第86話:死闘の末
親衛隊長ゼノン。
その存在は、大回廊に充満する魔王の魔力に呼応するかのように、圧倒的な威圧感を放っていた。
彼が構える漆黒の大鎌は、空間そのものを切り裂くかのような禍々しい輝きを帯び、レオ、エリック、セレーネの三人を絶望の淵へと突き落とそうとしていた。
しかし、彼らの間に再び固く結ばれた絆は、その絶望を打ち砕くための光となっていた。
「来るぞ!」
エリックの鋭い声が響き渡る。
ゼノンの最初の攻撃は、想像を絶するものだった。
漆黒の大鎌が一閃し、空間そのものが歪むような衝撃波がレオたちを襲う。
エリックはとっさに剣を構えて防ぐが、その衝撃は彼の腕を痺れさせ、足が数歩後退した。
セレーネは、ゼノンの全身から放出される膨大な魔力に、思わず息を呑む。
ディープアイの魔法とは比べ物にならないほどの、純粋な「力」が、彼女の魔法回路を焼き尽くさんばかりに迫ってくる。
「ライトシールド、マックスパワー!」
セレーネは、自身の魔力の全てを込めて、これまでで最も強固な光の障壁を展開する。
ゼノンの放つ魔力の奔流は、その障壁に激しくぶつかり、空間にひびが入るような音を立てた。
彼女の額には、汗がにじむ。
レオは、ゼノンの大鎌の動きを予測し、その懐に飛び込む。
彼の剣は、ゼノンの鎧のわずかな隙間、関節の継ぎ目を狙う。
しかし、ゼノンの動きは、ヘルナイトの比ではなかった。洗練され、無駄がなく、そして何よりも、レオの攻撃の意図を完全に読み切っているかのように、寸前のところで大鎌を翻し、レオの剣を弾き飛ばす。
「小癪な……!」
ゼノンの大鎌が、レオの剣を受け流すと同時に、反撃の軌道を描く。
その速さは、レオの反応速度をわずかに上回っていた。
レオは、ギリギリのところで身体を捻り、致命傷を避ける。
だが、その動きは、彼の体力を急速に消耗させていった。
死闘が始まった。
ゼノンは、圧倒的な膂力と、魔法と武技を組み合わせた予測不能な攻撃で、三人を翻弄する。
彼の漆黒の大鎌は、時には剛剣となり、時には魔力を纏った鞭のように広範囲を薙ぎ払い、レオとエリックを同時に牽制する。
セレーネの魔法は、ゼノンの強大な魔力に阻まれ、決定的な一撃を与えることができない。
ゼノンは、まるでレオたちの動きをすべて見通しているかのように、彼らの連携のわずかな隙を突き、それぞれの最も弱い部分を狙って攻撃を仕掛けてきた。
激しい戦闘が続く中で、レオの全身は汗にまみれていた。
ゼノンの攻撃は一瞬の油断も許さない。
剣を握る手も、汗で滑りそうになる。
一瞬の集中力の途切れ。
ゼノンの大鎌が、彼の剣を払う。その衝撃で、レオの手から、愛用の剣が滑り落ちた。
キン、と甲高い金属音を立てて、剣は石畳を滑り、数メートル先の闇の中へと消えていく。
「しまっ……!」
レオは、無防備になった自分の姿に絶望しかけた。
ゼノンの漆黒の大鎌が、すでに彼の首筋に狙いを定め、振り下ろされようとしている。致命的な一撃。
このままでは、確実に命を落とす。エリックとセレーネが、必死に叫びながらゼノンに攻撃を仕掛けようとするが、間に合わない。
その時だった。
レオにトドメを刺そうとしていたはずのゼノンの大鎌が、寸前のところで、ぴたりと動きを止めたのだ。
大鎌の刃は、レオの首筋のわずか数センチのところで静止している。
その瞳は、深淵の闇を湛えたまま、レオをじっと見つめていた。
広間に、ゼノンの声が響き渡る。
その声は、これまでのような機械的な響きではなく、明確な意思と、そして、ある種の「誇り」を帯びていた。
「剣を拾え、勇者よ」
レオの耳には、その言葉が信じられない響きとして届いた。
ゼノンは、攻撃の手を止め、彼に剣を拾うように促しているのだ。
「正々堂々と戦おう。
貴様は、その剣に宿る魂を信じる戦士だろう?」
ゼノンは、静かにそう告げた。
その瞳の奥には、リリスと同じような、彼らが信じるもののために命を懸ける「信念」だけでなく、戦士としての「誇り」が確かに宿っていた。
それは、人間が培ってきた騎士道精神にも似た、あるいはそれ以上に純粋な、戦いへの敬意だった。
(この魔族が……
誇りを持っている……?
人間と、同じように……?)
