第77話:魔族の影
魔王城へ向かうというエリックの提案を受け入れた翌朝、勇者パーティーは重い空気を纏ったまま、進軍を再開した。
彼らの足取りは、昨日までとは異なる、ある種の決意を秘めているかのようだった。
魔王城に近づくにつれ、周囲の森はさらに深く、不気味な静けさに包まれる。
木々は陽光を遮り、地面には苔むした岩が点在し、生命の気配が希薄になる代わりに、濃密な魔力が肌を刺すように感じられた。
それは、魔王城が放つ、抑えきれないほどの存在感だった。
レオの胸中では、魔王城が近づくたびに、内なる葛藤が激しさを増していた。
勇者として討つべき敵である魔王が治める場所。
しかし、彼にとっては、リリスと出会い、魔族の真実の一端を知った場所でもあった。
心臓の鼓動が、普段よりも早く脈打つ。
それは、恐怖と期待、そして避けては通れない運命への、複雑な感情の表れだった。
「気配が濃くなってきたぞ」
エリックの声が響いた。
彼の言葉の通り、空気が重くなり、魔族の気配が明らかに強まっている。
それは、魔王城が築いた強固な結界が近いことを示していた。
結界は、魔族の力を増幅させ、人間が安易に近づくことを許さない。
その証拠に、彼らの周囲からは、小さな魔族のうめき声のようなものが、かすかに聞こえ始めていた。
突然、茂みから数体の低級魔族が飛び出してきた。
彼らは鋭い爪と牙を剥き出しにし、咆哮を上げながら勇者パーティーに襲いかかる。
彼らは、人間を排除しようとする結界の番人か、あるいはただの飢えた獣のような存在だった。
「セレーネ、援護を!」
エリックが叫び、剣を構えた。
セレーネは緊張した面持ちで魔法杖を構え、レオもまた、剣を引き抜いた。
しかし、その動きには、以前のような迷いが明確に見て取れた。
彼の剣の切っ先は、魔族の急所を狙うことを躊躇し、ほんのわずかに逸れる。
一体の魔族が、レオの剣を避け、その隙をついてエリックに襲いかかろうとした。
レオは咄嗟にその魔族の動きを読んで、剣を突き出した。
しかし、その一撃は、魔族の心臓を貫くのではなく、腹部を浅く裂いたに過ぎなかった。
「グアァァァ……!」
魔族は苦悶の声を上げ、地面に倒れ込んだ。
しかし、致命傷ではなかったため、完全に息絶えることはない。
苦しみにのたうつ魔族の姿は、レオの脳裏に、魔王城で見た無邪気な魔族の子供たちの姿を鮮明に蘇らせた。
彼らは、人間と同じように痛みを感じ、血を流し、そして死を恐れる存在なのだ。
レオの顔には、はっきりと苦悶の表情が浮かんでいた。
その瞳は揺れ動き、剣を握る手は微かに震えている。
エリックは、レオの異様な戦いぶりに、さらなる疑問を抱いた。
彼はレオが仕留め損なった魔族を、間髪入れずに正確に貫き、その命を絶った。
その冷徹な一撃は、レオの迷いとは対照的だった。
「レオ、何をしている! こんな所で手加減するな!」
エリックの声には、怒りよりも、焦りが混じっていた。魔王城の結界が近いこの場所で、躊躇いは命取りになる。
セレーネもまた、レオの戦い方に違和感を覚えていた。
彼女は、レオが魔族を倒すことを躊躇しているかのように見えた。
彼女の回復魔法は、未だ不安定な状態が続いていたが、それでも必死に攻撃魔法で援護する。
別の魔族が、倒れた仲間を庇うようにレオに突進してきた。
その魔族は、レオの剣から仲間を守ろうとするかのように、体を投げ出した。
その姿は、まるで人間が大切な者を守ろうとする姿と重なった。
「っ……!」
レオは、その魔族の行動に目を見開いた。
彼は剣を振り下ろすことができず、とっさに切っ先を逸らした。
魔族は、レオの剣が肩を掠めただけで済んだことに安堵したかのように、倒れた仲間を抱きかかえ、そのまま森の奥へと逃げ去っていった。
その光景に、エリックとセレーネは言葉を失った。
「レオ……今のは……」
セレーネが、震える声で尋ねた。
レオは、何も答えることができなかった。
彼は、まるで自分の意志とは無関係に、体が勝手に動いたかのように感じていた。
彼の心は、魔族に対する認識の深い溝の中で、激しく揺れ動いていた。
エリックは、倒れた魔族が残した血痕と、レオの苦悶の表情を交互に見た。
彼の脳裏に、ふと、ある記憶が蘇った。
それは、まだアルスがパーティーにいた頃の出来事だ。
あの時も、小規模な魔族の集団と遭遇した。
その中に、傷を負った幼い魔族を必死に守ろうとする、老いた魔族がいた。アルスは、その光景を前に、剣を構えながらも、敵意ではなく、訝しげな表情を見せていた。
そして、一瞬の躊躇の後、攻撃を仕掛けたが、その一撃は致命傷を与えるものではなかった。
老いた魔族は、幼い魔族を抱きかかえ、そのまま撤退していった。
その時のアルスの表情は、まさに今のレオが魔族に向ける表情と同じようにも感じられた。
何かを探るような、あるいは迷うような、複雑な表情。
エリックは、その時、アルスが何に迷っていたのか、深く考えることはなかった。
ただ、アルスも人間であり、時には感情が揺れ動くこともあるだろう、程度にしか思っていなかった。
しかし、今のレオの姿を見て、エリックはハッとした。
アルスもまた、人間とは異なる存在である魔族の中に、何か「人間的なもの」を見出し、それに戸惑っていたのではないか?
