第72話:違和感の始まり
魔王城から生還し、勇者パーティーへと戻って数日が過ぎた。
宿屋の一室で静養を続けるレオの身体は、セレーネの献身的な看病によって、少しずつではあるが回復に向かっていた。
セレーネの回復魔法は、深い傷を癒やすには至らないものの、表面的な切り傷や擦り傷、そして何よりもレオの心の安寧を願う温かい気持ちは、彼の疲弊した心を少なからず癒やしてくれた。
彼女は毎日、温かいスープを作り、薬草を煎じ、レオの枕元に座って、他愛もない話をしてくれた。
「レオ、体はもう大丈夫? 無理はしないでね。
きっと、魔族に捕らえられていた間に、心も体も疲れてしまったのよ。
ゆっくり休めば、きっと元に戻るわ」
セレーネは、レオの曖昧な態度や、時折見せる物憂げな表情を、魔族による監禁生活がもたらした精神的な疲弊だと信じて疑わなかった。
彼女は、レオがどれほど辛い経験をしたかを想像し、彼の心を深く傷つけないよう、決して詮索することはなかった。
ただただ、以前のような明るいレオに戻ってほしいと願い、優しく寄り添い続けた。
その純粋な優しさが、レオの胸を締め付ける。
仲間を欺いているという罪悪感が、日に日に募っていった。
そして、肉体の回復とは裏腹に、レオの心は未だ深い葛藤の中にあった。
瞼を閉じれば、リリスの優しい微笑みが鮮やかに浮かび上がる。
彼女との出会いが、彼の人生を根底から変えてしまった。
魔王城での日々は、彼にとってただの監禁生活ではなかった。
リリスの存在、そして彼女を通して垣間見た魔族たちの生活――
子供たちが無邪気に笑い、職人たちが黙々と働く姿、家族が食卓を囲む温かい風景。
それら全てが、彼がこれまで教えられてきた「魔族は悪」という固定観念を、木っ端微塵に打ち砕いたのだ。
(俺は、今まで何を信じて戦ってきたんだ……?)
その問いが、レオの心の奥底に深く根を下ろし、彼の行動原理を蝕み始めていた。
数日後、レオの容体が回復したと判断され、勇者パーティーは偵察任務へと向かうことになった。
森の奥で、低級魔族の斥候部隊と遭遇。
エリックが先陣を切って突撃し、セレーネが後方から援護魔法を放つ。
レオも剣を構え、かつてのように迷いなく敵へと向かっていこうとした、その時だった。
目の前に飛びかかってきた一体の魔族兵士の顔が、ふと、魔王城で出会った無邪気な魔族の子供と重なった。
その瞬間、レオの動きが、ほんの一瞬だが、明確に鈍った。
かつては、反射的に敵を両断していた彼の剣が、その兵士の胸を貫くことを躊躇し、とっさに切っ先を逸らして、肩を掠めるに留めた。
兵士は苦痛に呻き、地面に倒れ込んだが、致命傷ではなかった。
「レオ! どうした!
動きが鈍いぞ!」
エリックの声が、森に響き渡る。
彼は、レオの僅かな躊躇を見逃さなかった。
エリックの剣が、レオが仕留め損なった魔族兵士を正確に貫き、その命を絶つ。
エリックは眉をひそめ、訝しげな視線をレオに向けた。
その後も、小さな戦闘が何度か続いた。
レオは、以前のような切れ味鋭い剣捌きを見せるものの、その一撃一撃には、どこか迷いが見て取れた。
彼は、敵を殺すことを本能的に避けようとしているかのように、急所を外したり、致命傷を負わせる前に動きを止めたりすることが増えた。
時には、エリックやセレーネが彼を援護し、仕留め損なった魔族を代わりに倒す場面もあった。
「レオ、大丈夫なの?
まだ本調子じゃないのね。
無理しないでいいから」
セレーネは、レオの戦闘での変化を、やはり「疲労」と「精神的なダメージ」のせいだと解釈した。
彼女は、戦いの最中もレオの身を案じ、彼が負傷するたびにすぐに駆け寄って、精一杯の回復魔法をかけてくれた。
しかし、その魔法は、あくまで応急処置程度にしかならず、彼の疲労困憊した肉体と心には、根本的な解決をもたらすものではなかった。
セレーネは、レオの腕にできた擦り傷に薬草を塗ってやりながら、痛ましげな表情を浮かべる。
「まさか、レオがこんなに苦しむなんて……。
私がもっと強い回復魔法を使えれば……」
彼女の言葉は、レオを心配させまいとする優しさに満ちていた。
だが、エリックの瞳は、セレーネとは全く異なるものを見ていた。
エリックは、レオの異変に、ますます疑念を募らせていた。
魔王城からの生還という奇跡。説明を濁すレオの態度。
そして何よりも、魔族との戦闘における、かつての躊躇なき「戦士」とはかけ離れた彼の動き。これら全てが、エリックの心に、深い不信感の種を蒔き始めていた。
(疲労? 精神的なダメージだと?
馬鹿な! レオはそんなにヤワな男じゃない!
俺たちが知るレオは、どんな逆境でも、決して剣を鈍らせるような男ではなかったはずだ!)
エリックは、レオが何かを隠していると強く感じていた。
それは、彼の勘だった。長年の付き合いで培われた、親友の僅かな変化も見逃さない鋭い直感。
エリックは、魔族との戦闘が終わるたびに、レオを観察するようになった。
彼の視線は、レオの表情、目の動き、そして言葉の端々に隠された真実を探ろうとしていた。
ある夜、野営地で火を囲んでいる時だった。
レオが遠くを見つめながら、ふと小さく呟いた。
「魔族にも……
俺たちが知らない世界があるのかもしれないな」
その言葉に、セレーネは「そうね、きっと色々な魔族がいるわ。でも、人間を襲う魔族がいる限り、私たちは戦い続けなければならない」と、いつものように優しく答えた。
だが、エリックは、その言葉に凍り付いた。
レオの口から、魔族を擁護するような言葉が出るとは、夢にも思わなかったからだ。
エリックの脳裏に、最悪の可能性がいくつも浮かび上がる。
レオは、魔族に洗脳されたのではないか?
あるいは、何らかの取引をして、彼らのスパイになったのか?
勇者という立場の彼が、魔族に対してそのような感情を抱いているなど、信じがたいことだった。
彼のレオへの友情と信頼が深ければ深いほど、この違和感は、彼の中で大きな不信へと変化していった。
「レオ、少し話がある」
エリックは、静かにレオに声をかけた。
その声には、かつての親友に向けられる温かさはなく、冷たい探求の響きが混じっていた。
レオは、エリックの視線から逃れるように、わずかに顔を伏せる。
ポケットの中のリルが、レオの心の動揺を感じ取ったかのように、小さく震えた。
勇者パーティーの中に、不協和音が生まれ始めていた。
かつての揺るぎない絆は、レオの隠された真実と、エリックの募る疑念によって、静かに、しかし確実に蝕まれつつあった。




