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第61話:人間との比較

 激しい頭痛と吐き気が、ようやく収まり始めた頃、レオは、リルの温かい温もりに包まれながら、かすかな安堵の息を漏らした。


 意識はまだぼんやりとしていたが、リルの存在が、彼の心を覆う嵐の中で、唯一の静かな港となっていた。


 しかし、心の奥底で渦巻く「魔族=悪」という過去の教えと、リリスが示した「真実」との間の葛藤は、依然として彼の精神を激しく揺さぶっていた。


 数日後、レオの牢獄に現れたのは、いつものリリスではなく、見慣れない牢屋番の魔族だった。


 その魔族は、見るからに厳めしい顔つきをしており、体躯もレオより一回り大きい。全身を覆う深い緑色の鱗は、照明の加減で鈍く光り、鋭い爪が生えた指先は、鉄格子を掴むたびにカチャカチャと音を立てた。


 いかにも「魔族」といった風貌で、レオがこれまで本で見てきた「悪しき魔物」の姿そのものだった。


「飯だ。食えるもんなら食え」


 その魔族は、無愛想にそう言い放ち、ドスンと音を立てて食事の皿を置いた。声は低く、どこかぶっきらぼうな響きがあった。


 しかし、その手つきは、どこか遠慮がちに、レオの寝ている場所から少し離れた場所に皿を置いた。

そして、去り際に、レオの古びた毛布を見て、一瞬だけ眉をひそめると、無言で新しい、分厚い毛布を投げ入れていった。


 それは、言葉にすれば何でもない行為だった。しかし、そのぶっきらぼうな優しさに、レオは戸惑いを覚えた。


 この魔族は、レオにとって「敵」であり、人間を苦しめる存在のはずだ。

しかし、彼が見せた「親切」は、レオが今まで教えられてきた「魔族」のイメージとはかけ離れていた。


 彼らの行動には、個々の意思や感情が宿っているように見えた。


 また別の日のことだった。廊下を通りかかった若い魔族の兵士が、ふとレオの牢獄の前で立ち止まった。


 その兵士は、角の生えかけの青年で、どこか好奇心に満ちた瞳でレオを覗き込んだ。


「おい、人間。お前が戦士ってやつか? 

あんまり強そうに見えないな」


 そう言って、クスクスと笑った。

侮蔑の言葉ではなかった。まるで、珍しいものを見るような、純粋な興味がその声には含まれていた。


 レオは、その悪意のない問いかけに、思わず言葉を詰まらせた。人間であれば、嘲笑するか、あるいは憎悪の目を向けるだろう。


 だが、この若い魔族は、まるで友達に話しかけるかのように、何の感情も込めずにそう言ったのだ。


 さらに、通りかかった魔族の老人が、レオの牢獄の前で立ち止まり、ゆっくりと杖をついた。


「人間よ。この城の暮らしはどうじゃ? 

わしらの料理は口に合うかの?」


 その声は穏やかで、レオを気遣うような響きがあった。老人の顔には、深い皺が刻まれ、その瞳には、長きにわたる人生で培われたであろう知恵と、どこか諦めにも似た優しさが宿っていた。


 彼らは、レオがこれまで考えてきたような、ただ残忍で、人間を苦しめることしか考えない「悪」の存在ではなかった。


 それぞれに個性があり、感情があり、そして人間と同じように、日々を生きている、生身の存在だった。

リリスが語ってくれた魔族の「日常」は、今、レオの目の前で、現実として形を成し始めていた。


 魔族たちが見せる、そっけないながらも、ふとした瞬間に垣間見える温かさ。


 それが、レオの心をさらに激しく揺さぶった。彼は、脳裏に刻まれた、人間たちからの「冷酷さ」を思い出した。


 勇者育成学校での、セレーネからの執拗ないじめ。


 セレーネは、いつもレオを標的にした。廊下でわざとぶつかってきて、彼が持っていたものを撒き散らしたり、食事の際に彼の分だけを盗んで食べたり、教科書を隠したりした。


 彼女の顔には、いつも嘲笑が浮かんでおり、その冷たい瞳には、一切の慈悲もなかった。

周囲の生徒たちは、見て見ぬふりをするか、あるいはセレーネに同調して、陰でレオを笑っていた。


 その孤立感と屈辱は、レオの心を深く蝕んだ。

彼は、人間であるはずのセレーネから、そして周囲の人間たちから、まるで存在を否定されるかのような冷酷な仕打ちを受け続けてきたのだ。


 そして、魔族に対する人間たちの冷酷さ。


 学校で教え込まれたのは、「魔族は悪」という一方的な真実だけだった。


 教師たちは、魔族を「邪悪な存在」「殲滅すべき敵」と声高に叫び、生徒たちはそれを何の疑いもなく信じ込んだ。


 町に出れば、魔族を誹謗中傷するビラが貼られ、魔族の討伐を称える歌が響き渡っていた。

人間たちは、魔族を「悪」と決めつけ、その存在そのものを否定し、一方的に攻撃してきた。


 そこに、対話の余地も、理解しようとする姿勢も一切なかった。レオ自身も、以前はそう信じて疑わなかった。


 何よりも、彼の心に深く刻まれているのは、親友アルスの死だ。


 アルスは、レオにとって唯一無二の理解者であり、心の支えだった。彼の明るい笑顔、優しい言葉、そして共に勇者になるという夢。


 アルスの死は、レオの心を打ち砕き、彼の世界を暗闇に突き落とした。


 その死は、勇者としての「正義」を信じ、魔族と戦うことに意味を見出していたレオにとって、大きな矛盾と苦痛の始まりだった。


 彼は、アルスを失った悲しみの中で、漠然と「何かがおかしい」と感じ始めていた。


 なぜ、アルスは死ななければならなかったのか。

なぜ、このような悲劇が繰り返されるのか。


 それは、人間と魔族の間の「正義」と「悪」という単純な構図では説明できない、深い闇をはらんでいるように思えた。


 魔族の温かさ、人間たちの冷酷さ。


 リリスが示した真実の光、そしてリルが彼に与える無言の支え。


 レオは、頭痛に耐えながら、これら全ての要素が彼の脳裏で激しく交錯するのを感じた。


 自分が信じてきた「正義」は、本当に正しかったのか?


 魔族が「悪」であるという教えは、一体誰が、何のために作り上げたものなのか?


 彼は、どちらが本当の「悪」なのか、完全に分からなくなっていた。

彼の心は、もはや善悪の二元論では割り切れない、複雑な感情の渦に囚われていた。


 それは、苦痛であったが、同時に、彼が真実へと一歩ずつ近づいている証でもあった。

彼の視界は、これまで覆われていた霧が晴れるように、少しずつ広がり始めていた。


 しかし、この混乱の先に、彼を待つものは何なのか。

レオにはまだ見えない。


 だが、リリスへの揺るぎない愛情だけが、彼を支え、真実の探求へと駆り立てる唯一の原動力となっていた。

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