第73話:過去の影
エリックがレオに「少し話がある」と声をかけた夜、森の野営地には冷たい空気が張り詰めていた。
焚き火の炎がパチパチと音を立てるだけで、二人の間には重苦しい沈黙が横たわる。
セレーネは少し離れた場所で寝息を立てており、彼女の純粋な心には、この場の異様な緊張感は届いていなかった。
エリックの視線は鋭く、レオの顔の奥に隠された真実を探ろうとしていた。
レオは顔を伏せたまま、ポケットの中のリルが小さく震えるのを感じていた。
リルの震えは、レオ自身の心の動揺を映し出しているかのようだった。
「レオ、お前、魔王城で何があったんだ」エリックは、静かに、だが有無を言わさぬ口調で尋ねた。
「俺たちが知るお前は、どんな状況でも諦めない男だった。
なのに、なぜ無傷で戻ってきた?
なぜ、処刑されなかった?
魔王軍は、捕らえた勇者を簡単に解放するような甘い存在じゃないはずだ」
レオは言葉に詰まった。
リリスとの出会い、魔族たちの生活、そして人間と魔族の間に新たな道を築くという約束――
その全てを話すことはできない。
話せば、エリックだけでなく、セレーネも、ひいては王国全体が彼を裏切り者とみなすだろう。
勇者という地位を失うだけでなく、下手をすれば命さえ危ない。
しかし、親友であるエリックに嘘をつき続けることは、レオの心を深く抉る。
「……詳しいことは言えない」
レオは絞り出すように答えた。
「ただ、俺は……
運が良かっただけだ。
それに、魔王軍にも、色々な考えを持つ奴らがいる。
全員が全員、人間を憎んでいるわけじゃない」
その言葉は、エリックの疑念をさらに深めた。
「運だと?
馬鹿を言うな、レオ。
お前はそんな運任せな男じゃない。
そして、『色々な考えを持つ奴ら』だと?
お前は今まで、そんなことを言ったことがあったか?
お前が戻ってきてから、おかしなことばかりだ」
エリックの声には、怒りにも似た苛立ちが混じり始めていた。
「あの時……
アルスが死んだ時も、お前は無謀なまでに時間を稼いだ。
なぜだ?
お前が逃げ出すためだったのか?
それとも……俺たちを見捨てるためだったのか?」
エリックの言葉は、レオの心を深く刺した。
アルスの死は、レオにとっても大きな痛みだった。
彼は仲間を救うために、必死で戦った。
しかし、結果的にアルスは命を落とし、レオは魔王城へと囚われた。
その状況をエリックに疑われることは、何よりも辛いことだった。
「違う!
仲間を見捨てたわけじゃない!」
レオは思わず声を荒げた。
焚き火の炎が、レオの動揺を映すように揺らめいた。
「俺は……
俺はただ、皆を逃がしたかっただけだ!
俺がおとりになれば、お前たちは助かると思ったんだ!」
「本当にそうか?」
エリックは冷たく言い放った。
「それにしては、お前は無事すぎる。
いや、無傷すぎる。
魔王城で一体何があった?
お前は魔王軍と何か取引をしたんじゃないのか?
スパイになったとか、命と引き換えに何かを約束したとか……」
その言葉に、レオは目を見開いた。
エリックがそこまで疑っているとは想像していなかったからだ。
スパイ。
その言葉が、レオの心臓を鷲掴みにした。
彼はリリスとの約束を、エリックが想像するような「裏切り」とは考えていなかった。
むしろ、人間と魔族の新たな道を切り開くための、希望だと思っていた。
しかし、エリックの目には、それが「裏切り」としか映らないのだろう。
「違う!
そんなことはしていない!」
レオは否定した。
だが、彼の言葉には、以前のような力強い響きはなかった。
罪悪感が彼の喉を締め付け、真実を語れない苦しみが全身を蝕んでいた。
エリックは、レオの動揺を見逃さなかった。
彼は一歩レオに近づき、焚き火の光が二人の顔に影を落とす。
「レオ、俺たちは親友だ。
これまで何があっても、お前を信じてきた。
だが、今の言動は、俺がお前を信じ続けることを許さない」
エリックの声は、悲痛な響きを帯びていた。
「お前は変わってしまった。
魔族との戦闘でもそうだ。
以前のお前なら、迷いなく敵を両断していたはずだ。
なぜ、急所を外す?
なぜ、仕留め損なう?
魔族に同情でもしているのか?
