10話 監視官ヴァルク
扉の向こうで、靴音が止まっている。
一人ではない。
重さの違う足音が、工房の前で同時に止まったのがわかった。
硬い床を踏んだときの響きが、工房A区画の職人たちのそれとは違う。慣れた歩き方ではなく、決められた歩幅で近づいてくるような、無駄のない音だった。
工房の中にいた三人は、誰もすぐには動かなかった。
ヘイズは作業台の前に立ったまま、わずかに顔を上げる。
レンは壁にもたれた姿勢のまま、腕の力だけをゆっくり抜いていく。
アリスは首元の布を握りしめ、喉の奥が乾いていくのを感じた。
ついさっきまで、三人は机の上の部品を見ていた。
工房A区画で集まった不良品。
工房B区画で見た、まとめて噛み合わない歯車。
搬送路と昇降機の停止。
一般居住区の水と火にまで及び始めた異常。
そしてヘイズが、静かに言ったのだ。
――誰かが、流れをいじってる。
その言葉がまだ工房の空気の中に残っているうちに、扉の前に人が来た。
まるで、その“誰か”が、自分たちの結論を聞きつけていたみたいだった。
――ドン。
扉が叩かれる。
確認ではない。
ためらいも遠慮もない、一度きりの重い音。
「ヘイズ」
低い声が響く。
「開けろ」
命令だった。
レンが小さく舌打ちする。
「……来やがった」
ヘイズは答えない。
ただ、工房の中央から扉まで歩いていく。速くもなく、遅くもない。いつもと同じ歩幅だ。だが、その背中には普段の気だるさが少しもなかった。
アリスにはわかった。
ヘイズはもう、相手が誰かをほとんど察している。
鍵を外す音がやけに大きく響いた。
扉が開く。
外の灰色の光が、細長く工房の床へ差し込む。
そこに立っていたのは三人だった。
両脇に、黒い巡回服の男が二人。
そして、その真ん中にひとり、黒ではない濃い灰色の上着を着た男。
アリスは、その男を見た瞬間に、嫌な寒気を覚えた。
背は高くない。
肩幅も、レンやヘイズほど広くはない。
けれど立ち方に揺らぎがない。身体のどこにも余分な力が入っていないのに、隙もない。
着ている上着は黒ではなく、くすんだ鋼のような灰色で、胸元と袖口に細い金属の縁取りがある。布地は上質そうなのに、飾り気はない。動きやすさと防護の両方を優先した形だとわかる。
首元には細い革帯。
左胸には、小さな歯車を重ねたような記章。
手袋は黒。
その甲の部分に薄い金属板が貼られている。
靴も目についた。
工房区の靴とは違う。汚れていないわけではないが、煤のつき方が浅い。よく整えられていて、踵を打つ音が乾いている。
顔立ちは、いっそ印象に残りにくいほど整いすぎていない。
目鼻立ちが派手なわけでもない。
なのに、一度見たら忘れない。
理由は目だった。
冷たいのではない。
怒っているのでもない。
ただ、人を見る目に温度がない。目の前に立つ相手を、相手としてではなく、記録すべき対象として見ているような、乾いた目だった。
「区画監察局、工房管理官補佐、ヴァルク」
男が名乗る。
声は低いが、驚くほどよく通る。抑揚はほとんどない。だからこそ、語尾の一つひとつが妙に耳へ残る。
「工房B区画搬送路停止、および昇降機停止に関する聴取に来た」
ヘイズが扉の内側に立ったまま言う。
「補佐が自分で来るような話か」
ヴァルクは表情を変えなかった。
「来る必要があると判断されたから来た」
それだけの返事なのに、言い返しにくい。
レンがぼそりと呟く。
「感じ悪……」
ヴァルクの視線が、ゆっくりとレンへ移る。
それだけで工房の空気が変わる。
「レン」
名を呼ばれ、レンが眉をひそめる。
「……なんで知ってんだよ」
「知る必要があるものは知っている」
答えになっているようで、なっていない。
だが、そこに不誠実さはなかった。
むしろ、“それで十分だろう”という確信がある。
アリスの背中がぞくりとした。
この男は、人との会話をしていない。
必要な情報を回収するために言葉を使っているだけだ。
ヴァルクの視線が、そのまま工房の奥へ向く。
