第70話:別れの決意
静寂に包まれた洞窟の中で、レオは自身の内なる葛藤と向き合い続けていた。
肉体の疲労は極限に達していたが、精神は冴え渡り、彼の心を支配する問題から離れることを許さなかった。
彼は、リリスとの出会いによって覆された自身の世界観と、これまで信じて生きてきた「戦士」としての使命との間で、深く、深く沈思していた。
洞窟の奥から微かに聞こえる水滴の音が、時間の経過を告げる。
夜が明け始め、僅かな光が洞窟の入り口から差し込んでいるのが見えた。
その淡い光が、レオの迷う心に、一つの結論を導き出した。
「俺は……
戻る」
彼の声は、しわがれていたが、その響きには確かな決意が宿っていた。
勇者パーティーへと、いったん戻る。
それは、リリスとの出会いによって得た「魔族が悪ではない可能性」という新たな認識を捨てる行為では決してなかった。
しかし、長年にわたって彼の全てを形成してきた信念や、勇者として背負ってきた責任を、一夜にして完全に手放すことは、あまりにも困難なことだった。
彼は、自身の根幹をなす部分を、そう簡単に切り離すことはできなかった。
何よりも、彼の脳裏には、勇者パーティーの仲間たちの顔が鮮明に浮かんでいた。
エリック。
厳しくも優しい親友であり、常に自分の背中を守ってくれた不器用な男。
セレーネ。
繊細で心優しい癒やしの魔法使いで、どんな時もレオの身を案じ、支えてくれたかけがえのない仲間。
彼らは今頃、レオのことをどれほど心配していることだろうか。
魔王城の奥深くで捕らえられた勇者の行方を案じ、必死に情報を集め、あるいは無謀な救出作戦を立てようとしているかもしれない。
彼らの顔を思い浮かべるたびに、レオの胸は締め付けられるような罪悪感と、深い友情の温かさに満たされた。
(俺は、彼らをこれ以上心配させるわけにはいかない……!)
この強い思いが、彼の背中を押した。
彼は、リリスとの約束を決して忘れることはない。
しかし、その約束を果たすためには、まずこの現状を打破し、自分の立場を再構築する必要がある。
勇者パーティーに戻ることは、一時的にせよ、情報と力を得るための最善の選択肢だと判断したのだ。
彼は、自分が戻れば、彼らがどんな反応をするか、何を尋ねるかを想像した。
だが、真実の全てを語ることはできないだろう。
リリスの存在を、そして彼女との間に芽生えた愛情を、彼らに明かすことは、あまりにも危険すぎた。
彼らを信じていないわけではない。
ただ、彼らのこれまで培ってきた価値観を、一度に覆すことはできないと理解していた。
彼の内なる声は語りかける。
「お前は、もう以前の盲目的な『勇者』ではない。
お前は、この世界の真実の一端を知ってしまった。
ならば、その新しい視点を持って、世界を、そして仲間たちを、別の角度から見つめ直すのだ」と。
彼は勇者パーティーに戻り、彼らが信じる「正義」の枠組みの中で行動しながらも、水面下ではリリスとの再会、そして人間と魔族の間に新たな道を築くための模索を続けるだろう。
それは、偽りの自分を演じる苦しい道かもしれないが、彼がリリスとの未来を掴むためには、避けては通れない試練だった。
レオは、ゆっくりと立ち上がった。
全身の関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
だが、彼の瞳には、新たな決意の光が宿っていた。
彼は、ポケットの中に手を入れた。リルが、彼の指先に触れると、小さく震えているのが分かった。
外の世界の危険を敏感に察知しているのか、それともレオの内なる葛藤を感じ取っているのか。
「大丈夫だ、リル」
レオは、リルの小さな体を優しく包み込むように撫でた。
「必ず、リリスの元へ、また行く。
そのために、俺は今、やるべきことをやる」
その言葉は、リルに語りかけるというよりも、自分自身に言い聞かせているようだった。
リルの温もりが、彼の手のひらに、リリスの存在を強く感じさせる。
それは、彼の進むべき道の羅針盤であり、決して揺らぐことのない決意の象徴だった。
彼は洞窟の入り口へと向かい、外の世界へと一歩を踏み出した。
朝の光が、木々の隙間から差し込み、森の中に神秘的な陰影を描いている。
空気はひんやりと澄み、土と植物の匂いが混じり合う。
後ろには魔王城の威容が、まるで彼の背中を押すかのようにそびえ立っていた。
再び旅立つ彼の足取りは、まだ重い。
しかし、その一歩一歩には、明確な目的と、固い決意が込められていた。
勇者パーティーとの合流を目指して森を後にするレオ。
彼の胸には、親友への思いやりと、そして何よりも、愛するリリスとの再会を誓う燃えるような決意が宿っていた。
彼は、これまでの自分を完全に捨てることはできない。
だが、これからの彼は、間違いなく、これまでとは異なる「戦士」として、新たな道を歩み始めるのだ。




