第90話:エリックの剣
セレーネが枯渇寸前の魔力を最後の最後まで振り絞り、渾身の魔法を放った。
彼女の杖の先から放たれる光は、もはや一つの塊となり、夜空の太陽のように輝きを増しながら、魔王へと向かって解き放たれた。
その光は、広大な魔王の間に満ちていた闇と重圧を一瞬で吹き飛ばし、全てを浄化するかのごとく、魔王を飲み込まんとした。
ドゴォォォォォンッ!
天地を揺るがすような轟音が響き渡り、魔王の間全体が激しく震える。
セレーネの最大魔法が、想像を絶する力で魔王を襲った、かに見えた。
しかし、間一髪のところで、魔王の身体が閃光のように横へ薙いだ。驚異的な反応速度だった。
魔王は、その魔法の直撃を避けたものの、光の奔流は、その漆黒のローブの片袖をかすめ、白い肌を焼いた。
「ぐっ……!」
魔王から、人間と同じ、苦悶の声が漏れた。
避けたとはいえ、その威力は尋常ではなく、かすり傷でさえ、魔王の強靭な肉体に深いダメージを与えたようだ。
その衝撃で、魔王の体勢が大きくバランスを崩した。
長きにわたる激しい戦いで、満身創痍となっていた魔王にとって、この一瞬の隙は致命的だった。
その瞳に宿る悲しみの光は、今や絶望の色を帯びて揺らいでいる。
エリックは、この絶好の機会を見逃さなかった。
(今だ……!
これで、すべてを終わらせる……!)
彼の肩の傷は痛み、全身は疲労で限界を迎えていた。
しかし、その瞳には、かつてないほどの鋭い光が宿っている。
彼は、手にする剣を高々と振り上げた。彼の剣は、セレーネの放った光の余韻を吸い込んだかのように、眩い輝きを放ち始める。
その剣は、勇者として、長きにわたり魔族と戦い続けてきた彼の、全てを賭けた一撃となる。
その剣は、世界を救う「正義」の象徴だった。
「はああああああっ!」
エリックの咆哮が、広間に響き渡る。
彼の脳裏には、故郷を追われた人々、魔族に蹂躙され、平穏な日常を奪われた村々の惨状が鮮明に浮かんでいた。
そして、何よりも、大切な友であったアルスの、無念の死。
これまでの旅路で味わった、数え切れないほどの苦難と犠牲が、全てこの一撃に集約されていた。
魔王が、たとえ人間に見えようとも、この者がもたらした災厄の数々、そして魔族を統べる存在であることに変わりはない。
この一撃こそが、長きにわたる戦乱に終止符を打ち、世界に平和をもたらすための、最後の、そして最も重要な一撃なのだ。
エリックの顔には、長年の旅の終焉と、英雄となることへの揺るぎない決意が深く刻まれている。
疲労の色は隠せないが、その瞳には、揺るぎない使命感が宿っていた。
彼は、勇者として、この世界を救うために選ばれた者として、この役割を全うする覚悟を決めていた。
彼の剣は、人類の希望、そして正義の意志そのものだった。
「これで……終わりだ……!」
その言葉と共に、エリックは、光り輝く剣を、バランスを崩してよろめく魔王目掛けて、渾身の力を込めて振り下ろした。
セレーネは、その瞬間を固唾を飲んで見守っていた。
彼女は、すでに魔力をほとんど使い果たし、身体は震え、疲労困憊だった。
しかし、彼女の使命はまだ終わっていなかった。
エリックの放つ正義の輝きと、その剣に宿る覚悟を全身で感じ取りながらも、彼女は、残された最後の、最後の魔力を振り絞って、さらなる強力な魔法の詠唱を始めていたのだ。
(お願い……!
エリック……!
そして、私の……最後の……!)
彼女の脳裏には、世界が救われる未来の光景が広がっていた。
魔王が完全に消滅すれば、人々は恐怖から解放され、笑顔を取り戻すだろう。
そのために、自分は最後の最後まで戦い抜く。
彼女の唇は、祈るように呪文を紡ぎ、その杖の先からは、かすかに、しかし確かに、新たな光の粒子が生まれ始めていた。
エリックの剣が、魔王に届く、その直前に。
レオは、その光景を、ただ見つめていた。
彼の表情は、複雑な感情で揺れ動いていた。
エリックの剣に宿る「正義」の輝きも、セレーネの再度の魔法の詠唱に込める「世界を救う」という純粋な願いも、全てが偽りのないものだった。
彼らは、彼らなりの正義を信じ、命をかけて戦っている。
だが、倒れ伏さんとする魔王の瞳に宿る悲しみが、レオの心を締め付けた。
魔王は、本当に「絶対悪」なのだろうか。
その答えは、未だレオには見つけられない。
エリックの剣が、魔王にトドメを刺そうとする。
レオは、その一撃を止めることはできない。
いや、止めるべきではない。
勇者としてのエリックの正義は、世界にとって必要不可欠なものなのだ。
しかし、レオの心には、この先に、まだ知られざる真実が待ち受けている予感があった。
魔王の死は、一つの時代の終わりを告げるだろう。
だが、それは、レオの、そして世界の新たな旅の始まりに過ぎないのかもしれない。
彼の視線は、振り下ろされるエリックの剣と、静かにそれを受け入れようとする魔王の瞳の間で、激しく揺れ動いていた。