アリスは反射的に半歩引いた。
「金髪の娘」
短い言い方だった。
「出てこい」
ヘイズがすぐに遮る。
「聴取なら俺で十分だ」
「十分ではない」
ヴァルクは一歩も動かないまま返す。
「現場にいた三名、全員から聞く」
レンが口を開く。
「助けた側に聞くことなんか――」
「評価は私が決める」
その一言で、レンの言葉が止まる。
強い声ではなかった。
怒鳴りもしない。
なのに、言葉を挟ませない力があった。
ヘイズは扉を大きくは開けないまま、ヴァルクを見返す。
「ここでやる話か」
「問題ない」
「俺はある」
「逃がすつもりか?」
その言葉で、工房の空気が一瞬で凍りつく。
レンが動くより早く、両脇の巡回二人がわずかに前へ出た。
腰のあたりで金属が鳴る。短い棒状の道具――いや、武器だ。長くはないが、先端に巻かれた細い線材と、小さな発光部が見える。
アリスは直感でわかった。
叩くためだけのものではない。
何かを流す。電気か、圧を使った衝撃か。どちらにせよ、まともに受ければ動けなくなる類のものだ。
ヘイズが低く言う。
「……アリス、奥へ」
アリスは喉を詰まらせる。
「でも」
「行け」
有無を言わせない声だった。
アリスは奥の部屋へ一歩だけ下がる。
完全には隠れない。扉の影に身を寄せ、外の様子が見える場所に留まる。
レンは動かなかった。
工房の中央に立ち、ヴァルクを睨んでいる。
ヘイズは数秒だけ沈黙し、それから扉をさらに開けた。
「入れ」
了承ではない。
通りで押し問答を続けるより、内側に入れた方が被害が少ないと判断したのだろう。
ヴァルクが工房へ足を踏み入れる。
続いて巡回二人。
一気に空間が狭くなる。
鉄と油の匂いの中に、外から持ち込まれた冷たい乾きが混ざった。
ヴァルクは歩みを止め、工房全体を見回した。
棚。
作業台。
工具。
集められた不良部品。
逃げ道になりそうな位置。
立っている人数。
それらを、一瞬で測っているのがわかる目だった。
「……妙だな」
ヴァルクが机の上に視線を落とす。
「集めすぎている」
机の端には、ヘイズたちが集めた不良部品がいくつも並んでいる。
輪。歯車。留め具。細い弁。
ただ作業中に出た不具合品ではない。明らかに“見比べるため”に残している量だった。
ヘイズは答えない。
ヴァルクはその中から細い輪を一つ取り上げ、指で弾いた。
チン。
次。
コン。
音の違い。
さらに、歯車を二つ見比べる。
歯の厚み。縁の微妙な削れ。
何も言わずに、それをすべて確認している。
「理解している」
ヴァルクがぽつりと呟く。
レンが食ってかかる。
「だから何だよ」
ヴァルクは視線を上げる。
「理解した上で、手を出している」
「手を出したんじゃねえ。目の前で昇降機が止まったから助けただけだ」
「結果として、同じことだ」
「は?」
「現場の人間が、どこまでを見るかは管理されるべきだ」
その物言いに、レンの顔色が変わる。
アリスも思わず息を止める。
ヘイズが一歩だけ前へ出る。
「言いたいことがあるなら、回りくどい真似はやめろ」
ヴァルクは静かに頷いた。
「いいだろう」
それから、まるで報告書を読むような調子で言う。
「工房A区画に属するお前たちは、工房B区画の搬送路異常に居合わせた。昇降機停止の原因に気づき、圧管の弁へ手を加え、運転再開に関与した」
レンがすぐに反応する。
「助けたっつってんだろ」
「言葉の問題ではない」
ヴァルクは微動だにしない。
「そこへ至るまでに、お前たちは不良部品を区画を跨いで集め、比較し、異常の共通性を見ている」
ヘイズの目が細くなる。
「見られてたってことか」
「監察対象の区画で何が起きているかを見るのは当然だ」
ヴァルクの言い方に、悪びれたところは一切なかった。
それがアリスには妙に恐ろしい。
隠れて見ていたのに悪いとは思っていない。
それが職務のうちだと、本気で信じている。
「つまり」
ヘイズが低く言う。
「俺たちが邪魔だと」
「そこまでは言っていない」
