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22話 進むもの

外へ出た瞬間、風が流れ込んできた。


夜が明けきっていない空気は冷たく、鉄と薄い油の匂いを含んでいる。

隠れ家の中に溜まっていた重たい空気が、一気に押し出されるようだった。


アリスは一歩、外へ出る。


足元は金属の足場だった。

網目状の床の下には、幾重にも走る配管と梁が見える。

そのさらに下、どこまでも続く構造の層が、暗く沈んでいた。


ここは上層外縁。


街の外側に張り付くように作られた、保守と搬送のための帯状構造だ。

人に見せるための場所ではなく、動き続ける巨大都市を裏から支えるための場所。

だから足場は実用だけでできていて、余計な飾りはない。鉄板は継ぎ足され、柵は擦れ、ところどころに補修の跡が残っている。


「……行くぞ」


レンが先に歩き出す。


アリスも小さく頷いて続いた。



最初は、人の気配はほとんどなかった。


すれ違うのは数人の整備員だけ。

油で汚れた作業着、無言のまま歩く足取り。

こちらを見ることもなく、ただ自分の仕事の中を移動している。


上層といっても、ここは“裏”だ。


華やかさとは無縁の場所。


足場はところどころ歪み、継ぎ足された鉄板が靴の裏で小さく軋む。

配管の継ぎ目からは細く蒸気が漏れ、白い線を描いてすぐに消えていく。

頭上では太い管が何本も走り、その中を流れる何かの振動が低く響いていた。


ギアラクトの駆動音だけが、一定のリズムで鳴り続けている。


まるで街そのものの心音みたいに。


アリスは歩きながら、一度だけ振り返った。

さっきまでいた隠れ家は、もう配管と梁の影の中に半分隠れていて、少し目を離せば見失ってしまいそうだった。


戻る場所は、もうあそこじゃない。


そう思うと、胸の奥が静かに沈んだ。



だが、進むにつれて、それが少しずつ変わっていく。


最初は、遠くの音だった。


カン、と軽い金属音。

チリン、と澄んだ高い音。

どこか弾むような、規則性のないリズム。


「……聞こえるか」


レンが言う。


「うん」


アリスも頷く。


さっきまでの音とは違う。


軽い。

明るい。

どこか浮ついている。


仕事の音ではない。

生活の音でもない。


楽しむための音だ。


そのことが、耳で先に分かった。



通路の幅が広がる。


足場は整えられ、柵には装飾がつき始める。

照明も変わった。


無機質な白から、色のある光へ。


橙。

黄色。

ところどころに青や赤。


金属の表面も、ここから先は磨かれている。

ただの鉄板ではなく、薄く色をのせた真鍮板が貼られ、継ぎ目には意匠みたいな模様まで刻まれていた。

同じ上層なのに、外縁の保守帯と娯楽区画では、世界の作り方そのものが違う。


「……境界だな」


レンが小さく言う。


上層外縁と娯楽区画の境目。


そこを越えた瞬間だった。



空気が変わる。


温度が、少し上がる。


匂いも変わる。


油と金属の匂いに混じって、甘ったるい香りが流れ込んできた。

焦げた砂糖のような、どこか懐かしいような匂い。

それに果実酒みたいな香りと、焼いた生地の匂いまで混じる。


アリスは思わず足を止める。


「……ここ」


目の前に広がっていたのは——


街だった。


いや、街というより。


「遊園地、か」


レンが低く言う。


上層娯楽区画。

正式には——上層娯楽区画Cブロック外縁接続帯。


だが、そんな硬い呼び方が似合わないくらい、そこは光に満ちていた。



そこには、信じられないほどの明るさがあった。


蒸気で動く巨大な観覧車が、ゆっくりと回っている。

むき出しの歯車が何層にも噛み合い、軋みながら動くその構造は無骨なのに、外縁には細かな電灯が無数に並び、輪郭をなぞるように光っていた。


回転に合わせて、光が流れる。


一定の速度で並んで巡るその光は、ただ灯っているだけじゃない。

管の中を何かが走っているみたいに、輪の縁を滑っていく。

蒸気が吹き上がるたび、白い霞の向こうでそれが少しだけ滲み、巨大な環全体がゆっくりと呼吸しているように見えた。


その下では、円形の装置が回っている。


メリーゴーランド。


だが木馬ではない。


真鍮でできた獣。

歯車の翼を持つ鳥。

機械仕掛けの騎士。


それらが上下しながら回転している。

飾りじゃない。首が微かに傾き、羽が少しだけ震え、騎士の槍先が灯りを拾ってきらりと光る。

