第76話:進む道
夜明け前、凍えるような冷気が森を覆い、パーティーの心にもまた、重い氷が張り付いていた。
前日の戦闘でのセレーネの魔法の失敗と、それに対するエリックの苛立ち、そしてレオの沈黙は、三人の間に決定的な溝を作り上げていた。
かつては固い絆で結ばれていた勇者パーティーは、今やバラバラの方向を向いているかのように見えた。
荒れ果てた険しい道が、目の前に広がっていた。
彼らが進むべきは、魔族の支配領域の奥深く。
地形はますます起伏に富み、道なき道を進むことが増えた。
岩だらけの急な坂道を登り、深い谷を越え、鬱蒼とした森の中を切り開いていく。
肉体的な疲労以上に、精神的な疲弊が彼らを蝕んでいた。
パーティー内の不和は、日に日に顕著になっていった。エリックはレオからさらに距離を置き、会話は最低限の業務連絡のみ。
その言葉も、冷たく、感情がこもっていない。
彼は常にレオの動きを監視しており、まるで敵国のスパイでも見張るかのような警戒心を隠そうともしなかった。
レオが少しでも遅れれば、鋭い視線が飛んでくる。
レオが魔族に対して躊躇する素振りを見せれば、エリックの剣が間髪入れずに魔族を仕留め、レオに無言の圧力をかけた。
セレーネは、その張り詰めた空気に耐えられなくなっていた。
二人の間に漂う異様な雰囲気は、彼女の心をさらに不安定にさせ、魔法の精度を狂わせる。
何度深呼吸しても、心が落ち着かない。
胸の中に、鉛のような重い塊があるように感じられた。
「ねぇ、二人とも……
いつまでこんなことを続けるの?」
ある時、セレーネはたまらず声を上げた。
彼女の声は震え、瞳には涙が滲んでいた。
エリックは何も答えず、レオは顔を伏せるばかり。
二人の反応に、セレーネは激しい苛立ちを覚えた。
「私たち、パーティーでしょ?
仲間じゃないの?!
なのに、なんでこんなにバラバラなのよ!
何かあったなら、話してよ!
私じゃ力になれないって言うの!?」
セレーネの悲痛な叫びが、森に響き渡った。
しかし、その声は、二人の固く閉ざされた心を打ち破るには至らなかった。
エリックは、セレーネの問いかけに耐えきれないように、視線を遠くへと向けた。
レオは、セレーネの苦しみを間近で見ているにもかかわらず、何も話すことができない自分に、ただ打ちひしがれていた。
(話せない……
まだ、話せないんだ……)
レオの心の中では、リリスの言葉がこだましていた。
「人間と魔族は、互いを理解し、共に生きられる」。
その言葉は、彼が勇者育成学校で教え込まれてきた「魔王は悪の権化であり、魔族は全て滅ぼすべき存在」という絶対的な認識と、激しく衝突していた。
彼の脳裏には、無邪気に笑う魔族の子供たちの顔と、血に飢えた獣のように襲いかかってくる魔族の姿が交互に浮かび上がる。
どちらが真実なのか、彼はまだ確信を持てずにいた。
しかし、確実に言えるのは、魔王城で目にした魔族の日常が、彼の心の奥底に深い疑念の種を植え付けたということだった。
魔王城が近づくにつれて、レオの内なる葛藤は激しさを増していった。
魔王軍との戦いが近づけば、再び魔族の命を奪わなければならない。
その時、彼は以前のように迷いなく剣を振るうことができるのだろうか。
彼は、自分の行動が正しいのか、何が正義なのか、深く思い悩んでいた。
リルは、彼の胸元で、彼の心の揺らぎを敏感に感じ取っていた。
その日の夕暮れ、彼らは荒涼とした岩肌の広がる高台に野営地を設けた。
遠くには、夕日に照らされた魔王城の不気味なシルエットが、ぼんやりと霞んで見えた。
その姿は、彼らにとって長年の目標であり、同時に、レオにとっては避けられない運命の地でもあった。
焚き火を囲み、セレーネが静かに食事の準備をしている。
エリックは、無言で地図を広げていた。
レオは、遠くの魔王城を眺めていた。
その時、エリックが地図から顔を上げた。
その視線は、レオに向けられていたが、そこには以前のような怒りや悲しみではなく、冷徹な決意のようなものが宿っていた。
「レオ、一つ提案がある」
エリックの声が、静かに、だが明確に響き渡った。
セレーネが動きを止め、驚いたように二人の間に視線を向けた。レオは、エリックの視線を受け止めた。
「このまま小さな魔族を倒していても、埒が明かない。
俺たちが求めているのは、魔王を討伐し、魔族の脅威を完全に排除することだ。
そして、お前の真実を知るためにも……」
エリックは一呼吸置いた。
彼の言葉は、まるで固い岩を削り出すかのようだった。
「直接、魔王城に向かう。
それが一番の近道だ」
その言葉に、レオの体がわずかに硬直した。
魔王城。
それは彼が一度囚われ、そしてリリスとの約束を交わした場所だ。
再びそこへ行くことは、彼にとって避けられない運命であり、同時に、彼が隠している全てが露見する可能性を秘めている。
セレーネは息を呑んだ。
「魔王城に、直接?
