第62話:二人の約束
牢獄の冷たい石壁に背をもたれ、レオはぼんやりと天井を見上げていた。
数日前の激しい頭痛は収まったものの、心の奥底で渦巻く混乱は、一向に晴れる気配を見せなかった。
魔族たちが見せた、そっけないながらも人間的な温かさ。
そして、脳裏に焼き付いた、セレーネからの執拗ないじめや、アルスの死といった、人間がもたらした冷酷な記憶。
そのどちらが「真の悪」なのか、彼の心は激しく揺れ動き、明確な答えを見出すことができなかった。
このまま、ただ牢屋の中で、過去の記憶と現在の現実の間で苦悩し続けていても、何も解決しない。そう強く感じた。
彼は、自らが信じてきた「勇者」としての正義が、何者かによって作り上げられた偽りである可能性に直面していた。
そして、その偽りの根源が、どこにあるのか、誰が仕組んだのかを、このまま閉じ込められたままでは決して突き止めることはできないだろう。
彼は、真実を知りたいと願った。
なぜ、人間は魔族を憎むように教え込まれたのか。
なぜ、彼自身が「悪」というレッテルを貼られた魔族と、こうして心を通わせているのか。
その疑問の答えを見つけ出すためには、行動を起こすしかない。
深い息を吐き出し、レオは決意を固めた。
「このまま、ここにいるわけにはいかない」
彼が再び、リリスの訪問を待った。
いつものように食事を運んできたリリスの姿を見て、レオはゆっくりと口を開いた。彼の瞳には、今までとは異なる、強い意志の光が宿っていた。
「リリス、俺はここを出る。
そして、いったん勇者パーティーに戻るつもりだ」
リリスは、レオの言葉に目を見開いた。
彼女の美しい青い瞳には、驚きと、そして微かな不安の色が浮かんだ。彼女は食事の皿を置いたまま、無言でレオの言葉の真意を測るように、じっと彼の顔を見つめた。
「どうして……?
危険すぎるわ。」
リリスの声には、明らかな動揺が混じっていた。
レオの安全を何よりも願う彼女にとって、その言葉はあまりにも唐突で、そして危険な選択に思えたのだろう。
レオは、リリスの不安げな表情に、心を痛めた。
しかし、この決意は、彼自身の心の奥底から湧き上がってきた、偽りのない真実だった。
彼は、彼女の手をそっと取り、その柔らかな指先を強く握りしめた。
「分かってる。
でも、このままここにいても、何も変わらない。
俺は、自分が信じてきたものが本当に正しいのか、そして、何がこの世界の真実なのかを知りたいんだ。
人間が魔族を憎むようになった理由、俺が勇者として育てられた理由……
全てを、自分の目で確かめたい」
レオの言葉には、迷いがなかった。
彼の心は、もはや過去の固定観念に囚われることはなく、真実を求める純粋な情熱に突き動かされていた。
そして、その探求の根底には、リリスへの深い愛情があった。
彼が真実を知り、世界を変えることができれば、いつか必ず、リリスと共に心穏やかに生きられる日が来るはずだと、彼は強く信じていた。
この愛が、彼を突き動かす原動力となっていた。
「そして……
俺は、この世界を、君が安全に暮らせる場所にしたい。
そのためには、人間と魔族の間の誤解を解く必要がある。
勇者パーティーに戻ることで、俺は人間の世界の内側から、この状況を変えるための手がかりを探したいんだ」
リリスは、レオの真剣な眼差しから、彼の決意の固さを感じ取った。
彼の言葉の端々から伝わる、彼女への深い思い。
そして、この世界を変えようとする、純粋で揺るぎない彼の信念。
リリスの心の壁が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
彼女は、レオがどれほどの苦悩を乗り越えて、この決断に至ったかを理解した。
彼が真実を求めるのは、決して自分自身のためだけではない。
彼女のため、そして魔族と人間の未来のためでもあるのだと。
リリスは、静かに頷いた。
「分かったわ、レオ。
あなたの決意、私には痛いほど伝わってきた。
私にできることなら、何でも協力するわ。
あなたが真実を見つけ、そして、あなたが望む世界を築けるように」
彼女の言葉は、レオの心を温かく包み込んだ。
それは、単なる同意ではなかった。
彼への深い信頼と、共に未来を切り開こうとする、揺るぎない覚悟が込められていた。
リリスの瞳は、不安の色を消し去り、レオと同じ、強い決意の光を宿していた。
「ありがとう、リリス……」
レオは、リリスの手を握りしめ、その温もりに確かな絆を感じた。
この瞬間、彼らの間には、脱獄という新たな目標だけでなく、互いへの深い絆、そして未来への確かな「約束」が生まれた。
それは、言葉以上の、魂と魂が結びつくような誓いだった。
その日から、二人の間には、脱獄計画に関する秘密の会話が交わされるようになった。
リリスは、魔王城の構造や警備の状況、牢獄の見回り時間など、レオが外部からでは知り得ない情報を詳細に伝えた。
時には、彼女が持つ小さな魔術の知識を使って、レオが脱出するための補助的な手段を提案することもあった。
リリスは、レオが勇者としてではなく、一人の人間として、そして何よりも「愛する人」として、真実を追い求める姿に深く共感していた。
彼女は、レオの苦悩を一番近くで見てきた。だからこそ、彼の決意を支え、彼の隣で共に歩むことを選んだのだ。
脱獄への道は、決して平坦ではないだろう。
しかし、レオはもはや一人ではなかった。
彼には、リルという小さな心の支えがあり、そして何よりも、リリスというかけがえのない存在がいた。
彼女の信頼と愛情が、彼の背中を力強く押していた。
二人の間に生まれた、この新たな約束は、レオの心に、これまでになかった希望の光を灯し、彼の揺るぎない決意をさらに強く固めたのだった。




