第74話:魔法の限界
エリックとレオの間に生じた亀裂は、セレーネの心にも静かに、しかし確実に影を落とし始めていた。
彼女は元来、繊細で感受性が強く、パーティーの空気の変化には敏感な方だった。
エリックがレオに向ける視線、レオのどこか上の空な態度、そして何よりも二人の間に漂う、言葉にならない緊張感。
それらがセレーネの心に、小さな棘のように刺さり、じわじわと痛みを広げていった。
特に、アルスの死以来、パーティーを包む雰囲気は重く、レオが魔王城から生還してからも、以前のような明るさは戻っていなかった。
セレーネは、レオが心に深い傷を負っているのだと信じていた。
だからこそ、彼は以前のように無邪気に笑わず、戦闘でもどこか迷いを抱えているのだと。
彼女は、レオを癒やすことこそが自分の役目だと感じていた。
しかし、いくら回復魔法をかけ、優しく言葉をかけても、レオの心の奥底に触れることはできない。
その無力感が、セレーネを苛立たせた。
偵察任務が続き、連日続く魔族との小競り合いの中で、セレーネは自分の魔法の調子が狂っていることを自覚し始めた。
普段なら淀みなく発動するはずの回復魔法の詠唱が、時折途中で途切れる。
攻撃魔法の軌道もわずかにブレ、狙った通りに命中しないことが増えた。
「くっ……」
森の中で小型の魔族と遭遇した際、セレーネは咄嗟に「ライトニングボルト」を放った。
しかし、その雷撃は、わずかに逸れて魔族の足元に着弾し、致命傷を与えることができなかった。
魔族はすぐに体勢を立て直し、こちらに向かってくる。
「セレーネ、危ない!」
エリックの声が響き、彼の剣が魔族を両断した。
エリックは眉をひそめ、セレーネに視線を向けた。
「セレーネ、大丈夫か?
今の魔法、少し遅れたな」
「ごめんなさい、エリック……」
セレーネは顔を俯かせた。
自分の不調が、仲間に迷惑をかけている。
その事実が、彼女の心をさらに重くした。
レオもまた、セレーネの異変に気づいていた。
彼は、セレーネが自分を心配するあまり、精神的に疲弊しているのだと考えていた。
「セレーネ、無理しなくていい。
少し休んだらどうだ?」
レオは優しく声をかけた。
だが、セレーネはその言葉に、むしろ苛立ちを覚えた。
自分が不調なのは、レオのことが心配だからだ。
なのに、彼は何も話してくれない。
「私は大丈夫よ!
ただ、少し集中できないだけ……」
セレーネは、魔法杖をぎゅっと握りしめた。
その日の夜、野営地での休息中、セレーネは一人、魔法の訓練を始めた。
小石を浮かせる「フロート」の魔法。
初歩的な魔法だが、精神集中が欠かせない。
しかし、彼女の目の前で小石はブルブルと震え、すぐに地面に落ちてしまう。
何度試しても同じだった。
「どうして……
どうしてうまくいかないの……?」
セレーネの目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
彼女の心は、激しく波立っていた。
アルスの死。
パーティーの大黒柱であった彼が、あっけなく命を落としたこと。
そして、レオが魔王城に捕らえられ、奇跡的に生還したこと。
その間、魔王城で何があったのか、レオは一切語ろうとしない。
セレーネは、レオが戻ってきた時のことを思い返した。
彼は無傷だった。
顔色も、想像していたよりずっと良かった。
魔王に捕らえられた勇者が、なぜ無傷で戻れるのか。
その疑問が、セレーネの心の奥底に燻っていた。
彼女は、その疑問を心の奥にしまい込み、レオの精神的な疲弊のせいだと自分に言い聞かせてきた。
しかし、エリックがレオに投げかけた疑念の言葉が、セレーネの心の奥深くに眠っていた不安を呼び起こしてしまった。
(レオ……何か隠しているの?
なぜ私達に話してくれないの?)
信じたい気持ちと、裏切られているのではないかという恐怖が、セレーネの心の中で激しく衝突する。
その葛藤が、彼女の魔法の精度を狂わせているのだ。
魔法は、術者の精神状態に大きく左右される。
セレーネの純粋な心は、今の混沌とした状況に耐えきれず、彼女の魔法は悲鳴を上げていた。
「セレーネ」
背後から、レオの声がした。
セレーネは慌てて涙を拭い、振り返った。
レオは心配そうな表情で、セレーネを見つめていた。
「こんな夜遅くまで、どうしたんだ?
訓練か?」
「ええ、少しね……」
セレーネは努めて明るく振る舞おうとしたが、声が震えるのを止められなかった。
レオはセレーネの震える手から魔法杖を受け取ると、そっと彼女の頬に触れた。
「君は頑張りすぎだ。
アルスのことも、俺のことも……
気にしすぎているんじゃないのか?」
その言葉は、セレーネの感情の堰を切った。
「レオ……
お願い、話して。
魔王城で、何があったの?