どれも少し大げさで、少し不自然で、それがかえって上層らしい作り物の美しさを作っていた。


蒸気が噴き上がるたび、光が揺れる。

そのたびに、チリン、と軽い音が鳴る。


笑い声があった。


子どもの声。

大人の声。

楽しそうな、普通の声。


その声が、いちばんアリスの胸に刺さった。


「……なんで」


思わず呟く。


「こんな……」


言葉が続かない。


世界が終わるかもしれないなんて、誰も知らないみたいに。

知ったとしても、自分には関係ないとでも思っているみたいに。

ここは、ただ楽しい場所として存在していた。


レンが肩をすくめる。


「上層はそういうもんだろ」


ぶっきらぼうに言いながらも、その視線は少しだけ鋭い。


「下のことなんて気にしてねえ。偏差も“どっかの災害”扱いだ」


アリスは何も言えなかった。


ただ、目の前の光景を見ていた。


観覧車が回る。

メリーゴーランドが鳴る。

別の場所では、小さな蒸気機関車が短いレールの上をくるりと巡っていた。

さらに向こうでは、圧縮蒸気を使って金属球を打ち上げる遊技台があり、銀色の球が管の中を走って、乾いた高い音を立てている。


子どもが笑う。

大人が笑う。

係員が笑顔を作る。

灯りが巡る。

蒸気が弾ける。


そのすべてが、綺麗だった。


「……すごい」


ぽつりと漏れる。


気づけば、少しだけ前に出ていた。


光に引き寄せられるみたいに。


その横顔は、ほんの一瞬だけ——


ただの子どもだった。



「……おい」


レンが声をかける。


アリスは気づいていない。


観覧車を見上げたまま、目を離せないでいる。


巨大な輪の内側で、客を乗せた箱がゆっくりと上がっていく。

箱は真鍮の枠と曲面ガラスで作られていて、側面に小さな羽根みたいな飾りがついていた。

高い位置まで上がったひとつの箱の窓に、子どもの顔がぴったり張りついているのが見える。

その子が下を指さして何か叫び、隣の大人が笑う。

その様子まで、アリスには妙に鮮明に見えた。


レンは少しだけ黙る。


それから、軽く言った。


「乗ってくか?」


アリスがはっとする。


「……え?」


「どうせ来たんだし」


観覧車を顎で示す。


「一周くらいなら、すぐだろ」


ほんの一瞬、迷う。


本当に、ほんの一瞬。


あれに乗ったら、どんな景色が見えるんだろうと考えてしまう。

中層の屋根も、煙突も、橋みたいな管路も。

もしかしたら中央塔まで、今よりはっきり見えるのかもしれない。


ヘイズも、最後にああやって街を見ていた。


その想像が、胸の奥に少しだけ甘い痛みを残した。


でも——


アリスは、ゆっくり首を横に振る。


「……いい」


小さく言う。


視線だけ、もう一度観覧車へ戻る。


「……あとで」


その言葉が嘘だと、自分でも分かっていた。


でも、それでも。


そう言わなければ、自分から視線を切れなかった。


レンは何も言わない。


ただ、小さく笑った。


「そっか」


その言い方には、からかいも呆れもなかった。

ただ少しだけ、アリスが本当に乗りたかったのだと分かっているような声音だった。


アリスは視線を切る。


そして前を見る。


光の中心から、少しずつ離れていく。


後ろ髪を引かれるみたいな感覚が、本当にあった。

振り返れば、また足が止まりそうだった。


だから振り返らない。



二人は人の流れを避けながら進んだ。


通路の端へ。

照明の少ない方へ。


最初のうちは、まだ遊園地の華やかさの中にいる。

歯車意匠の屋台。

蒸気で温められた菓子を売る小さな店。

飾り窓の中で時計仕掛けの人形が動く見世物。

どれもアリスの目を引いたが、今は立ち止まらない。


少しずつ、音が遠ざかる。


笑い声が薄れる。

光が減る。


代わりに、機械の音が増える。


金属の擦れる音。

蒸気が抜ける音。

低い振動。


観覧車の基部が近いのだろう。

足元から、ごく細かい周期で震えが伝わってくる。

床そのものが、巨大な回転に付き従っているみたいだった。


「……この辺だな」


レンが地図を見る。


書き込みだらけの紙。


——騒音多い

——巡回薄い

——下に落ちてる


アリスも周囲を見る。


だが、それらしい入口は見えない。


ただの壁。

ただの設備。

ただの通路。


通路の脇には、整備用の柵に囲われた細い保守帯が続いている。