でも、エリック、それは……
あまりにも危険すぎるわ!
私たちの人数では、無謀よ!」
「無謀ではない」
エリックは、セレーネの言葉を遮った。
「このまま無駄な時間を過ごしている方が、よほど危険だ。
それに、魔王城に到達できれば、必ず魔王と直接対峙できる。
そこで、全てを終わらせる」
エリックの目は、魔王城の方向をまっすぐに見据えていた。
彼の言葉には、レオへの疑念と、それを晴らしたいという強い意志が込められていた。
魔王城へ向かうことは、レオの真実を暴くための、彼なりの最終手段だった。
もしレオが魔王軍と通じているのなら、魔王城でその本性が露わになるだろう。そうエリックは考えていた。
レオは、エリックの言葉を静かに聞いていた。
彼もまた、この膠着状態を打破する必要があることは理解していた。
このままでは、パーティーの絆は完全に崩壊し、互いに不信感を抱いたまま戦い続けることになる。
それは、パーティーにとって何よりも危険なことだ。
(エリックは……
俺を試しているのか?)
レオは、エリックの提案の裏にある意図を瞬時に読み取った。
魔王城へ向かうことで、彼の「裏切り」を暴こうとしている。
しかし、同時にそれは、彼がリリスとの約束を果たすための、新たな一歩にもなり得た。
「分かった」レオは静かに答えた。
「魔王城へ向かおう」
その言葉に、セレーネは驚きの表情を浮かべた。
レオが、エリックの提案をあっさりと受け入れたことに、彼女は戸惑いを隠せない。
彼女は、二人の間に流れる奇妙なまでの協調性に、不穏なものを感じていた。
それは、かつての信頼に基づいた協調ではなく、互いの思惑が絡み合った、危険な同盟のように見えたからだ。
エリックは、レオの返答に満足したかのように、小さく頷いた。
しかし、彼の表情は依然として固く、警戒心を解いていない。
「よし。
明日から、魔王城を目指して進軍する」
エリックは、静かに言った。
セレーネは、不安に顔を曇らせた。
彼女の心は、二人の間に漂う異様な空気に、ますます苛立っていた。
レオの隠し事、エリックの疑念、そしてそれら全てに気づいていながら、何もできない自分。パーティーは、今、かつてないほど大きな試練に直面していた。
夜は更け、月が空高く昇る。
魔王城のシルエットは、闇夜に溶け込み、不気味な存在感を放っていた。
彼らの進む道は、まさにその魔王城へと一直線に繋がっていた。
それぞれの思惑と秘密が交錯する中、パーティーは、避けられない運命の扉を開こうとしていた。
かつての固い絆は、すでに過去のものとなり、三人はそれぞれの覚悟を胸に、沈黙の中で互いを見つめ合っていた。
この旅の終わりに、彼らを待ち受けるのは、希望なのか、それとも絶望なのか。誰も知る由はなかった。




