくさんいた。人の支えで、僕は立ち上がることができたんだ。それで、あるとき思ったんだ。『守りたい』って。大切な人たちを、また亡くしてしまうのが怖かった。守るためには、戦わなければならない。だから僕は傭兵になったんだ」
ルドベキアは深く息をついた。
「でも、戦って、何人も殺してきて、分からなくなった。僕は大切な人を守るために戦っている。でも、それと同時に、誰かの大切な人を傷つけている。もう、何のために戦っているのかも分からないな」
肩を抱く力が、強くなった。母にすがる幼子のようだった。
「血を流すたびに、僕の中の何か大切なものが失われていくような、そんな気がするんだ。そして、僕が倒してきた人たちのように、いつか倒れてしまう日が怖い。いずれ来る、守れなくなる日が怖いんだ」
「大丈夫。あなたはきっと、大丈夫」
私は彼の震える肩をさすった。
「私がきっと、あなたを守る。今すぐ、とはいかないけれど……。必ずあなたの望みの手助けをする。だから、必ず帰ってきて。私を置き去りにしないで。生きていれば、きっと答えが見つかるわ」
我ながら傲慢なセリフだった。かつて生きることを諦めた私が、生について説くだなんて。それでも、身の丈に合わない言葉だったとしても、私は彼を、勇気づけたかった。
「そう……か。そうだね」
彼は眉を少し下げて笑った。彼はよく、こんなふうに笑う。少し、寂しげな笑い方だ。再び立ち上がったとしても、傷跡は残る。暗い心の穴が見えた気がして、私も少し、寒くなった。
いつかその穴を埋めてあげることができたら。彼はもっと楽しそうに笑えるだろう。そのためには。
「必ず、無事に、帰ってきて」
その一言を、彼の心に刻みつけた。
「ああ、約束する」
彼の声はかすれていた。しかし、もう震えては、いなかった。
彼が行ってしまってからどれくらい経っただろうか。宿のベットで、私は何度目かも分からない言葉を反芻した。月も随分太った。信じて待つ。そう言ったのは私では無かったか。月と共に、私の不安も膨らんでいくばかりである。
戦が早々に終わるもので無いことは、私も十分承知している。でも、もしも彼が、このまま帰って来なかったら。知らない土地で、一人きりで、いつまで待ち続ければ良いのだろう。戦いが終わり、約束した楓の木の下で、日々たたずむ自分の姿を想像すると、胸が締め付けられるようだ。
彼は必ず、真っ先に帰ってきてくれる。信じている。それなのに。どうしてこうも、胸がざわつくのだろう。
彼に会いたい。一目見るだけでもいい。心に熱を持った。
白いブラウスに袖を通す。
黒いスカートを纏う。
ゴムで髪をひとつにくくる。黒髪が揺れた。
揃えて置いた、ローファーを履く。コト、コトと床が鳴った。
宿の玄関を開けると、西日が私の頬を赤く染めた。良く晴れた、澄んだ空気の秋だった。夜には野営地に着くだろう。石畳の長い一本道を、ひとり、歩く。一目見たら、必ずここへ帰ってくる。そう、心に誓った。
浅はかだった。私は首都から離れた森の中にいる。この森で、戦が行われていると、宿の店主に聞いたのだ。店主は怪訝そうな顔で教えてくれた。
すでに夜は更け、辺りは真っ暗になっている。この小さなランタンだけが頼りだ。
野営地など、そう簡単に見つかるはずがなかった。それに、もし誰かに見つかったら、私は殺されてしまうかもしれない。人で無くとも、野犬やら何やら野生動物に襲われるかもしれない。己の愚かさを呪いたくなった。
それと同時に、死を恐れる自分に驚いた。少し前までは真逆であったのに。改めて、ルドベキアに救われたことを自覚した。
もう帰ろうか。来た道も分からないが。
引き返そうと思った矢先、私は少し、開けた場所に出た。水たまりに足を取られて転倒した。連日晴れ続きだったというのに。注意深く照らしてみると、赤い。血だ。驚いてランタンを高く掲げた。
すると、あまりにも凄惨な光景が、私の目に飛び込んできた。首が無い。内臓が零れている。半身が千切れている。そういったものが、そこらじゅうに転がっていた。
あまりの光景に、私はその場にへたりこみ、上がってきたものを吐き出した。取り落としたランタンの火は立ち消え、辺りは闇に呑まれた。
