第75話:沈黙の亀裂
セレーネの魔法が不安定になり、エリックのレオに対する疑念が募る中、パーティーの間に、目に見えない亀裂が深く刻まれ始めていた。
それぞれの胸に秘めた思いと、決して口に出せない秘密が、彼らを隔てる壁となっていた。
レオは、セレーネの涙とエリックの冷たい視線を受け止めながら、深い苦悩の中にいた。
彼は、リリスとの出会いを通じて知った魔族の真実を、今ここで語ることはできなかった。
魔王リリスと交わした「人間と魔族が共存できる世界を築く」という約束は、まだ漠然としたものであり、具体的な方策も、その実現性に対する確証も得られていない。
ただの思いつき、あるいは魔族に洗脳されたと解釈される可能性の方がはるかに高かった。
彼が目にした魔族たちの穏やかな暮らしや、子供たちの笑顔、職人たちのひたむきな姿は、彼にとっては紛れもない真実だったが、それを説明するには、あまりにも説得力に欠けていた。
「魔族にも、俺たちが知らない世界がある」というレオの言葉は、エリックにとっては疑念を深める材料にしかならず、セレーネには恐怖を与えた。
彼らがこれまで信じてきた「魔族は悪」という絶対的な概念は、長年の戦いを通じて彼らの血肉となって染みついている。
それを打ち破るには、彼が提供できる以上の明確な証拠と、揺るぎない覚悟、そして何よりも彼らの理解が必要だった。
しかし、今の状況でそれを求めれば、彼自身が裏切り者の烙印を押され、仲間の信頼を失うだけでなく、最悪の場合、処刑される可能性さえあった。
そうなれば、リリスとの約束を果たすどころか、全てが終わってしまうだろう。
(俺は、どうすれば……)
レオは、夜空を見上げ、深くため息をついた。
ポケットの中のリルは、レオの心の葛藤を感じ取っているかのように、普段よりも静かに佇んでいた。
リルの存在が、彼が魔王城で得た「真実」の証であり、リリスとの約束の象徴である。
しかし、この小さな存在が、同時に彼を孤独へと追いやる要因でもあった。
一方、エリックは、レオへの不信感を募らせるばかりだった。
彼はレオが戻ってきてからの変化を、こと細かに記憶していた。
かつては剣を交えれば互いの呼吸が分かるほどだった親友が、今ではまるで別人のようだ。
魔族を前にして躊躇するレオの姿は、エリックの脳裏に焼き付いて離れない。
エリックは、その疑念を口に出すことはしなかった。
レオを問い詰めても、彼は言葉を濁すばかりだ。
セレーネを抱きしめた時のレオの沈黙は、エリックにとって、彼の「裏切り」を裏付ける決定的な証拠のように思えた。
親友だからこそ、裏切りという可能性を受け入れたくない。
しかし、目の前の事実が、その思いを打ち砕く。
だからこそ、エリックは意識的にレオから距離を置くようになった。
普段の会話でも、エリックはレオとの視線を合わせることを避けた。
食事中も、互いに言葉を交わすことはほとんどない。
地図を広げて今後の進路を話し合う際も、必要最低限の言葉しか発せず、その声には常に冷たさが含まれていた。
それは、レオへの不信感からくる無言の抵抗であり、同時に、親友が変質してしまったことへの深い悲しみでもあった。
エリックは、レオがかつてのレオではないことを認めざるを得なかった。
そして、その原因が魔王軍にあると信じて疑わなかった。
彼は、いつか真実を暴き、もしレオが本当に裏切ったのなら、自分の手で裁く覚悟を決めていた。
セレーネは、レオとエリックの間に流れる氷のような空気に、毎日胃の痛むような思いをしていた。
彼女は、二人が昔のように笑い合う姿をもう一度見たいと願っていた。
しかし、その願いは叶わないばかりか、状況は悪化する一方だ。
セレーネは、エリックがレオに向ける冷たい視線に気づいていた。
そして、レオがその視線から逃れるように顔を伏せる姿も。
二人の間に何があったのか、セレーネは直接尋ねる勇気がなかった。
尋ねて、もし、自分が知りたくない真実を知ってしまったら……。
その恐怖が、セレーネを縛り付けていた。
彼女は、レオが魔王城で何か恐ろしい目に遭い、そのせいで変わってしまったのだと信じ込もうとしていた。
そう信じなければ、レオが自分たちを裏切ったなどという、耐えられない真実を受け入れなければならないからだ。
だが、レオが何も話してくれないという事実が、セレーネの心を締め付ける。
仲間であるはずなのに、なぜ秘密を抱えているのか。
その疑問が、彼女の心を蝕んでいく。
そして、その心の動揺が、彼女の魔法の精度に影響を与え続けていた。
戦闘中、セレーネは再び魔法の失敗を犯した。
魔族の放った火球が、パーティーの陣形を崩し、レオの横を通り過ぎていく。
セレーネは焦って回復魔法を唱えようとしたが、魔力の制御がうまくいかず、魔法陣が途中で消滅してしまった。
「くっ!」
レオが咄嗟に身を翻し、火球を剣で打ち払った。
しかし、その衝撃で体勢を崩し、別の魔族の攻撃をモロに受けてしまう。
レオの腕に、深い切り傷が走った。
「レオ!」
セレーネが悲鳴を上げた。
エリックが素早くレオの前に立ち、迫りくる魔族を両断した。
彼は振り返り、セレーネに視線を向けた。
その目には、怒りよりも、もはや隠しきれない苛立ちが宿っていた。
「セレーネ、しっかりしろ!
