第64話:夜の闇
長い、長い一日が終わり、魔王城は深い夜の静寂に包まれていた。
城の巨大な影が闇に溶け込み、月明かりも届かない地下牢の奥は、重苦しい空気に満たされている。
この夜が、レオとリリスが共に築き上げた脱獄計画の、実行の時だった。レオの心臓は、まるで自らの意志を持つかのように、激しく鼓動を打っていた。しかし、その鼓動は、恐怖だけではなかった。リリスと共に未来を切り拓くという、揺るぎない決意が、彼の全身に熱い血を巡らせていた。
最後の衛兵の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったのを確認すると、リリスはレオに小さく頷いた。その目には、緊張の光と、確かな覚悟が宿っていた。
レオは、深呼吸をして、あらかじめリリスから渡されていた、細く加工された硬い木片を取り出した。それは、一見するとただの木片だが、その先端は何度も研磨され、鍵穴の隙間に差し込むのに十分なほど細くなっていた。
「いくぞ…」
レオは、ごく小さな声で呟くと、鍵穴に木片を差し込んだ。慎重に、そして正確に、彼は計画通りに内部の構造を読み取り、細工を施した。
カチャリ、と微かな音が牢獄の静寂に響いた。まるで、氷の膜が割れるような、乾いた、しかし決定的な音だった。その瞬間、二人の間に通じる緊張の糸が、最高潮に張り詰めた。
鉄の扉が、ゆっくりと、しかし確実に開いた。錆び付いた蝶番が、微かに軋む。レオは、その音を最小限に抑えるため、扉の重さを全身で支えながら、ゆっくりと押し開いた。
牢獄の外は、計画通り、闇に包まれていた。廊下を照らす魔石の明かりも、この時間にはごくわずかしか灯っておらず、影が深く、長く伸びていた。
レオは、まず、細心の注意を払って外の様子を窺った。空気の匂い、微かな風の流れ、そして遠くから聞こえる、ごくかすかな物音。すべてを神経を研ぎ澄まして感じ取る。
左のポケットの中では、リルが、彼の行動を静かに見守っていた。その小さな重みが、レオに確かな安堵と、共に戦う仲間がいるという心強さを与えていた。
リリスは、レオの背後にぴったりと寄り添い、その存在を闇に溶け込ませるように静かに息を潜めていた。彼女は、レオの腕にそっと触れ、わずかに身を屈めて、城の奥へと続く闇を指し示した。
「あっちよ、レオ。
地下通路の入り口は、この先の突き当たりを右に曲がった場所にあるわ」
彼女の声は、夜の闇に吸い込まれるような囁きだった。
その声が、レオの耳元で微かに響くたび、彼の心臓は跳ね上がった。
それは、高まる緊張のせいでもあったが、同時に、こんな極限の状況でも、リリスの存在がこれほどまでに近くにあることへの、抗いがたい高揚感でもあった。
彼は、リリスが指し示す方向へ、一歩ずつ、音を立てないよう慎重に足を進めた。
廊下の石畳は冷たく、彼の裸足に直接その冷気が伝わってくる。
微かな湿り気を含んだ空気が、彼の肌を撫でた。
訓練の成果は、この場で発揮された。
レオの足音は、ほとんど地面に吸い込まれるかのようだった。重心を低く保ち、身体を揺らさないように、彼は闇に溶け込む影のように進んだ。
突然、遠くから重い足音が近づいてくるのが聞こえた。
レオの全身に、一瞬で緊張が走った。リリスもまた、彼の背後で息を詰めているのが分かった。計画では、この時間帯は警備が手薄なはずだった。しかし、万が一ということもある。
レオは、とっさに近くの柱の影に身を隠した。
リリスも、彼と一体となるように、その小さな体をレオの背にぴたりと寄せた。
狭い影の中、二人の体が触れ合う。リリスの柔らかな髪がレオの頬をかすめ、その微かな体温が、彼の緊張した神経をわずかに鎮めた。
魔族の衛兵は、角の生えた大柄な姿だった。
彼らはゆっくりと歩き、時折、唸るような低い声で言葉を交わす。彼らの足音は、レオたちの隠れている場所を通り過ぎ、やがて遠ざかっていった。
「……危なかったわ」
衛兵の気配が完全に消えたことを確認すると、リリスが震える声で囁いた。
彼女の言葉が、レオの耳元で、まるで甘い誘惑のように響いた。彼の心は、彼女の恐怖を感じ取り、同時に、その儚さと健気さに、深い愛おしさを覚えた。
彼は、リリスを抱きしめたい衝動に駆られたが、今はまだ、その時ではない。彼はただ、彼女の肩をそっと抱き寄せ、無言で「大丈夫だ」と伝えた。彼女の体から伝わる温もりが、レオの決意を一層強くした。何があっても、この女性を守り抜くと。
再び歩き始めると、彼らは城の構造が徐々に変化していることに気づいた。
地下牢の粗雑な石壁から、徐々に磨かれた石材へと変わり、天井も高くなっている。
魔王城の奥深くへと進むにつれて、空気はさらに冷たくなり、微かなカビの匂いが混じり始めた。
彼は、リリスが事前に教えてくれた、古い排水路につながる通路の入り口を探した。
それは、一見すると何の変哲もない壁の一部だったが、よく見ると、他の場所とは異なる微細な亀裂が走っていた。
「ここよ。
この奥が、古い排水路につながっているはず」
リリスが指差した場所は、光の届かない、深い闇の裂け目だった。その裂け目の奥からは、湿った、かすかな土の匂いがした。
レオは、決意を新たに、その闇の奥へと足を踏み入れた。
彼の心臓は、依然として激しく鼓動していたが、その鼓動はもはや恐怖からくるものではなかった。
真実へと向かう、彼自身の覚悟の音だった。
そして、彼の隣には、彼のすべてを理解し、信じてくれるリリスがいた。
二人でなら、どんな闇も乗り越えられる。そう、レオは確信していた。




