第65話:危険な遭遇
魔王城の地下に広がる、古い排水路への通路は、想像以上に暗く、そして湿り気を帯びていた。
レオは、リリスが指し示した闇の裂け目に足を踏み入れた途端、鼻腔を襲う強烈なカビと土の匂いに顔をしかめた。
ひんやりとした空気が肌を撫で、足元は滑りやすい苔と泥で覆われている。
天井は低く、時折、冷たい水滴がポタリと落ちてくる音が、不気味なほど響き渡った。
レオは、懐中から僅かに光を放つ魔石を取り出し、足元を照らした。
その微かな光が、通路の壁面にびっしりと生えた、ねっとりとした緑色の苔をぼんやりと浮かび上がらせる。
彼は、壁に手を添え、慎重に、しかし素早く足を進めた。
リリスは、レオのすぐ後ろにぴったりと寄り添い、その存在を気配でしか感じ取れないほど静かに動いていた。彼女の吐息が、レオの首筋にかすかに触れるたび、極度の緊張の中に、わずかな安堵と温もりが混じり合った。
狭く、曲がりくねった通路をしばらく進んだ時だった。
突然、通路の奥から、低く唸るような声と、重い足音が響いてきた。
それは、彼らが先ほど廊下でやり過ごした衛兵の足音とは異なり、より近く、そして確実にこちらへ向かってきている音だった。
レオの全身に、一瞬で冷たい電流が走った。
心臓が、まるで喉から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。
「――ッ!」
彼は、とっさに壁際に身を寄せ、闇に紛れ込もうとした。
しかし、この排水路には、身を隠せるような大きな物陰はほとんどない。
その焦りから、レオは思わず、腰に隠し持っていた、短剣の柄に手をかけた。
長年染み付いた、敵と遭遇したら「排除する」という本能が、彼を突き動かしたのだ。
その瞬間、リリスの小さな手が、レオの短剣を握る手に、強く重ねられた。
彼女の手は、見た目に反して確かな力強さで、彼の動きを制した。
「待って、レオ!
戦うべきじゃない!」
リリスの声は、震えていたが、その瞳には明確な意思が宿っていた。
彼女は、レオの目を見つめ、無言で「信じて」と訴えかけているようだった。
魔族の衛兵の姿が、通路の曲がり角から現れた。
その体躯は、狭い通路をさらに圧迫するかのように巨大で、暗闇の中で角と目が鈍く光っていた。
二人の衛兵は、油断なく周囲を警戒しながら、ゆっくりとこちらへ向かってきている。
リリスは、レオの耳元に顔を寄せ、ほとんど聞こえないほどの声で囁き始めた。
その声には、一切の迷いがなかった。
「彼らは、視覚よりも嗅覚に頼るタイプの魔族よ。
そして、この狭い通路では、特定の高周波の音を脳が処理しきれずに、聴覚が一時的に鈍る特性があるの。
見て、あの壁の右側の苔、あそこだけ少し乾燥しているわ。
衛兵は嗅覚で水気を避けて、そちらの壁伝いに歩いてくるはずよ。
だから、私たちは左側の、この湿った苔の上を、足音を立てずに、ゆっくりと進むの。
そうすれば、足音を苔が吸い込み、衛兵の匂いに紛れて、気づかれないわ」
リリスの言葉は、レオにとって衝撃だった。
彼は、長年「悪しき魔物」として教え込まれてきた魔族の、その種族ごとの特性や習性を、彼女がこれほどまでに詳しく把握していることに驚愕した。
そして、その知識を、瞬時にこの絶体絶命の状況で応用し、完璧な回避策を導き出した彼女の冷静な判断力と知性には、ただただ感嘆するばかりだった。
レオは、リリスの手を握りしめ、無言で頷いた。
彼の脳裏で、「戦うべきではない」というリリスの言葉と、彼女の示す戦略が、彼の勇者としての本能を凌駕していく。
魔族の衛兵が、すぐそこまで迫っていた。
彼らの呼吸音、鎧の擦れる音、そして微かな足音が、レオの耳に直接響いてくる。
レオは、リリスの指示通り、左側の湿った苔を踏みしめながら、一歩、また一歩と、極限まで重心を低くして進んだ。
足音は、ほとんど聞こえない。
衛兵の巨体が、すぐ目の前を通り過ぎる。
その巨大な影が、レオとリリスを完全に覆い隠す。
リリスは、レオの手をそっと引いた。その指先が、彼の手の甲を優しく撫でる。その動きは、彼に「今よ」と告げているかのようだった。
レオは、息をひそめ、衛兵の死角を正確に突いて、静かに、そして迅速にその場を通り抜けた。衛兵は、何の異変にも気づかず、そのまま通路の奥へと歩き去っていった。
衛兵の気配が完全に消え去ると、レオは、へたり込むように壁に背をもたれた。全身から、張り詰めていた緊張が一気に解け、冷や汗がどっと噴き出す。リリスもまた、彼の隣で、小さな安堵の息を漏らした。
「……助かった」
レオは、震える声で呟いた。
そして、改めてリリスを見つめた。
彼女の瞳は、暗闇の中でも、深く澄んだ輝きを放っていた。
彼の心には、彼女への感謝と、言葉では言い表せないほどの深い愛情が湧き上がっていた。リリスの冷静な判断力と、魔族としての知識は、彼がこれまで見てきたどんな勇者の力よりも、この状況で頼りになるものだった。
「レオ、大丈夫?」
リリスが、心配そうにレオの顔を覗き込んだ。
その優しい声と、瞳に宿る温かさに、レオの心は深く癒された。
この危険な脱獄の最中、彼の唯一の光は、リリスの存在だった。
彼は、彼女の手をそっと握りしめ、その温もりを確かに感じた。
この絆こそが、彼を支え、未来へと進む原動力だった。
二人は、再び顔を見合わせ、静かに頷き合った。
言葉は必要なかった。互いの心に宿る、揺るぎない信頼と、共にこの困難を乗り越えようとする覚悟が、すべてを物語っていた。
彼らは、排水路の奥へと、再び歩みを進めた。
道のりはまだ長い。
しかし、彼らの間には、どんな障害も乗り越えられるという、確かな絆が生まれていた。




