第89話:覚悟
魔王の猛攻は、彼らを絶望の淵へと突き落とし、勇者たちはまさに敗北寸前だった。
エリックは肩の傷から血を流し、セレーネの魔力は底を尽きかけていた。
レオの剣もまた、魔王を完全に打ち倒すような殺意を帯びていないため、攻撃は空回りし、仲間を庇うのが精一杯だった。
魔王の放つ闇の波動が、彼らを玉座の足元へと追い詰める。このままでは、全滅する。
その予感が、冷たい水のように彼らの全身を駆け巡った。
「くそ……!
レオ、どうしたんだ!?」
エリックの焦燥に満ちた叫びが、広間に響く。
彼の瞳は、目の前の魔王と、どこか動きの鈍いレオを交互に捉えていた。
仲間を信じたい。
だが、拭いきれない疑念が、エリックの心に影を落とす。
レオの心の迷いが、この絶望的な状況を招いていることは、明白だった。
セレーネもまた、魔王の圧倒的な力に、膝をつきそうになっていた。
しかし、彼女の瞳は、決して諦めてはいなかった。
その視線は、かすかに揺らぐレオの背中を捉え、そして、血を流しながらも魔王に食らいつこうとするエリックの姿に注がれる。
彼らを、この世界を、救う。
その強い意志が、セレーネの心を貫いた。
その時、魔王が放った一撃が、レオのすぐ横をすり抜け、壁を深く抉った。
その衝撃で、天井から古びた石片がバラバラと音を立てて落ちてくる。
その光景が、レオの心の奥底に眠っていた「仲間を守る」という、揺るぎない使命感を呼び覚ました。
リリスの言葉、魔王の寂しげな瞳……
それらも重要だ。
しかし、今、目の前で傷つき、命を危険に晒しているのは、共に旅をしてきた、かけがえのない仲間たちなのだ。
(俺が、迷っている場合じゃない……!
仲間を守る!
それが、今の俺の、最優先だ……!)
レオの瞳に、再び強い光が宿った。
彼は、魔王を殺すことへの抵抗は依然として残っていたが、仲間を救うためには、魔王を「無力化」する必要がある。
彼は、その目的のために、迷いを振り切る覚悟を決めた。
「エリック! セレーネ! 連携だ!
全てを、ここに注ぎ込むぞ!」
レオの声は、これまでの躊躇が嘘のように、力強く、広間に響き渡った。
その声には、再び仲間を導く、勇者としての覚悟が満ちていた。エリックとセレーネは、レオのその声に、希望の光を見た。
「わかった!」
エリックが、痛む肩を押さえながらも、力強く頷く。
「ええ!」
セレーネも、枯渇寸前の魔力を奮い立たせる。
勇者パーティーは、最後の力を振り絞り、再び盤石な連携を取り戻した。
レオは、魔王の攻撃の軌道を読み、そのわずかな隙間を狙って、牽制の斬撃を繰り出す。
彼の剣は、魔王のローブをかすめ、その動きをわずかに鈍らせた。
その瞬間を、エリックは見逃さなかった。
「はああああああっ!」
エリックは、全身の力を剣に込め、これまでで最も速く、最も重い一撃を魔王に叩き込んだ。
魔王は、レオの牽制によって生まれた一瞬の隙に、エリックの剣を捌ききれなかった。
剣は、魔王の漆黒のローブを切り裂き、その白い肌に浅く、しかし確実に傷を刻んだ。
魔王の肩から、一筋の血が流れ落ちる。人間と同じ、赤い血だった。
魔王の表情に、かすかな変化が表れた。
これまでの無感情な表情の奥に、一瞬だけ、微かな痛みの色が浮かび、そして、それからすぐに、かすかな諦めと、深い悲しみが浮かび上がったのだ。
その悲しみの表情は、レオの心に、再び強い衝撃を与えた。
魔王は、本当に「人間」であり、彼らと同じように痛みを感じ、感情を抱いているのだと、改めて認識させられた。
しかし、レオは、その感情を振り切った。
今は、仲間と共に、この戦いを終わらせることに集中しなければならない。
エリックの一撃が成功したことで、魔王の魔力の奔流が、わずかに乱れた。
セレーネは、この絶好の機会を見逃さなかった。
「今だ、セレーネ!」
レオが叫ぶ。
セレーネは、枯渇寸前の魔力を最後の最後まで振り絞り、渾身の魔法を放つ覚悟を決めた。
彼女の瞳には、世界を救うという、揺るぎない強い意志が宿っていた。
(この世界を守るために……!
みんなを守るために……!)
彼女の脳裏には、故郷の村の笑顔、旅の途中で出会った人々、そして、魔族の脅威に怯える市井の人々の顔が鮮明に浮かんでいた。
そして、何よりも、目の前で傷つき、自分を信じて戦い続けるレオとエリックの姿が。
彼女は、癒やしの魔法使いとして、そして勇者として、この戦いを終わらせる責任があると感じていた。
魔王が人間であろうと、その力が世界を脅かすのならば、それを止めるのが自分たちの使命なのだと。
セレーネの杖の先が、白い光を放ち始める。
その光は、徐々に輝きを増し、広大な魔王の間を包み込んだ。
それは、癒やしをもたらす光とは異なり、純粋な破壊の力を持つ、聖なる輝きだった。
彼女の全身の魔力が、一点に集中し、周囲の空気がビリビリと震え始める。
魔王は、肩の傷から血を流しながらも、その銀色の瞳でセレーネを見据えていた。
その表情は、依然として微かな悲しみを帯びているものの、その眼差しには、すべてを受け入れるかのような、静かな覚悟の色が宿っていた。
魔王は、セレーネの放とうとしている魔法が、自分に致命的な一撃となることを、理解しているかのようだった。
レオとエリックは、セレーネに時間稼ぎを与えるべく、再び魔王に猛攻を仕掛ける。
彼らの剣が、魔王の周囲を駆け巡り、牽制の嵐を巻き起こす。
魔王は、その攻撃を捌きながらも、セレーネの魔法が完成に近づいていることを感じ取っていた。
魔王の全身からは、最後の抵抗とばかりに、再び強大な魔力が噴き出すが、もはやその力は、以前のような絶対的なものではなかった。
彼らは、長きにわたる激しい戦いの中で、満身創痍となっていたのだ。
「今よ……!」
セレーネの絞り出すような声が、広間に響き渡った。
彼女の杖の先から放たれる光は、もはや一つの塊となり、夜空の太陽のように輝きを増している。
その光は、魔王を包み込み、そして、全てを浄化するかのごとく、魔王へと向かって放たれた。
最後の審判が、今、下されようとしていた。




