第25話「花に水を捧ぐ」
前書き
本編は、第24話「守ったはずなのに」から直接続く物語です。
守りたい一心で注いだ熱によって、紫色の花を傷つけてしまったNOVA。
再び花の前に立った彼女は、失敗への恐怖から動けなくなってしまいます。
そんなNOVAに、ヴォルクが教えたこととは——。
人工照明が灯る地下栽培区画は、昨日までの寒気が嘘のように静まり返っていた。
一定の規則で稼働する空調の重低音と、微かなフィルターの排気音が、壁の金属板を小さく振るわせている。
NOVAは、その無機質な空間の隅で、一人佇んでいた。
視線の先にあるのは、小さなプランター。
そこに根を張る紫色の花は、朝の光を受けながらも、痛々しい姿を晒している。
一晩中、彼女が胸部コアの熱を注ぎ続けた結果、花びらは乾燥して端が縮み、青々としていた葉は内側へと固く丸まっていた。
根は生きている。
けれど、昨日までの瑞々しさは失われていた。
ピピー、ピピー。
乾いた警告音が、静寂を切り裂いた。
プランターの土に突き立てられた土壌水分計のデジタル表示が、赤く明滅している。
『警告。土壌水分、危険域』
壁のスピーカーから、施設AIの機械音声が淡々と告げた。
『対象個体、著しい水分不足を検知。早期補給を推奨』
AIは事実だけを提示し、それ以上は何の感情も示さない。
NOVAは小さく息を吸い込み、足元に置いてあった金属製の水差しを取り上げた。
冷たいアルミの柄が、熱を持ちやすい彼女の指先にしっくりと馴染む。
「お水を、あげなきゃ」
つぶやき、花へ向かって一歩踏み出す。
一刻も早く水を与えなければ、この花は乾ききって枯れてしまう。
分かっているはずだった。
けれど、プランターのふちに水差しの注ぎ口を向けた瞬間、NOVAの指先がピタリと硬直した。
——昨夜の熱量。適正値を、超過。
脳裏に、AIの告げたあの冷徹な報告が鮮明に蘇る。
守りたかった。
ただそれだけだったのに、自分の無知と過剰な力が、この小さな命を傷つけた。
(もし……また間違えたら?)
水を与えすぎれば、根が腐ってしまうかもしれない。
あるいは、水がかかった衝撃で、傷ついた花びらが落ちてしまうかもしれない。
どれくらいの量が「正しい」のか。
どう注ぐのが「適正」なのか。
NOVAの手の中で、水差しが微かにカタカタと震えた。
注ぎ口から落ちそうになった一滴の水が、表面張力で歪み、重さに耐えかねて土の上にポトリと落ちる。
それだけのことが、まるで取り返しのつかない罪のように思えた。
(分からない……。私には、正しい加減が分からない……)
胸の奥がキュッと縮こまる。
服の下にある高出力エネルギーコアが、彼女の不安に反応するように、服越しにちりちりと不規則な微光を漏らした。
壊したくない。
二度と、私のせいで傷つけたくない。
そう強く思えば思うほど、指先は氷のように冷たくなり、一ミリも動かすことができなくなった。
「でも……」
乾いた唇から、掠れた声がこぼれ落ちる。
「手が、動かない……」
立ち尽くす彼女の背後から、重い足音が近づいてきた。
規則正しい靴音。
それに混じる、微かなギアの駆動音。
「どうした。手が止まっているぞ」
低く落ち着いた声が、NOVAの頭上から降ってきた。
振り返らなくても分かる。
ヴォルクだ。
彼の手には、いつものように整備用の工具箱が握られていた。
NOVAは水差しを握りしめたまま、うつむいた。
銀白色の長い髪が前に垂れ下がり、彼女の表情を隠す。
見栄を張ることも、言い訳をすることもできなかった。
「また、失敗しそうで……」
蚊の鳴くような声だった。
「私が何かすると……また、この子を酷い目に遭わせちゃうかもしれない。どれくらいあげたらいいのか、自分の判断が信じられないの」
一度生まれた恐怖は、影のように彼女の足元に張り付いていた。
自分の力で守れたと過信した昨日の自分が愚かしくて、また同じ過ちを犯すことが何よりも恐ろしかった。
ヴォルクはNOVAの横に歩み寄ると、ゆっくりと腰を落とした。
無骨な義手の指先で、乾ききった土の表面をそっと撫でる。
それから、明滅する水分計の赤い数値を静かに見つめた。
「失敗する可能性はある」
ヴォルクは言った。
NOVAを気休めで慰めることも、「大丈夫だ」と嘘をつくこともしない。
厳然たる事実として、その可能性を口にした。
NOVAの肩が、びくっと跳ねる。
ヴォルクは一度言葉を切り、深く刻まれた目元のしわを寄せて、傷ついた紫の花を見つめた。
「だが、花はNOVAを待っている」
「……え?」
「水が必要なのは確かだ。お前が恐れて立ち止まっている間にも、土は乾いていく」
ヴォルクの静かな瞳が、NOVAの赤い瞳と真っ直ぐに交差した。
「間違えるのが怖いなら、正解を知ればいい。一人で完璧になれる奴など、この地下のどこにもおらん」
教え込まれたデータや、胸の中に秘めた膨大なエネルギーだけでは、世界は測れない。
分からないときは、知っている者に聞けばいい。
