第88話:最終決戦
魔王の間には、重い静寂が張り詰めていた。
玉座に座る魔王の姿は、どう見ても人間そのもの。
その威厳ある姿、そして瞳に宿るどこか寂しげな光は、レオの心を激しく揺さぶっていた。
しかし、エリックとセレーネにとって、その衝撃的な「人間」の姿は、彼らが長年抱いてきた「魔王=絶対悪」という固定観念を、瞬時には打ち破るものではなかった。
「人間……だと?
まさか……」
エリックが呻くように呟いた。
彼の剣を握る手には、力がこもっている。
目の前の存在が、どれほど人間に見えようとも、これまでの旅路で味わった魔族の脅威、そしてアルスの死を考えれば、その「本質」が異質なものであることに変わりはないと、エリックは直感的に感じていた。
セレーネもまた、魔王から放たれる圧倒的な魔力に、全身が震えるのを感じていた。
彼女の魔法回路は、目の前の存在が持つ危険性を、警鐘を鳴らし続けている。
「姿はどうあれ、この魔力……
尋常じゃないわ!
気をつけて、二人とも!」
彼女の言葉が、広間に響き渡った。
理屈ではない。彼らの本能が、目の前の「人間」が、これまで出会ったどの魔族よりも強大な存在であることを告げていた。
長年、勇者として魔族と戦ってきた彼らの常識は、魔王がどのような姿であろうと、その邪悪な力の本質は変わらないと告げていた。
魔王が、人間を偽っている可能性も十分に考えられる。
彼らの心の中にある魔族への「絶対悪」という認識は、容易には覆されなかった。
エリックは、躊躇なく一歩踏み出した。
「姿かたちがどうであろうと、俺たちの敵であることに変わりはない!
この魔王のせいで、多くの人々の涙と血が流されたんだ! これで終わりだ、魔王!」
彼の咆哮と共に、エリックの剣が閃光を放ち、玉座に座る魔王目掛けて一直線に突き進む。
セレーネもまた、それに呼応するように、強力な光の魔法を放った。
彼女の杖の先から放たれた光の矢が、嵐のように魔王に降り注ぐ。
そして、魔王との最終決戦が始まった。
魔王は、エリックとセレーネの猛攻に対し、静かに、しかし絶対的な力で応じた。
玉座に座ったまま、その銀色の髪が、まるで生きているかのように揺らめく。
魔王が、緩やかに右手をかざすと、空間そのものが軋むような音が響き渡り、エリックの剣とセレーネの光の矢は、魔王の周囲に展開された見えない壁に阻まれ、霧散した。
玉座からゆっくりと立ち上がった魔王は、一歩足を踏み出すごとに、空間が震えるかのような重圧を放っていた。
その瞳は、依然として寂しげな光を湛えているものの、その全身からは、想像を絶するほどの魔力が溢れ出し、広大な魔王の間全体を、深い闇と重圧で満たしていく。壁の魔石が、その魔力に呼応して、不吉な輝きを放ち始めた。
「無駄な足掻きを……」
魔王の声が、広間に響き渡った。
その声には、一切の感情が籠められていない。
まるで、そこにいるのは、彼ら人間とは別の次元に存在する、絶対的な理のような存在であるかのようだった。
魔王は、手を振るうことなく、ただ空間の魔力を操るだけで、勇者たちに猛攻を仕掛けた。足元の赤い絨毯が、突如として黒い泥のように蠢き、レオたちの足を絡め取ろうとする。
天井からは、鋭利な氷の槍が無数に降り注ぎ、空気中を漂う埃さえもが、魔王の意のままに、刃となって襲いかかった。
エリックは、果敢に剣を振るい、迫りくる泥と氷の槍を切り裂く。
彼の剣技は、これまで以上に洗練され、命の危険に晒されながらも、魔王の攻撃の隙を見つけようと必死に抗っていた。
「くそっ、見えない……!
全方位から攻撃が来る!」
セレーネは、強力な魔法で仲間を守ろうとする。
彼女の光の障壁は、魔王の容赦ない攻撃の奔流に晒され、今にも砕け散りそうだった。
彼女は、回復魔法で仲間の傷を癒やしながら、反撃の隙を伺うが、魔王の攻撃は途切れることなく、彼らに思考する時間さえ与えない。
「魔王……
一体、どれほどの力を……!」
魔王の力は、圧倒的だった。
彼らは次第に追い詰められていく。
広大な魔王の間は、魔王の魔力によって、まるで彼らの動きを封じる檻のように変貌していた。
一歩動くごとに、足元から黒い泥が湧き上がり、視界のすべてが魔王の操る闇に覆い尽くされる。
レオは、魔王の攻撃から仲間を守りながらも、どこか動きが鈍かった。
彼の剣は、辛うじてエリックとセレーネを襲う攻撃を防ぐが、その一撃一撃には、魔王を本気で打ち倒そうとするような、確固たる殺意が宿っていない。
彼の脳裏には、魔王の瞳に宿っていた「寂しげな光」が焼き付いて離れない。
そして、魔王が人間であるという事実。
リリスが語ってくれた魔族の真実が、彼の剣を鈍らせていた。
(魔王が……本当に、悪なのか……?
あの瞳に、あんなにも深い悲しみを湛えた存在が……)
彼の心は、激しく葛藤していた。
仲間を守るという使命。
そして、魔王の真意を知りたいという探求心。
二つの思いが、彼の内側でせめぎ合い、その動きに迷いを生じさせていた。
エリックが、魔王の放った闇の刃からレオを庇い、その肩に深い傷を負う。
「レオ!
何をしているんだ!
本気で戦え!
このままじゃ、俺たちがやられるぞ!」
エリックの叫びが、広間に響き渡る。
その声には、焦燥と、そしてレオの不可解な動きに対する、微かな疑念が混じっていた。
エリックは、レオの迷いを感じ取っていた。
親衛隊長ゼノンとの戦いの時もそうだったが、レオは何かを隠している。
彼の心が、魔王との戦いを拒んでいるかのような、不自然な動きを、エリックは決して見逃さなかった。
レオが魔王城から生還したこと、そして以前とは比較にならないほど洗練された戦い方を身につけていること。
それらがすべて、レオが魔王と何らかの取り引きをした証拠なのではないか、という疑惑が、エリックの心の中で再び渦巻き始めていた。
レオは、エリックの傷つき、自分を叱咤する声を聞き、さらに深く心を痛めた。
仲間を守らなければならない。
だが、この「人間」の魔王を、一体どうすればいいのか。
魔王の攻撃は、容赦なく続き、彼らを魔王の玉座へと、ゆっくりと、しかし確実に追い詰めていく。
彼らは、絶望的な状況の中で、最後の抵抗を試みるが、魔王の圧倒的な力の前には、その抵抗も空しく、打ち砕かれていくのだった。