スカートや袖が血を吸って染まってしまったが、私にそのようなことを気に掛ける余裕は無かった。震えが止まらない。ここを離れよう。そう念じても、体が動かなかった。
近くから、ガサガサと草木の擦れる音がする。何かが近づいて来ている。逃げなくては。振り返るも、私の体は糸の切れた人形になっていた。光が迫ってくる。動け、動け。目をぎゅっとつむった。
「キキョウ?」
聞き覚えのある、やわらかい声だった。記憶より、少し冷たかったが。
恐る恐る目を開けると、ルドベキアが、何人かの男たちを連れて、こちらを覗き込んでいた。
「どうしてこんな所に?」
私はただ、黙って凍り付くことしかできなかった。
「大丈夫かい?」
彼が私の血に濡れた手を取った。嬉しさと同時に、申し訳なさがこみ上げてきた。今更だった。
「ごめんなさい……」
立ち上がろうと力を入れたとき、ヒュウ、と風を切る音が聞こえた。ルドベキアが私を抱きしめた。違う。倒れこんできたのだ。彼の背に回した手が、何か生温かいものに触れた。
「敵襲だ!」
誰かがそう叫んだ気がした。私の耳には、怒号も何もかも、すでに届いていなかった。
私のせいだ。私が彼に会いたいと、望んだから。ふらふらと、彼の迷惑も考えずに出向いてきたから。彼は矢を受けた。
歯が折れるほど、食いしばった。潰れるほどに、目を塞いだ。どれだけ悔もうとも、事実は変わらない。とにかく、ここから離れなければ。私は彼を背負い、ズルズルと歩き出した。何よりも重かった。けれども、決して立ち止まることは無く、暗闇に消えた。
怒号も聞こえなくなるほど遠くへ来た。私は、木の下に、彼を下ろした。血は一向に止まらない。どうすれば良いかも分からない。
雲が晴れ、月光が差すと、ようやくルドベキアの顔が見えた。蒼白だった。月明かりのせいでは無い。母の葬式以来の色だった。
後悔だけが募っていく。彼は私と出会ってしまったから、こんな目に遭ったのだ。瞳から熱いものが零れ落ちた。最近は、泣いてばかりだ、前まで、そんなことは無かったのに。
この涙は、この人が与えてくれたものだ。この命も。なのに私は、彼に何も返すことができていない。彼がこのまま消えてしまったら、私は、本当に、最低な人間だ。
そうはさせない。絶対に助けて見せる。助けて、それから、恩を返すのだ。
ブラウスを脱ぎ、彼の傷に、包帯のように巻き付ける。正解かは分からない。でも、何もしないよりはましだ。少し休んだら街へ降りよう。
「キ……キョウ……」
良かった! まだ消えてはいなかった!
「しっかりして! ルドベキア! すぐ、病院まで連れて行くから!」
私は必死だった。彼を死なせるわけにはいかないからだ。膝をついて、彼を抱き上げたとき、私は彼の口が動いていることに気が付いた。何かを伝えようとしているのかもしれない。病院の場所だろうか。慌てて彼の口元に耳を寄せた。
二、三度、言葉にならない空気が漏れ、深い呼吸の音が聞こえた。そこからは、何も、聞こえなかった。
「……ルドベキア?」もう一回お願い」
消え入るような声を絞り出した。
「もう一回……」
ルドベキアの頬に、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちた。
空が白んできた。私はずっと、ルドベキアの傍らにうずくまっていた。戦いは、まだ続いているのだろうか。完全に冷たくなった彼の頬を撫でる。
私を助けてくれて嬉しかった。
明るく話しかけてくれる、あの笑顔が眩しかった。
あなたは私に、たくさんのものを与えてくれた。もう、返したくても、返すことはできない。
この心に宿った熱は、感謝ではなく、淡い恋情だったのかもしれない。
手の届くところにいるのに、なんて遠い場所へ行ってしまったのだろう。
一か月にも満たない、短い時間で、あなたはこれほどまでに、私の心の中で、大きなものになってくれた。
私は今から、あなたとの約束を破ります。
ルドベキアの腰に差されたナイフを手に取る。
あなたが隣にいない世界なんて、考えられない。
朝日が私とルドベキアを照らし、刃が宝石のように煌めいた。
あの夕日と、同じ色だ。
生まれ変わっても、私は絶対にあなたを見つけてみせるから。
もし、また逢えたなら。
あなたは私を、赦してくれますか。
ナイフの落ちる、音がした。