「言ってるのと同じだ」
ヴァルクは少しだけ首を傾げた。
「では、はっきり言おう。工房A区画の人間が、搬送網と圧供給の異常へ勝手に踏み込むな」
はっきりしすぎていて、逆に空気が冷える。
レンが一歩踏み出す。
「踏み込むな、って何だよ」
「そのままの意味だ」
「工房B区画の人間も困ってんだぞ。居住区まで火が弱くなってんだ。見て見ぬふりしろってか」
「見て見ぬふりをしろとは言わない」
ヴァルクはレンを見たまま答える。
「工房A区画の人間は、工房A区画の仕事をしろと言っている」
その瞬間、アリスの中で何かがはっきりした。
この男は、街をひとつの身体として見ている。
工房A区画は指先。
工房B区画は腕。
搬送網は血管。
居住区は別の器官。
それぞれが決められた役目を果たせばいい。
ひとつの部位が、別の部位の問題を勝手に知る必要はない。
それがこの男の論理だ。
だから嫌なのだ。
人が困っているかどうかより、位置と役割の方が先に来る。
ヘイズが問う。
「それで回ると思ってるのか」
ヴァルクは一切の躊躇なく答える。
「回す」
「人を巻き込んでもか」
「止まれば、もっと巻き込む」
それは理屈としては通っているのかもしれない。
でも、アリスにはそれがどうしても“正しい”とは思えなかった。
正しいのではなく、都合がいいだけだ。
上から見れば、そう言えるのかもしれない。
でも閉じ込められた昇降機の中にいた人にとって、それは何の慰めにもならない。
レンが低く吐き捨てる。
「ふざけんなよ」
その瞬間だった。
ヴァルクが動いた。
速い。
本当に、目で追うのが一瞬遅れるほど速かった。
レンは殴りかかろうとしたわけではない。
ただ、もう半歩前へ出て、言葉を返そうとしただけだ。
なのにヴァルクは、その動きだけで十分だと判断したのだろう。
一歩踏み込み、レンの腕を外へ流し、そのまま足をかける。
ドン、と鈍い音。
レンが床へ倒される。
あまりにも滑らかで、暴力の形がよく見えなかった。
ただ結果だけが、先に現れたように思える。
アリスは思わず息を呑んだ。
強い。
力任せじゃない。
慣れている。
こうやって、人を一瞬で制圧することに。
レンが呻きながら起き上がろうとする。
その背に、巡回の一人が武器を向けた。
先端の小さな発光部が淡く光る。
ヘイズがすぐに動く。
でも、踏み込む前に、もう一人の巡回が武器を向ける。
工房の空気がぴたりと止まる。
ヴァルクはレンの肩を押さえたまま、少しも息を乱していなかった。
「現場の人間が、上の判断に手を出すな」
「……上?」
レンが歯を食いしばる。
「上ってなんだよ」
ヴァルクは答えない。
代わりに、ゆっくりとレンを解放する。
レンは床へ片手をつきながら、すぐには立てない。
悔しさで顔が熱くなっているのが離れていてもわかった。
ヘイズが低く言う。
「何が目的だ」
ヴァルクはようやくヘイズへ向き直る。
「流れの最適化だ」
あまりにも平然とした答えだった。
「不良品の排除。不要な工程の切断。旧式搬送の見直し。効率の悪い区画構造の修正」
アリスには全部の意味はわからない。
でも、その並びだけで十分に嫌なものを感じる。
排除。
切断。
修正。
それは部品に使う言葉だ。
人や区画に向けて使うような言葉ではない。
ヘイズが眉をひそめる。
「旧式搬送?」
「工房A区画も含まれる」
ヴァルクは平坦に言った。
「個別修理と手作業を前提とした流れは、不安定だ。今の街には向かない」
その一言で、レンが顔を上げる。
「なんだと」
「事実を述べている」
「工房A区画の人間がどれだけ回してきたと思って――」
「回っていないから、今こうなっている」
ヴァルクの言葉が、レンの言葉を真っ二つに切る。
工房の中に、見えない刃が入ったみたいだった。
アリスは初めて、この男が“街の敵”であると同時に、“この街の理屈そのもの”でもあるのだと思った。
ただ悪いことをしているのではない。
自分が正しいと、本気で信じている。
