第79話:最後の決意
魔王城の巨大な門をくぐった瞬間、冷たい風が彼らの頬を撫で、異界の空気が肌を粟立たせた。
石造りの広間は、広大で天井が高く、薄暗闇の中に不気味な静寂が満ちていた。
足音だけが響き、その反響が彼らの緊張感をさらに高める。魔王城の内部は、彼らが想像していた以上に、生気が感じられない場所だった。
その静寂を破るように、突如として左右の柱の影から、衛兵と思しき魔族たちが姿を現した。
彼らは、人間とは異なる異様な体躯と、血走った眼で獲物を狙うかのように、パーティーを凝視した。
その数、およそ十数体。彼らは何の躊躇いもなく、最も脆弱に見えるセレーネに狙いを定めた。
一体の衛兵魔族が、獣のような低い唸り声を上げ、その鋭い爪をセレーネ目掛けて振り下ろした。
その動きは素早く、セレーネが反応する間も与えない。
彼女の顔に恐怖が張り付き、思わず目を閉じる。
しかし、その攻撃は、セレーネに届くことはなかった。
「セレーネ、危ない!」
レオの声が、緊迫した空気を切り裂く。
彼の剣が、稲妻のように閃き、セレーネの鼻先、紙一重のところで魔族の爪を受け止めた。
ガキン、と金属がぶつかり合う鈍い音が響き渡り、火花が散る。
魔族の爪は、レオの剣によって弾き返され、攻撃は阻まれた。
レオは、その一撃を防ぎながら、深く息を吸い込んだ。
魔王城の門をくぐり、この内部に足を踏み入れた瞬間から、もう引き返すことはできない。
彼の中で、魔王城でのすべてを受け入れる覚悟が、明確に固まった。
リリスとの約束。アルスが追っていた真実。
そして、人間と魔族の間の未来。
これら全てが、この場所で彼を待ち受けている。
(俺は、もう迷わない)
レオの瞳に、揺るぎない決意が宿る。
彼の心は、これまでの葛藤と苦悩を乗り越え、一つの方向へと収束していた。
目の前の魔族は、彼がかつて命を奪うことに躊躇した存在だ。
しかし、今は違う。
ここで躊躇すれば、仲間が危険に晒される。
彼は、この場所で、彼が信じる「正義」を貫く覚悟を決めた。
たとえそれが、これまで彼が信じてきた「正義」と異なる形であったとしても。
「レオ……
ありがとう……!」
セレーネは、震える声でレオに感謝を伝えた。
間一髪で助けられたことに安堵しながらも、彼女の心は、レオの変わり果てたような、しかし力強い姿に戸惑いを覚えていた。
彼の剣の動きには、以前のような迷いが一切なく、そこには純粋な闘志が宿っていた。
エリックは、鋭い眼光で衛兵魔族たちを見据えていた。
彼の剣はすでに構えられ、いつでも攻撃に転じられる状態だ。
レオの行動に、彼は内心驚きを隠せないでいたが、今は目の前の敵に集中する。
「攻めるぞ、セレーネ!」
エリックが叫んだ。
セレーネは、エリックの言葉にハッと我に返り、魔法杖をぎゅっと握りしめた。
彼女の心臓は激しく脈打っていたが、レオとエリックの間に生まれた、一瞬の連携が彼女に勇気を与えた。
不安定だった魔力も、今は不思議と落ち着きを取り戻し、指先からかすかに温かい光が漏れている。
彼女は、来るべき戦いに備え、精神を集中させた。
「フレイムボルト!」
セレーネの杖の先端から、炎の塊が放たれ、衛兵魔族の一体に直撃した。
魔族は苦しげな声を上げて地面に倒れ込む。
彼女の魔法は、まだ完璧ではないが、以前よりも確実に力が戻ってきているようだった。
レオは、セレーネの魔法を合図に、一気に前へ踏み出した。
彼の剣は、流れるような動きで次々と魔族を打ち払い、正確に急所を捉えていく。
以前のような手加減は一切なく、その一撃一撃には、迷いを断ち切った者の力強さが宿っていた。
「グアァァァ!」
一体の衛兵魔族が、レオの剣に両断され、断末魔の叫びを上げて消滅した。
レオの表情は、依然として苦悶に歪んでいるが、その目はまっすぐに前を見据えている。
彼は、魔族の命を奪うことへの痛みを感じながらも、仲間を守るという使命を優先させていた。
エリックは、レオの戦いぶりに目を瞠った。
彼の剣は、以前にも増して鋭さを増しており、衛兵魔族たちを次々と打ち倒していく。
それは、エリックが知っている、かつての最強の戦士レオの姿だった。
しかし、その力強い動きの裏には、どこか悲痛な響きが感じられた。
エリックは、レオが何かを犠牲にして、この力を発揮しているのではないか、と直感的に感じ取っていた。
(レオ……
お前は一体、何と戦っているんだ?)
エリックの疑念は、完全に晴れたわけではない。
しかし、彼は、レオが今、自分たちと共に戦っているという事実を確かに感じていた。
そして、その戦いには、単なる魔族討伐以上の、深い意味が込められていることを理解し始めていた。
リルは、レオのポケットの中で、彼の剣の振るわれる振動に合わせて、かすかに震えている。
それは、恐怖の震えというよりも、レオの覚悟に呼応するような、力強い鼓動のように感じられた。
衛兵魔族たちは、勇者パーティーの猛攻に、徐々に数を減らしていく。
しかし、彼らは決して怯むことなく、執拗に攻撃を続けてきた。
魔王城の衛兵としての誇りか、あるいは結界の魔力による強制力か。
彼らは、人間を排除するという明確な意思を持って、レオたちに襲いかかっていた。
「セレーネ、回復を!」
レオの指示に、セレーネは素早く反応し、エリックに「ヒール」の魔法をかけた。
エリックの体に負った浅い傷が、みるみるうちに癒えていく。
彼女の魔法は、完全ではないものの、確実に効果を発揮していた。
三人は、それぞれの役割を果たす。
レオが最前線で敵の攻撃を防ぎ、強力な一撃で数を減らす。エリックは、その隙を突き、巧妙な剣技で敵を切り崩していく。
そしてセレーネは、彼らの傷を癒やし、時には援護の魔法で敵の動きを封じる。
かつてのような盤石な連携とは言えないものの、彼らは互いの存在を信じ、この戦いを乗り越えようとしていた。
激しい戦いの末、広間にいた衛兵魔族たちは、全て倒れ伏した。
静寂が再び戻ってくるが、それは勝利の静寂ではなく、次に待ち受けるであろう試練への、不気味な予兆に過ぎなかった。
レオは、剣の切っ先から血を振り払い、大きく息を吐いた。
彼の顔には疲労が滲んでいるが、その瞳の奥には、変わらぬ決意の光が宿っていた。
「行くぞ」
レオは、短い言葉で二人に告げた。
エリックとセレーネは、無言で頷いた。
彼らの心には、それぞれの思いが渦巻いている。
レオが隠している真実。
アルスが追っていた謎。
そして、この魔王城で待ち受けるであろう、人間と魔族の未来。
魔王城の内部へと続く通路は、まるで彼らを飲み込むかのように、どこまでも続いていた。
彼らは、それぞれの覚悟を胸に、闘いの火ぶたを切ったばかりのこの場所で、さらに深淵へと足を踏み入れた。
この先には、想像を絶する困難と、彼らの運命を左右する真実が待ち受けているだろう。
しかし、彼らはもう引き返すことはできない。
彼らは、勇者として、そして何よりも一人の人間として、この道を歩み続けることを選んだのだ。