それとも、俺たちを騙しているのか?」
エリックは、レオの胸元を掴み、その瞳をじっと見つめた。
そこには、深い失望と、それでも親友を信じたいという葛藤が入り混じっていた。
レオはエリックの視線から逃れることができず、ただ沈黙するしかなかった。
ポケットの中のリルは、レオの震える指先を必死に掴んでいた。
「俺は……
俺は、ただ……」
レオは言葉を探した。
しかし、適切な言葉は見つからない。
真実を語れば、全てが崩壊する。
嘘をつき続ければ、エリックとの絆が壊れる。どちらを選んでも、痛みしか残らない。
エリックは、レオの返答がないことに、さらに疑念を深めた。
彼は、ゆっくりと後ずさった。
「そうか……
話せないか。
なら、もういい」
エリックの声は、完全に冷え切っていた。
「だが、覚えておけ。
もし、お前が俺たちを裏切るような真似をしたなら……
その時は、俺が直接、お前の首を刎ねてやる」
その言葉は、レオの心に重く響いた。
親友からの、これ以上ないほど重い警告。
エリックの言葉には、レオへの愛情と、裏切られた時の深い悲しみが込められていた。
だが、同時に、彼がレオをどれほど疑っているかを示す言葉でもあった。
エリックは、背を向け、自分の寝床へと戻っていった。
焚き火の周りに残されたレオは、一人、闇の中で立ち尽くした。
夜空には満月が輝き、森の木々が風に揺れる音が、レオの心の乱れを一層際立たせた。
(エリック……)
レオは、心の中で親友の名前を呼んだ。
彼を欺いていることへの罪悪感と、理解してもらえないことへの孤独感が、波のように押し寄せる。
彼は、リリスとの約束のために、この道を歩まなければならないと理解していた。
しかし、その道は、想像以上に険しいものだった。
親友の信頼を失い、孤独に戦い続ける。
それが、彼の選んだ「新たな道」の始まりだった。
翌朝、レオ達は再び進軍を再開した。
エリックは、レオに以前のような軽口を叩くことはなく、その視線は常に警戒を含んでいた。
セレーネは、二人の間の張り詰めた空気に気づいていないようだった。
彼女は相変わらずレオを心配し、時折回復魔法をかけてくれた。
しかし、その優しさが、レオの心に重くのしかかる。
偵察任務は、その後も数日間続いた。
小さな魔族の拠点を発見し、時には大規模な集落と遭遇することもあった。
戦闘のたびに、レオの迷いは顕著になった。
致命傷を避ける動きは、もはやエリックの目には明らかだった。
彼は、レオが意図的に魔族を殺していないのではないかとまで考えるようになった。
ある時、レオが斬り損なった魔族が、背後からセレーネに襲いかかろうとした。
エリックは咄嗟に駆け寄り、その魔族を瞬時に仕留めた。
「レオ! 何をしているんだ!」
エリックの怒声が響き渡った。
「セレーネが危なかっただろうが!」
レオは言葉を失った。
彼の迷いが、仲間を危険に晒したのだ。
その事実に、レオは打ちのめされた。
彼は、自分の行動がもたらす結果を、もっと真剣に考えなければならないと痛感した。
リリスとの約束も、魔族の真実も、彼にとっては重要なものだ。
しかし、仲間たちの命が危険に晒されることは、決して許されない。
エリックは、セレーネの無事を確認すると、再びレオに視線を向けた。
その瞳は、もはや怒りだけでなく、深い悲しみを帯びていた。
「レオ……
お前は、本当に変わってしまったな」
エリックは、絞り出すように呟いた。
「あの魔王城で、お前は一体何をされたんだ……」
エリックは、レオが魔王軍によって洗脳されたか、あるいは精神を支配されたのではないかと本気で疑い始めていた。
そうでなければ、これほどまでに親友が変わるはずがない、と。
彼の疑念は、もはやレオが魔王軍と取引をしたというレベルを超え、レオという人間そのものが変質してしまったのではないか、という恐怖へと変わっていった。
夜、再び野営地で火を囲む。
しかし、以前のような和やかな雰囲気は完全に消え失せていた。
エリックはレオから距離を置き、セレーネは二人の間に流れる不穏な空気に、戸惑いと不安を感じ始めていた。
「……何か、あったの?」
セレーネが、おずおずと尋ねた。
エリックは何も答えず、ただ焚き火の炎を見つめていた。
レオは顔を伏せ、ポケットの中のリルを撫で続けた。
リルの小さな温もりが、レオの唯一の慰めだった。
エリックの脳裏には、アルスの死の瞬間の光景が繰り返し蘇っていた。
あの時、レオは俺たちを庇い、自らおとりになった。
それは、まさに勇者の行動だったはずだ。
だが、もし、それが全て仕組まれたものだったとしたら?
レオが魔王軍に捕らえられることも、最初から計画されていたとしたら?
そして、その捕獲を装って、魔王軍と何か密約を結んでいたとしたら?
エリックの心は、疑念の泥沼に深く沈んでいった。
彼は、レオが戻ってきてからの一挙手一投足に、以前は気づかなかった違和感を見出そうとした。
レオの曖昧な言葉、戦闘での不自然な動き、そして「魔族にも……俺たちが知らない世界があるのかもしれないな」というあの呟き。
全てが、エリックの中で一本の線で繋がり始める。
(レオ……
お前は、本当に俺たちを裏切ったのか?)
その問いが、エリックの心の中で何度も繰り返された。
彼は、親友の裏切りという可能性に、打ちのめされそうになっていた。
だが、同時に、もしそれが事実であるならば、決して許してはならないという強い覚悟も芽生え始めていた。
パーティーの絆は、今、まさに崩壊の危機に瀕していた。