太い支柱の根元には圧力計と制御弁が並び、針が細かく震えていた。

その上を通る配管には、ところどころに補修跡があり、熱で曇った金属板が光を鈍く返している。

人目につきにくい場所ではある。

けれど、隠し入口があるようには見えなかった。


「……違う」


アリスが小さく言う。


「もっと……奥」


「奥って……」


レンが周囲を見渡す。


行き止まりにしか見えない。


そのとき。


アリスの足が止まった。



「……ここ」


何もない壁の前。


レンが眉をひそめる。


「何もねえぞ」


「……違う」


アリスは一歩近づく。


空気が違う。


ほんの少しだけ冷たい。

そして——動いていない。


遊園地全体の空気は揺れていた。

人の流れも、蒸気の熱も、音も、全部が少しずつ動いている。


でもここだけ、止まっている。


「……ここだけ、止まってる」


レンが手を当てる。


叩く。


コン。


位置を変える。


コン、コン。


さらに少し右を叩く。


音が違う。


「……中、空いてるな」


低く言う。


「隠してる」


アリスは、壁の表面を見た。


他の場所と同じ色に塗ってあるのに、そこだけ光の返り方が少し鈍い。

継ぎ目も、意識して見れば分かる。

本当に“知っている人間しか気づかない”ように隠してある。



レンは工具を取り出す。


金属板の継ぎ目に差し込む。


ギ、と軋む音。


「……硬えな」


力を込める。


金属が歪む。


もう一度。


角度を変える。


アリスは周囲を見る。


人はいない。


でも音が怖い。


さっきまでの遊園地の軽い音の中に、この硬い軋みだけが妙に生々しく浮いている気がした。

誰かがふと顔を向けたら、見つかるかもしれない。


「……急いで」


「分かってる」


レンが歯を食いしばる。


バキッ。


鈍い音。


固定が外れる。


金属板が浮く。


レンが指をかけて、それを引いた。



その奥には——


暗い穴。


下へ続いている。


光は届かない。


ただ、冷たい空気だけが流れてくる。


さっきまでの世界とは、明らかに違う。


甘い匂いも、暖かさもない。

あるのは、湿った金属の匂いと、閉じ込められた古い空気だけ。


「……当たりだな」


レンが言う。


アリスは答えない。


ただ、その奥を見ていた。


暗い。

深い。

でも、ただの穴じゃない。


奥へ続く“道”の気配がある。



怖い。


ここから先は、戻れない。


光も。

音も。

全部、切り離される。


さっきまでの観覧車も、笑い声も、 “あとで” と言った自分も。

全部、ここで置いていく。


「……どうする」


レンが聞く。


アリスは少しだけ息を吸う。


胸の奥で、ヘイズの顔が浮かぶ。

お父さんとお母さんの名前。

“お前が選べ”という言葉。


だから——


前を見る。


「……行く」


はっきりと言う。


レンが小さく笑う。


「だな」



レンが先に降りる。


「足元気をつけろよ」


アリスも続く。


縁に手をかける。


金属が冷たい。


一歩。


踏み込む。



その瞬間——


音が消えた。



遊園地の音が、完全に途切れる。


光も。

笑い声も。

蒸気の音も。


何も届かない。


たった一枚の壁の向こうに、あれだけの光と人の声があったのに、ここには欠片も落ちてこない。


そこにあるのは——


狭く、歪んだ通路。


錆びた金属。

古い配管。

崩れかけた補強材。

湿気を含んだ冷気。

壁の隅に残る、昔の識別番号の跡。


床は一枚板ではなく、何度も補修された金属片が継ぎ合わされている。

踏むたびに、鈍く小さな音が返る。


まるで、街の骨の中に入り込んだみたいだった。


レンが地図を広げる。


「……繋がってるな」


アリスは前を見る。


暗い。


でも、確かに続いている。


中央へ。

偏差収束炉へ。


アリスは、ゆっくりと息を吸う。


遊園地の甘い匂いが、まだ少しだけ服に残っていた。

それが逆に、さっきまでいた光の世界を遠く感じさせた。


そして前を向く。


「……行こう」


レンが頷く。


二人は歩き出す。


光の届かない、裏の道を。


中央塔へ。

あ、ここ後から追加した設定だなって思っても心に留めておいてください。

いつか書き直します。

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