それが一番厄介だった。
「……壊してる」
気づけばアリスは口を開いていた。
ヴァルクの視線が向く。
乾いた目。
「この街、壊してる」
アリスは言う。
「止まってる。いっぱい。音も変。火も、水も」
自分でもうまく言葉にならない。
でも、黙っていられなかった。
「それで、変えるっていうの」
ヴァルクは数秒、無言だった。
その沈黙が妙に長く感じられる。
やがて、小さく言う。
「違う」
「……何が」
「壊れているものを、切り分けているだけだ」
ぞっとした。
その言い方は、死んだ枝を落とすみたいに当たり前だった。
アリスの手が震える。
「人がいるのに」
「人がいるからだ」
ヴァルクの返答は、あまりに迷いがなかった。
「止まった街の中では、もっと多くが巻き込まれる」
「でも!」
「優先順位の話だ」
その言葉で、アリスはこの男と自分たちが決して噛み合わないのだと悟った。
見ているものが違う。
同じ街を見ているのに、見えているものが違う。
自分たちには、閉じ込められた人の顔や、火が弱くなったと困る女たちの顔が見える。
ヴァルクには、それらが“流れの滞り”としてしか見えていない。
ヘイズが一歩前へ出た。
今度は明確に、レンとアリスを庇う位置だ。
「もう十分だろ」
ヴァルクはその動きを見て、ほんのわずかに目を細めた。
初めて、何かを品定めするような色がそこに宿る。
「お前は、理解が早い」
「褒められてる気はしないな」
「褒めていない」
ヴァルクは工房の奥へ一歩、二歩と歩く。
棚。
机。
積まれた不良品。
置かれた工具。
その全部をゆっくり見ていく。
まるで工房そのものを査定しているようだった。
「工房A区画の中で、ここだけだ」
ヴァルクが言う。
「ここだけが、区画の外まで見始めている」
レンが低く返す。
「見えたんだよ、勝手に」
「見えたものを拾ったのはお前たちだ」
ヴァルクは机の上の部品を指先で軽く押す。
「そして、集め、比べ、繋げた」
その言い方が、罪状の読み上げみたいに聞こえた。
ヘイズが聞く。
「それで」
「それで?」
「何をする」
ヴァルクは答えた。
「調整する」
その言葉の意味は、アリスにももうわかった。
良いものではない。
修理でも補修でもない。
都合の悪いものを、都合のいい位置へ置き直すための言葉だ。
「ヘイズ」
ヴァルクが名を呼ぶ。
「同行してもらう」
一瞬、工房の中の時間が止まる。
アリスの思考も止まる。
レンが真っ先に反応した。
「は!? ふざけんな!」
巡回の二人が同時に動く。
武器が向けられる。
レンが歯を食いしばる。
ヘイズは逃げなかった。
ただ、その場でヴァルクを見ている。
「拒否権はない」
ヴァルクの声は変わらない。
「区画外の情報収集、監察対象設備への干渉、未登録部品の収集と保管」
「適当に並べてるだけだろ」
レンが叫ぶ。
「助けたことまで罪にすんのかよ!」
「必要ならそうなる」
その返しに、レンの顔色が変わる。
アリスは初めて、本気でこの男を殴りたいと思った。
怖いとか、嫌だとかよりも先に、怒りが立つ。
でも、何もできない。
レンもさっき一瞬で制圧された。
ヘイズが動けば、巡回二人も同時に来る。
この空間で本気でやり合えば、勝てない。
それがわかるから余計に悔しい。
「……調整って何」
アリスの声が震える。
ヴァルクが視線だけを向ける。
「知る必要はない」
「あるよ」
アリスは自分でも驚くほどはっきり言った。
「その人を連れていくなら、ある」
ヴァルクは数秒、黙ってアリスを見た。
その目に、初めてはっきりした興味が宿る。
「感じ取るだけではなく、口にもするか」
褒められたのではない。
珍しい道具を見つけたときみたいな言い方だった。
それがたまらなく気持ち悪い。
「その感じ方は、街ではあまり賢くない」
「……」
「見えても、言わない方が長く生きられる」
それは忠告の形をしていた。
でも、中身は脅しだった。
ヘイズが低く言う。
「アリス」
止めようとしたのだろう。