ただそれだけのことが、自分の力で完璧に「守る」ことばかりを考えていたNOVAの頭から、すっぽりと抜け落ちていた。
NOVAは息を飲んだ。
胸の奥で重く凝り固まっていた恐怖の結び目が、ほんの少しだけ解けていくのを感じた。
一人で抱え込まなくていい。
間違えないように、正解を自分だけで導き出さなくてもいいのだ。
NOVAは水差しを抱え直し、ヴォルクを静かに見上げた。
「おじさん。教えて」
真っ直ぐな瞳。
それは弱さの露呈ではなく、一歩前へ進むための確かな決意だった。
ヴォルクは表情を変えなかったが、小さく鼻で息を吐くと、機械化された右腕の指先で水分計のガラス面をトントンと叩いた。
「この針を見ながら、水をあげるんだ」
「針……?」
「そうだ。表示の赤は『危険』、黄色は『注意』、緑が『適正』だ。一気に流し込めば土が流れる。根の周りに、少しずつ染み込ませるように注げ」
「少しずつ……」
NOVAは頷き、膝をついた。
今度は手が震えていなかった。
水差しを傾ける。
細い注ぎ口から、透明な筋となって水が垂れ落ちた。
チョロチョロと、小さく涼やかな音が、静かな栽培区画に響く。
水が乾いた黒い土に触れると、じわじわと表面の色が濃く変わっていった。
土が水を吸い上げる微かな音が、耳に届くような気がした。
NOVAは水分計のデジタル針から目を離さない。
赤い領域にいた数値が、ゆっくりと、本当に少しずつ上へと動いていく。
「これくらい……?」
水差しを傾ける角度を保ったまま、NOVAはヴォルクの横顔をうかがった。
「焦るな。土に染み込むまで間がある。少し待て」
「うん……」
NOVAは注ぐのをやめ、息を殺して土を見つめた。
水滴が土の隙間へと消えていく。
数秒後、水分計の表示が黄色い『注意』の領域へと移行した。
「よし。もう一回だ。次は花の反対側から注げ」
「はい」
ヴォルクの短く簡潔な指示に従い、NOVAは丁寧に水差しを動かした。
一度にたくさん与えるのではなく、花が今、どれだけの水を吸い込めるかを見極めながら。
分からないときはヴォルクの横顔を見て、彼が静かに頷くのを確認してから、また数滴の水を落とす。
水滴が、固く閉じられた小さなつぼみの葉に跳ね、水晶のような綺麗な粒となって留まった。
ピピッ。
電子音が鳴り、水分計のインジケーターが緑色の『適正』のゾーンでぴったりと停止した。
『土壌水分、適正値に到達。給水を停止してください』
AIの声が、静かに作業の終わりを告げた。
NOVAはゆっくりと水差しを引き上げ、ほっと大きな息を吐き出した。
額にうっすらと汗が滲んでいた。
ただ水をあげるだけの作業が、これほどまでに集中力を使い、これほどまでに温かいものだとは知らなかった。
「……できた」
「ああ。上出来だ」
ヴォルクはそれだけ言うと、立ち上がり、作業用のグローブを軽く叩いた。
プランターの中の紫の花は、奇跡のように一瞬で元通りになったわけではない。
傷ついた花びらは乾いたままであり、丸まった葉が急に開くこともなかった。
ただ、乾いていた土は水を含んで色を深め、湿った土の匂いが静かに立ち上っていた。
花は、まだ生きている。
NOVAの差し出した水を受け取り、静かに、確実に、次の明日へと命を繋いでいた。
NOVAは膝を抱え、ヴォルクの隣で花を見つめた。
土に染み込んだ水が、ゆらゆらと人工照明の光を反射している。
胸の中にあった、あの恐ろしい焦燥感は、いつの間にか消えていた。
自分の胸部コアが放つ高出力のエネルギーも、今は穏やかに、体内で静かな拍動を打っている。
一人で背負わなくてもいい。
分からないときは、手を取ってくれる人がいる。
教えてくれる言葉があり、見守ってくれる眼差しがある。
「守る」ということは、一人で完璧な神様になることではなく、誰かと手を取り合いながら、目の前の命に必要なものを探していくことなのかもしれない。
NOVAはそっと自分の胸に手を当て、それから隣に立つ無口な男の背中を見上げた。
おじさんがいてくれて、少し安心した。
言葉には出さなかったけれど、その想いは温かな光となって、彼女の心の中に静かに満ちていった。
傷ついた紫の花のつぼみの上に残った一滴の水が、地下の人工光を受けて、小さな宝石のように輝いていた。
第25話「花に水を捧ぐ」をお読みいただき、ありがとうございました。
前話では、守りたいという純粋な気持ちだけではなく、相手に合わせて力を加減することの大切さを知ったNOVA。
今回は、失敗を恐れて動けなくなった彼女が、初めて自分から「教えて」と助けを求める姿を描きました。
分からないことを誰かに尋ねるのは、弱さではありません。
一人で抱え込まず、知っている人の力を借りながら進むことも、大切な強さの一つなのだと思います。
傷ついた花は、まだ元の姿には戻っていません。
それでもNOVAは、焦らず、花が本当に必要としているものを学び始めました。
これからも、少しずつ成長していくNOVAを見守っていただければ幸いです。