こんな状況で魔法を失敗するなんて!」
エリックの言葉は、普段の彼からは考えられないほど厳しかった。
セレーネは、その言葉に凍り付いた。
彼女は、自分がパーティーの足を引っ張っていることを痛感し、顔を真っ赤にして俯いた。
レオは痛む腕を抑えながら、セレーネに駆け寄ろうとしたが、エリックがその前に立ちはだかる。
「レオ、いいから下がっていろ。
セレーネは俺が見る」
エリックは、レオを突き放すように言った。
レオは、何も言い返せなかった。
自分のせいでセレーネが苦しみ、パーティーのバランスが崩れている。
その事実に、彼は胸を締め付けられた。
その日の夜、三人の間には、さらに重苦しい沈黙が横たわっていた。
焚き火の炎が、それぞれの顔に揺れる影を落とす。
レオは、自分が抱える秘密が、いかに大きな亀裂を生み出しているかを痛感していた。
魔族の真実を語れないレオの沈黙。
レオを信じることができないエリックの沈黙。
そして、その二人の間に挟まれ、不安と恐怖に苛まれるセレーネの沈黙。
それぞれの沈黙が、かつての固い絆を少しずつ脆くしていった。
セレーネは、寝袋の中で身を丸めていた。
彼女は、レオとエリックが昔のように笑い合い、冗談を言い合っていた日々を思い出していた。
あの頃は、どんな困難も三人で乗り越えられると信じていた。アルスがいた頃は、もっと……。
アルスの死が、パーティーに暗い影を落とし、そしてレオの帰還が、その影をさらに深くした。
(私は、どうしたらいいの……?)
セレーネは、心の奥底で叫んでいた。
彼女は、この状況を変えたいと強く願っていた。
しかし、どうすればいいのか、その方法が全く見つからなかった。
レオは何も話してくれず、エリックは彼を疑っている。
そして、自分自身も、心の動揺で魔法が使えない。
パーティーは、かつての輝きを失いつつあった。
彼らを結びつけていたはずの「絆」は、今や「秘密」と「沈黙」という見えない鎖によって、雁字搦めにされているかのようだった。
それぞれの心の中に、相手に明かせない「秘密」を抱え、それが「沈黙」となって彼らの間に溝を深くしていく。
レオは、自分が魔王城で見た真実を語るべきか、それともこのまま秘密を抱え続けるべきか、迷いの中にいた。
どちらの道を選んでも、痛みと困難が待ち受けていることは明らかだった。
エリックは、レオがいつ真実を話すのか、あるいは話さないのか、その日を待っていた。
そして、もし話さないのなら、自らその真実を暴く覚悟を決めていた。
セレーネは、ただひたすらに、かつての温かい日々が戻ってくることを願うばかりだった。
月明かりが森を照らし、冷たい夜風が木々を揺らす。
パーティーの未来は、暗く、不透明な闇の中に沈んでいた。彼らは、それぞれの孤独な戦いを、それぞれの「秘密」という重荷を背負いながら、静かに続けていた。
かつての英雄たちは、今や、心の奥底に抱える秘密と、それによって生じた沈黙の亀裂の中で、ただ立ち尽くすしかなかった。