けれどアリスは引かなかった。
「この街の音が変なんだよ」
ヴァルクの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「ずっと変」
アリスは続ける。
「部品も、圧も、流れも。みんな少しずつ。でも、わざとみたいに」
沈黙。
レンもヘイズも、もう口を挟まなかった。
ヴァルクが静かに言う。
「面白い」
その一言で、アリスの背中が冷たくなる。
「そういうのは」
ヴァルクは少しだけ首を傾ける。
「ここでは壊れやすい」
意味を理解するより先に、レンが動いた。
「てめえ――!」
今度こそ、完全に殴りかかる勢いだった。
だが、その瞬間。
巡回の一人の武器が火花のような音を立てる。
バチッ!
青白い閃光。
レンの身体が一瞬だけ硬直し、床へ膝をついた。
「っ、あ……!」
アリスが息を呑む。
大怪我ではない。
でも、まともに動ける状態ではなくなる程度の衝撃。
ヴァルクは眉ひとつ動かさない。
「無駄だ」
その一言が、あまりにも冷たかった。
ヘイズが前へ出る。
「やめろ」
今までで一番低い声だった。
工房の空気そのものが沈むような、重い声。
ヴァルクはヘイズを見る。
二人のあいだに、言葉ではない緊張が走る。
その短い沈黙のあとで、ヘイズは言った。
「……行けば、二人は放っておくんだな」
レンが顔を上げる。
「ヘイズ!」
「黙ってろ」
ヘイズは視線を外さないまま続ける。
「アリスにもレンにも手を出さない。それなら行く」
アリスの喉が詰まる。
「だめ」
声が出る。
「だめだよ」
ヘイズはその声に、初めて少しだけ表情を動かした。
わずかに目元が緩む。
けれど、それは安心させるための変化ではない。
覚悟を決めた人間の顔だった。
「見るなとは言わん」
小さく言う。
その言葉に、アリスの胸が痛くなる。
ヴァルクが短く答える。
「協力的で助かる」
レンが歯を食いしばる。
「協力じゃねえだろ……!」
「結果として同じだ」
またその言葉だ。
結果。
効率。
流れ。
ヴァルクの中では、それ以外が全部切り捨てられている。
巡回の二人がヘイズの両脇へ立つ。
拘束具のようなものが取り出される。手首を完全に縛るものではない。だが、圧線か何かが通っているのか、光を受けて鈍く反射していた。
アリスの中で、何かがふっと熱くなる。
嫌だ。
連れていかれる。
このままだと、全部向こうの思い通りになる。
その瞬間、工房の奥に置かれていた小さな携帯灯が、ふっと明るさを揺らした。
ヴァルクの視線が動く。
アリスも息を呑む。
工房の空気が、一瞬だけ変わった気がした。
低い振動が近くなる。
耳の奥が、水の中に入ったみたいにぼやける。
アリスの胸の中心が熱い。
何かが、触れようとしている。
森で感じたものに似ている。
でも、まだ遠い。
掴めない。
その揺れはほんの一瞬で消えた。
携帯灯も元に戻る。
けれど、ヴァルクは確かにそれを見ていた。
乾いた目の奥に、初めて警戒に似たものが宿る。
「……やはりそうか」
小さく呟く。
アリスの背中が冷える。
何を“やはり”と思ったのかはわからない。
でも、見られてはいけない何かを見られた気がした。
ヘイズも、それに気づいたのだろう。
顔色がわずかに変わる。
そして、その変化を隠すように言う。
「行くぞ」
巡回に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのかわからない。
でも、そこで完全に決まった。
ヴァルクが踵を返す。
「連れていけ」
ヘイズが工房の扉へ向かう。
抵抗はしない。
ただ、その前にアリスの方を一度だけ見た。
言葉はない。
でも伝わる。
“止まるな”
たぶん、そういう目だった。
レンは床に膝をついたまま、拳を握っている。
アリスは一歩も動けない。
扉が開き、外の灰色の光が差し込む。
ヘイズの背中が、その向こうへ消えていく。
そして――
工房の外で、何かがぶつかる大きな音がした。
ガシャッ!