レオの心は、激しく揺さぶられた。
魔族は、人間を食らい、世界を滅ぼす悪の存在だと教えられてきた。しかし、目の前の親衛隊長は、その教えを根底から覆すような「誇り」を見せている。
リリスが言っていた、魔族の真実。
それは、彼らの内に、人間と変わらない、あるいはそれ以上の崇高な精神が存在するということなのか。
レオは、震える手で剣を拾い上げる。
その瞬間、彼の脳裏に、ゼノンを「傷つけずに無力化する」方法が閃いた。
彼は、この誇り高き魔族を、殺したくなかった。
リリスと同じ信念を持つ存在を、自分の手で葬りたくない。
だが、時間はなかった。
エリックとセレーネは、ゼノンの行動に驚きつつも、その隙を見逃さなかった。
彼らはゼノンの真意を知る由もなく、ただ目の前の敵を倒すことだけを考えている。
「こんな隙を逃すな、レオ!
セレーネ、援護!」
エリックが叫び、全速力でゼノンに肉薄する。
セレーネもまた、ゼノンの足元に、光の鎖を生成する魔法を放つ。
その鎖がゼノンの動きをわずかに拘束しようとする。
彼らは、レオの葛藤を知る由もなく、ただただ、仲間としての連携を信じ、ゼノンを追い詰めていく。
レオは、剣を構え、深く息を吐いた。
彼の心は、葛藤の嵐の中にあった。仲間を危険に晒すことはできない。
しかし、この誇り高き魔族を殺すことも……。
彼は、自分の信念と、仲間との絆の間で、深く引き裂かれる。
だが、彼に残された時間は少なかった。
ゼノンの「誇り」を尊重しつつ、仲間を守るという、二律背反の選択を迫られていた。
「ごめん……!」
レオの剣が、ゼノンに襲いかかった。
それは、彼の魂の叫びにも似た、複雑な感情を宿した一撃だった。
彼は、ゼノンの最も弱い部分、魔力の流れを司る魔石の周辺にある、鎧の継ぎ目を正確に狙った。
その剣には、殺意はない。
ただ、ゼノンを「戦闘不能」に追い込むだけの、純粋な力を込めていた。
ズガン、と鈍い音が響き、ゼノンの胸元の魔石に、レオの剣が深く突き刺さった。
ゼノンは、苦痛の声を上げ、その巨体が大きく揺らぐ。
彼の全身から、これまで放出されていた強大な魔力が急速に失われていく。
彼は、片膝をつき、漆黒の大鎌を地面に突き刺して、なんとか体勢を保っていた。
その瞳から、輝きが失われ、深淵の闇が、ただの虚ろな黒へと変わっていく。
レオは、剣を突き刺したまま、一瞬、躊躇した。
ゼノンの瞳は、もはや生気のない虚ろなものとなっていたが、彼の心には、依然として残る「誇り」の欠片を感じ取れたのだ。
このままトドメを刺すのか。
それとも……。
彼の心の中で、リリスの顔が、そして魔族の真実を求める心が、葛藤を生む。
その、わずかな、しかし決定的な躊躇の瞬間だった。
横から、稲妻のような速さで、エリックの剣が、ゼノンの首へと突き刺さった。
エリックは、躊躇なく、何の感情も挟まず、ただ目の前の敵を確実に仕留めるという、勇者の当然の行動として、ゼノンにトドメを刺したのだ。
ゼノンの巨体は、血を噴き出すこともなく、光の粒子となって、跡形もなく消滅した。
「よし!」
エリックが、剣を収めながら、満足げに呟いた。
彼の顔には、強敵を倒した安堵と達成感が浮かんでいた。
彼はレオのわずかな躊躇に気づかなかったか、あるいは気づいても気にも留めなかった。
レオは、一瞬、唖然とした。
自分が迷っていたほんの僅かな間に、エリックが、あっさりとゼノンを葬り去ったのだ。
彼は、自分が何のために躊躇し、葛藤していたのか、その意味を問われているかのような、複雑な感情に襲われた。
だが、すぐに彼は平静を装い、何事もなかったかのように剣を収めた。
エリックとセレーネには、彼の心の奥底に宿る感情を悟られてはならない。
セレーネは、ゼノンが完全に消滅したのを見て、ホッと息をついた。
「これで……
終わりね。
本当に、強かった……」
大回廊には、再び静寂が戻っていた。
しかし、その静寂は、親衛隊との激しい戦いを終え、魔王の間に続く最後の障壁を突破したという、確かな達成感を伴っていた。
三人は、傷ついた身体を引きずりながら、回廊の最奥へと歩みを進める。
そこには、荘厳な漆黒の扉が、彼らを待ち受けていた。
魔王の間に続く、最後の扉。その扉の先には、魔王、そしてアルスの真実が、彼らを待ち受けている。
彼らは、それぞれの胸に複雑な思いを抱きながら、新たな戦いの場へと向かうべく、その重い扉に手をかけた。




