第91話:引き裂かれる心
光り輝くエリックの剣が、唸りを上げて振り下ろされる。
その軌道は寸分の狂いもなく、バランスを崩してよろめく魔王の頭上へと、真っ直ぐに吸い込まれていくようだった。
セレーネの口元は、最後の最大魔法の詠唱を紡ぎ続け、その杖の先からは、微かな光の粒子が生まれ始めていた。
万感の思いが込められた、世界を救うための一撃と、それを補完する魔法。
レオは、剣を振り下ろそうとするエリックの背中を、震える体で見つめていた。
その震えは、全身の筋肉が強張っている証だった。
凍りついたように動かない手足、喉はカラカラに渇き、声を出そうとしても言葉は詰まったままで、肺から空気が絞り出されるような音しか出ない。
このままでは、魔王は討たれる。
そして、それが、世界にとっての「正義」なのだ。
(違う……っ!)
レオの心の奥底から、叫びが湧き上がる。
頭の中では、いくつもの光景が、まるで走馬灯のように駆け巡っていた。
目の前に倒れ伏さんとする魔王の姿。
その漆黒のローブは引き裂かれ、露出した白い肌に、かすり傷とはいえ、生々しい傷跡が刻まれている。
しかし、レオの視線は、その傷跡ではなく、魔王の瞳に吸い寄せられた。
瀕死の魔王の奥底に宿る、あの、かすかな光。
それは、レオが魔王と初めて対峙したときに感じた、深い孤独と悲しみの色だった。
それが、今、絶望の色を帯びて、最後の輝きを放っている。
おぞましい怪物でも、残忍な魔物でもない。
そこにいるのは、人間と同じ血を流し、痛みを感じ、そして深い感情を抱いている、一人の「存在」なのだ。
その光景に重なるように、リリスの顔が脳裏に浮かぶ。
彼女の優しい笑顔、そして、涙に濡れた瞳。
魔王城で共に過ごした日々、そして、魔族が「絶対悪」ではないという、衝撃的な真実を語ってくれた彼女の言葉が、レオの耳元で木霊する。
リリスは言った、「人間と魔族の間には、あなたたちが知らない真実がある」と。親衛隊長ゼノンも、己の信念と誇りをかけて戦っていた。
彼らの姿は、レオがこれまで信じてきた「魔族=悪」という固定観念を、根底から覆していた。
もし、魔王が、そして魔族が、本当に悪ではないとしたら……?
もし、彼らにも、守りたいものがあり、悲しい過去があるとしたら……?
(このまま……殺してしまって、本当に良いのか……?)
疑問が、レオの心を激しく揺さぶる。
しかし、その疑問を打ち消すかのように、アルスの笑顔が、レオの脳裏をよぎった。
屈託のない、いつものアルスの笑顔。彼らの旅の途中、共に笑い、共に語り合った、かけがえのない日々。
そして、魔族との壮絶な戦いの中で、無念にも散っていったアルスの最期の姿。
アルスは、世界に平和をもたらすという、揺るぎない信念を胸に抱いて、命を賭して戦った。
その犠牲の上に、今、彼らはここに立っているのだ。
アルスの死は、レオたちの胸に深く刻まれた、決して忘れることのできない痛みだった。
もし、この魔王を討たなければ、アルスの犠牲は、一体何だったというのか……?
隣では、セレーネが、最後の魔力を振り絞って、詠唱を続けている。
その顔は、疲労困憊で蒼白だが、その瞳には、世界を救うという、燃えるような意志が宿っていた。
彼女は、癒やしの魔法使いとして、そして勇者として、誰よりも人々の痛みに寄り添い、平和を願ってきた。
彼女は、迷いなく、この戦いを終わらせるために、全身全霊を捧げようとしている。
その純粋な強さ、ひたむきな覚悟は、レオの心を締め付けた。
彼女を、そして世界を救うためには、この魔王を討たねばならない。
セレーネの強さと、その根底にある優しさが、レオの良心を激しく突き刺す。
そして、何よりも、目の前で剣を振り下ろそうとしている、親友エリックの背中。彼の剣は光り輝き、その全身からは、正義の炎が立ち昇っているかのようだった。
エリックとは、幼い頃からの親友だ。
共に剣の道を志し、共に苦しい修行を乗り越え、共に勇者となった。
彼の純粋なまでの正義感、どんな困難にも決して屈しない強靭な精神力。
レオは、エリックのその「熱い友情」に、何度も支えられてきた。エリックは、今、揺るぎない信念を持って、世界を救う英雄となろうとしている。
もしここでレオが彼を止めるようなことをすれば、エリックのこれまで信じてきた全てを否定することになるのではないか。
彼の正義を、彼の信念を、裏切ることになるのではないか。
その思いが、レオの胸を締め付け、呼吸すらも困難にさせた。
もしここで魔王を討てば、彼らは、世界を救った「英雄」として、盛大な歓迎を受けるだろう。
人々は歓喜し、その功績は歴史に刻まれる。長きにわたる魔族との戦乱は終わりを告げ、平和な時代が訪れる。
それは、彼らが、そして世界中の人々が望んできた、最高の結末のはずだった。
しかし、本当にそれで良いのか?
リリスの涙、魔王の言葉。彼らが語った真実。それらは、レオの心に深く根を下ろし、簡単に拭い去ることができない。
もし、この「正義」が、一部の真実を隠蔽し、新たな悲劇を生むものだとしたら……。
その可能性が、レオの魂を引き裂くような痛みに苛んでいた。
全身の筋肉が、まるで石のように強張っていた。
足は地面に縫い付けられたかのように動かず、指一本すら動かせない。
喉は、乾ききった砂漠のようにカラカラで、息を吸い込むことすらままならない。
声を出そうとしても、その場で言葉は詰まったままで、誰にも届くはずのない、掠れた音しか出てこない。
視界は、エリックの振り下ろされる剣の光と、魔王の絶望に満ちた瞳、そしてセレーネの詠唱の光に満たされ、まるで時間が引き伸ばされたように感じられた。
動け。叫べ。止めろ。
いや、このまま見届けろ。
いくつもの声が、レオの頭の中で木霊する。
だが、彼の身体は、そのどれにも応えることができなかった。
彼の魂は、二つの矛盾する真実の間で、無残にも引き裂かれていた。
エリックの剣が、魔王に届く、その寸前まで、レオはただ、その光景を震える身体で見つめることしかできなかった。