だからこそ、あのような躊躇を見せたのではないか?
エリックは、持ち前の共感力の高さで、レオが抱える葛藤の深さに、初めて気づき始めていた。
(レオは……
何かに迷っている。
俺が思っていたような、洗脳や裏切りとは違う、もっと深い、根源的な迷いだ……)
エリックの疑念の根は、まだ完全に消えたわけではない。
しかし、彼の心の中に、レオに対する新たな感情が芽生え始めていた。
それは、親友への不信感からくる怒りや悲しみではなく、彼の心の奥底に隠された苦悩を理解しようとする、共感と戸惑いだった。
「レオ」エリックは、静かにレオに声をかけた。
その声には、以前のような冷たさはなく、わずかながら、彼の心の変化が表れていた。
「お前は、何にそんなに苦しんでいるんだ?」
レオは、エリックの言葉に顔を上げた。
エリックの瞳には、疑念だけでなく、レオを心配するような色も見て取れた。
その視線に、レオの心は激しく揺さぶられる。
今なら、少しだけなら、真実を話せるかもしれない。
しかし、まだ確証のないことを話して、彼らを混乱させてしまうのは……。
レオは、再び言葉に詰まった。
彼は、まだ真実を語る覚悟ができていなかった。
いや、真実が何なのか、彼自身もまだ見極めきれていないのだ。
その沈黙に、エリックは深くため息をついた。
彼の表情は再び固くなった。
「話せない、か」
エリックは、諦めたように呟いた。
「なら、話せるようになるまで待つしかない。
だが、忠告しておく。
魔王城の結界内では、このような躊躇いは許されない。
お前が剣を鈍らせれば、セレーネも、そして俺も危険に晒される。
分かっているな?」
エリックの言葉は、レオへの最後の忠告だった。
それは、親友としての愛情と、勇者としての覚悟が入り混じった、重い言葉だった。
レオは、その言葉を重く受け止めた。
彼は、自分の迷いが、仲間たちの命を危険に晒すことになるという事実を、改めて痛感した。
セレーネは、二人の間に流れる張り詰めた空気に、ただ息を潜めていた。
彼女には、二人の間で何が起こっているのか、正確には理解できない。
だが、レオの苦悶の表情と、エリックの言葉に込められた重みから、彼らが今、重大な局面に立たされていることだけは理解できた。
魔王城の結界は、もう目の前だった。
周囲の魔族の気配は、さらに濃くなっている。
彼らは、人間を排除しようとする結界の魔力によって、凶暴性を増しているようだった。
レオは、剣を強く握りしめた。
彼の心は揺れ動いているが、今は前に進むしかない。
仲間を守るため、そして彼自身が知った真実の答えを見つけるため。
彼は、自らの内に秘めた葛藤を抱えながら、魔王城へと続く、運命の道を進み始めた。
彼の背後には、彼を信じたいと願いながらも疑念を拭えないエリックと、二人の間に漂う不穏な空気に怯えながらも、彼らに寄り添おうとするセレーネがいた。
三人の間に生じた亀裂は、修復されることなく、彼らを深淵へと引きずり込もうとしていた。