全員の動きが止まる。
通りの向こうから怒号。
「止まれ!」
「何やってんだ!」
ヴァルクが即座に振り向く。
巡回の一人が外を見る。
その一瞬の隙を、レンは逃さなかった。
まだ完全に痺れが抜けきっていないのに、床を蹴るように立ち上がる。
近くにあった工具箱を、巡回の足元へ蹴り飛ばす。
金属が散る。
ガチャガチャと大きな音。
巡回が反射的に視線を落とす。
ヘイズがその一瞬で腕を振る。
拘束具を完全に締められる前だったのだろう。片手が自由に動く。その肘が巡回の顎へ入り、男がよろめく。
ヴァルクが動く。
速い。
だが、今度はヘイズも速かった。
工房の扉を完全に閉めるのではなく、逆に半端に押し返して通路を狭くする。ヴァルクが踏み込む角度を殺し、その前にレンが倒れ込むように滑り込んで足元の金具を払い落とす。
工房の狭さが、初めてこちらに味方した。
「裏だ!」
ヘイズが叫ぶ。
アリスは一瞬意味がわからなかったが、すぐにレンがこちらへ走ってくる。
「行くぞ!」
腕を掴まれる。
工房の奥――寝台のある部屋のさらに奥、普段ほとんど使われていない棚の裏へ引っ張られる。
そこには、細い扉があった。
アリスは初めて見る。
「これ……」
「質問してる場合じゃねえ!」
レンが扉を蹴るように開く。
冷たい空気が流れ込む。
裏路地だ。
工房の背面、管と廃材のあいだを通る、狭くて暗い通路。
アリスは振り返る。
ヘイズはまだ工房の入り口側にいる。
ヴァルクと、真正面から向き合っていた。
「ヘイズ!」
叫ぶ。
ヘイズがこちらを見ずに言う。
「行け!」
その声は、怒鳴り声ではない。
決定だった。
レンがアリスの腕を強く引く。
「行くぞ!」
「でも!」
「今はだめだ!」
その瞬間、工房の入り口側で鈍い音がした。
ヴァルクの一撃か、ヘイズの反撃か、アリスには見えなかった。
見えたのは、ヘイズの足元から工具が散るのと、ヴァルクの灰色の上着が一歩も引かないことだけだった。
強い。
ヘイズも強い。
けれど、ヴァルクは別の種類の強さを持っている。
迷いがない。
“止める”ための体の動きが、あまりに完成されている。
それを見た瞬間、アリスは理解してしまう。
今ここで踏みとどまれば、三人とも終わる。
レンがもう一度、強く引いた。
「アリス!」
その声で、アリスはようやく裏路地へ足を踏み出した。
扉が閉まる。
工房の音が、一気に遠くなる。
でも完全には消えない。
裏からでも聞こえる。
鈍い衝突音。
怒声。
金属がぶつかる音。
そして、工房の中で何かが倒れる気配。
アリスの胸が引き裂かれるように痛む。
レンは迷わず走る。
狭い裏路地を、管のあいだを縫うように。
アリスも必死でついていく。
息が苦しい。
足元は悪い。
それでも止まれない。
一度だけ振り返ると、工房の屋根の上に、白い蒸気が短く噴いたのが見えた。
それが何を意味するのかはわからない。
でも、もう戻れないことだけはわかった。
⸻
どれくらい走ったのかわからない。
やがてレンがようやく足を止めたのは、工房A区画のさらに外れ、使われなくなった搬送路の陰だった。
壁沿いの管から漏れる熱で、空気はぬるい。
だが、工房の中よりずっと冷たく感じる。
