第97話:旧世界の王
玉座の間には、血の匂いと、静かな魔族たちの呻き声、そして、真実を知ってしまったレオの深い絶望が漂っていた。
彼の心の中では、これまで築き上げてきた全ての価値観が、音を立てて崩壊していく。
そして、その瓦礫の中から、新たな感情が芽生え始めていた。
それは、国王たちへの、激しい怒りだった。
レオの全身は、まるで氷漬けになったかのように冷え切り、頭の中は嵐のように荒れ狂っていた。
アルスが国王たちに殺されたという事実、そして「空白の10年間」の真実。
それらは、彼の信じてきた「正義」を木っ端微塵に打ち砕いた。
魔王は、血だまりの中に横たわったまま、再びその瞳にかすかな光を宿した。
その視線は、レオの動揺を見透かすかのように、深く、しかし静かに彼を捉えていた。
魔王の口元が、わずかに動いた。
か細い声が、再びレオの意識に直接語りかけてくる。
「……まだ……
終わりでは……ない……」
その言葉は、レオの凍りついた心に、わずかながらも熱を灯した。
魔王は、まだ何かを伝えようとしている。
レオは、その声に導かれるように、再び魔王の顔を覗き込んだ。
魔王の瞳の奥で、かすかな炎が揺らめいているように見えた。
それは、瀕死の体から絞り出される、最後の、そして最も重要な真実を語ろうとする、強い意志の現れだった。
魔王は、震える左手をゆっくりと持ち上げ、レオの胸にそっと触れた。
その指先から、再び温かい光が放たれ、レオの全身に流れ込んだ。
それは、先ほどの記憶の転送魔法よりも、はるかに深く、強烈な感覚だった。
レオの意識は、再び激しい渦に巻き込まれ、今度はさらに深淵な記憶の回廊へと誘われた。
目の前に広がるのは、遥か昔の光景だった。
まだ人間と魔族が、争いではなく、共存していた時代。
そこには、平和に満ちたアースガルド大陸の姿があった。
人間と魔族が共に学び、共に働き、共に笑い合う姿が映し出される。
そして、その中心に、一人の王が立っていた。
その王は、魔王だった。
しかし、それは、レオが知る今の魔王の姿とは異なっていた。
堂々として、威厳に満ち、そして、何よりも民を深く愛し、世界全体を統治する、旧世界の正当な王の姿だった。
その王の記憶が、レオの脳裏に直接語りかける。
それは、誇り高く、そして少し寂しげな声だった。
「……我こそが……この世界の……正当な王であった……」
レオは、息を呑んだ。
魔王が、かつてこの世界の王であったという事実。
それは、彼の脳内で、これまでの歴史認識を根底から揺るがした。
魔族は、常に人類の敵であり、排除されるべき存在だと教えられてきた。
しかし、目の前の記憶は、その全てが偽りであったことを示唆していた。
魔王の記憶は、さらに深く、暗い真実を映し出した。
平和な時代が終わりを告げ、次第に権力への欲望に囚われた者たちが現れる。
彼らは、現在の五大陸の国王たちの祖先であり、旧世界の魔王の元で、忠誠を誓っていたはずの者たちだった。
しかし、彼らの心には、魔王の存在が邪魔なものとして映るようになっていた。
彼らは、裏で手を組み、策略を巡らせ、旧世界の魔王を陥れる計画を練り始めたのだ。
裏切りと陰謀の映像が、レオの脳裏を駆け巡る。
「……奴らは……
我を……裏切り……追放した……」
魔王の声は、その記憶の中の痛みをそのままレオに伝えた。
信じていた部下たちに裏切られ、信頼していた臣下たちによって王の座を追われ、追放される魔王の姿が鮮明に映し出された。
その裏切りは、あまりにも残酷で、あまりにも非道だった。
そして、その追放の裏で、さらに恐ろしい計画が実行されていた。
「……そして……偽りの歴史を……
作り上げたのだ……」
魔王の記憶は、国王たちがどのようにして「空白の10年間」を作り上げ、真実の歴史を抹消し、都合の良い偽りの歴史を人々に刷り込んでいったかを詳細に示した。
彼らは、旧世界の魔王を悪として祭り上げ、人間と魔族の間に深い溝を作り出したのだ。
人々は、その偽りの歴史を真実と信じ込み、魔族を憎むようになった。
さらに、魔王の記憶は、レオにとって最も衝撃的な事実を突きつけた。
「……勇者育成学校は……
その偽りの歴史を……
刷り込むための……機関……」
レオは、息が止まるかと思った。
彼が、幼い頃から通い、人生の全てを捧げてきた勇者育成学校。
そこで教えられた全てが、偽りだったというのか。
勇者たちは、正義の執行者ではなく、国王たちの手駒として利用されていたに過ぎないというのか。
「……お前たち……
勇者は……手駒だったのだ……」
魔王の声は、苦しみに満ちながらも、揺るぎない真実を語った。
レオの脳裏には、訓練の日々、師からの教え、仲間との絆、そして魔族を討伐するという大義が、全て虚構であったという絶望的な現実が叩きつけられた。
彼が、信じてきた世界の全てが、偽りで塗り固められたものだったのだ。
レオの思考は、完全に停止した。
これまでの人生が、まるで砂上の楼閣のように崩れ去る。
彼は、何のために戦ってきたのか。
誰のために命を懸けてきたのか。
全てが、無意味に思えた。
彼の心は、激しい衝撃と絶望によって、完全に麻痺していた。
裏切り、虚偽、そして利用。
その全てが、レオの心を激しく揺さぶり、彼を深い混沌の中へと引きずり込んだ。
魔王の意識は、再びゆっくりと遠ざかっていった。
転送魔法の光が消え、レオの意識は、再び玉座の間に戻された。
しかし、彼の脳裏には、旧世界の真実、国王たちの裏切り、そして勇者育成学校の真の目的が、深く、深く刻み込まれていた。
レオは、その場に崩れ落ちた。
地面に倒れ伏した彼の瞳は、虚ろで、何も映していなかった。
涙も枯れ果て、ただ深い絶望だけが、彼の心を支配していた。
セレーネの死、エリックとの決裂、アルスの真実、そして今、魔王が語った世界の根源的な欺瞞。
その全てが、レオの心を蝕み、彼を深い闇の底へと引きずり込んでいた。
親衛隊の魔族たちは、レオの絶望的な姿を静かに見守っていた。
彼らの瞳には、同情と、そして、レオがこの真実をどのように受け止めるのか、という静かな期待が入り混じっていた。
彼らは、レオが、この絶望を乗り越え、真実の先にある未来を選び取ることを、心の底から願っているかのようだった。
玉座の間には、深い静寂が満ちていた。
それは、血の匂いと、死の気配、そして、一人の勇者の心が完全に打ち砕かれたことを示す、重く、沈痛な静寂だった。
レオの心の中では、これまで信じてきた「正義」が、跡形もなく消え去っていた。
しかし、その虚無の奥底で、何かが芽生え始めていた。
それは、偽りの世界を打ち破り、真実を取り戻すための、新たな決意の萌芽だった。