いったい何があったのよ!?」
セレーネは、レオの胸元を掴み、必死に問いかけた。
その瞳からは、とめどなく涙が溢れ落ちる。
「あなたは……
あなたは、本当に無事なの?
何も、されてないの?
なぜ、何も話してくれないの?
私たち、仲間でしょ?!」
セレーネの問いは、レオの心を激しく揺さぶった。
彼女の純粋な信頼と、それを裏切っているという罪悪感。
リリスとの約束を果たすためには、今は何も話せない。
だが、このままではセレーネまで苦しめてしまう。
「セレーネ……ごめん」レオは、ただそれだけを呟いた。その言葉には、真実を語れない苦しみと、親友を傷つけていることへの後悔が滲んでいた。
「ごめん、じゃないわよ!」セレーネは、さらに声を荒げた。「あなたは変わってしまった。以前のあなたじゃない。私、怖いの……」
セレーネは、レオが魔王軍によって心を変えられてしまったのではないかという漠然とした恐怖に囚われていた。エリックの疑念が、彼女の心にも深い影を落とし始めていたのだ。彼女は、レオが隠している「何か」が、自分たちにとって取り返しのつかない事態を招くのではないかと怯えていた。
レオは、セレーネの言葉に何も返すことができなかった。真実を語れば、彼女はもっと苦しむだろう。しかし、語らなければ、彼女の疑念と不安は募るばかりだ。
エリックは、二人の会話を少し離れた場所で聞いていた。セレーネの悲痛な叫びが、彼の疑念を確信へと変えていく。レオは、何かを隠している。そして、その隠し事が、セレーネの心を深く傷つけ、魔法の力まで奪っているのだと。
「レオ、いい加減にしろ」
エリックの声が、静かな夜の森に響き渡った。その声には、怒りよりも、深い諦めと悲しみが込められていた。
「セレーネをこれ以上苦しめるな。お前が話せないなら、俺たちが真実を突き止めるだけだ」
エリックはセレーネの肩を抱き寄せ、慰めるように背中を撫でた。セレーネはエリックの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。その涙は、レオに対する不信感と、大切な仲間を失うかもしれないという恐怖の涙だった。
レオは、その光景をただ見つめることしかできなかった。親友との絆は、今、まさに音を立てて崩壊し始めていた。セレーネの涙が、レオの心を激しく締め付ける。彼は、自分が選んだ道が、これほどまでに仲間を苦しめることになるなど、想像だにしていなかった。
翌日、パーティーの空気は最悪だった。エリックはレオを無視し、セレーネはレオと目を合わせようとしなかった。彼女の魔法は依然として不安定で、些細な攻撃魔法でさえ失敗することがあった。魔族との戦闘でも、セレーネは精彩を欠き、時折、魔族の攻撃をギリギリで避けるような場面もあった。
「セレーネ、大丈夫か!?」レオは、彼女の不調に気づき、思わず駆け寄ろうとした。
しかし、エリックが間に入り、レオを制した。「お前は自分のことに集中しろ。セレーネのことは、俺が守る」
エリックの言葉は、レオを突き放すものだった。彼とエリックの間に、見えない壁が築かれていた。セレーネは、エリックの言葉に安心したかのように、彼に身を寄せた。その光景は、レオの胸を深く抉った。かつては固い絆で結ばれていた勇者パーティーの仲間たちが、今やレオを拒絶し始めていたのだ。
セレーネは、自分の魔法が使えないことへの焦りを感じていた。アルスがいない今、パーティーの癒やし手として、回復魔法を完璧にこなすことは、彼女にとっての使命だった。だが、今の彼女は、その使命を果たすことができない。心の動揺が、魔法の源である精神力を蝕んでいるのだ。
(私、どうすればいいの……)
セレーネは、森の木々に囲まれた中で、一人途方に暮れていた。アルスの死、レオの異変、そして自分の不調。全てが彼女を追い詰めていた。彼女は、パーティーの未来が、そして自分たちの絆が、このまま壊れてしまうのではないかという恐怖に震えていた。
その夜も、セレーネは眠ることができなかった。遠くで狼の遠吠えが聞こえる。レオとエリックは、それぞれの寝床で沈黙を保っていた。かつては、夜通し語り合ったこともあるのに。セレーネは、あの頃の温かい日々が、もう二度と戻らないのではないかと感じていた。
彼女は、そっと自分の魔法杖を握りしめた。杖の先に、わずかな魔力が灯る。それは、まるで彼女の心の中の、か細い希望の光のようだった。だが、その光はあまりにも弱く、闇に包まれた現状を変えるには、あまりにも頼りなかった。セレーネの心は、絶望の淵へと沈み始めていた。魔法の限界。それは、彼女自身の心の限界でもあった。
パーティーの結束は、確実に崩壊に向かっていた。そして、その中心にいるレオは、ただ見守ることしかできない無力感に苛まれていた。彼が選んだ「新たな道」は、彼自身だけでなく、大切な仲間たちをも巻き込み、深い苦しみを与えていた。