レンが壁に手をつき、大きく息を吐く。
アリスもその場でしゃがみ込みそうになりながら、どうにか踏みとどまる。
「……ヘイズ」
声が掠れる。
レンはすぐには答えなかった。
歯を食いしばり、握った拳を震わせている。
「……最悪だ」
低い声。
「マジで、最悪だ……」
その言葉の中に、怒りと悔しさと、自分を責める気持ちが全部混ざっていた。
アリスの胸の奥も同じようにぐちゃぐちゃだった。
ヘイズを置いてきた。
自分たちは逃げた。
それが正しかったのかどうかなんて、今は考えたくもない。
でも、逃げなければもっと悪かったかもしれない。
そう思うしかない。
レンが壁を殴る。
鈍い音。
痛みなんて気にしていないみたいに、もう一度殴ろうとして、止めた。
「……取り返す」
低く言う。
アリスが顔を上げる。
レンの目は、もう迷っていなかった。
「絶対」
その声に、アリスは小さく頷く。
「うん」
短い返事。
でも、それで十分だった。
ヘイズを取り戻す。
ただ、それだけが次に進む理由になっている。
レンが息を整えながら言う。
「戻る」
「え」
「工房じゃねえ」
レンは首を振る。
「裏の倉庫。ヘイズが使ってる予備の場所がある」
アリスは目を見開く。
「そんなの、あるの」
「ある。全部が全部、あの工房に置いてあると思うなって言われてた」
その言い方に、アリスは初めて少しだけ息が戻るのを感じた。
ヘイズは、最初から今日みたいな日を想定していたのかもしれない。
そう思うと、苦しくなると同時に、ほんの少しだけ道が見えた気がした。
レンが続ける。
「たぶん、何か残してる」
「何か」
「わかんねえ。でも、あの人が何も考えずに連れていかれるとは思えない」
その言葉は、祈りにも近かった。
アリスもそう思いたかった。
ヘイズはただ奪われたのではない。
きっと、次へ繋ぐ何かを残している。
そうでなければ、このまま終わってしまう。
レンが歩き出す。
アリスも立ち上がる。
裏路地の向こう、見慣れない工房の屋根と煙突の隙間に、中央塔の上部がかすかに見えた。灰色の空を背に、白い光がわずかに脈打っている。
あの塔。
ヴァルク。
監察局。
工房B区画の停止。
全部が、一つの流れの中にある。
アリスは歩きながら、自分の胸の奥にさっき一瞬だけ揺れた熱のことを思い出していた。
工房でヘイズが連れていかれそうになった瞬間。
携帯灯の光が揺れ、音がぼやけ、何かが自分の内側から触れようとした。
あれは何だったのか。
まだわからない。
でも、ヴァルクは気づいた。
“やはりそうか”と言った。
なら、あの男は自分について何かを知っているのかもしれない。
そのことが新しい恐怖になって、アリスの背中へ張りつく。
けれど、もう止まれない。
見ないふりをするには、失ったものが大きすぎる。
レンが振り返る。
「行けるか」
アリスは頷く。
「うん」
短い返事だった。
それでも、その声は前より少しだけはっきりしていた。
この日、この瞬間から。
アリスはもう、ただ守られる側ではいられなくなる。
あなたにとって強さとはなんでしょう。
力があること?頭が良いこと?
答えが出てきそうでなんだかあやふやですね。
そんなことを考えながら今日も生きています。




